男の子として産まれた女性モデル

ジーナ・ロセロ氏(以下、ロセロ):世界によって自分らしさを曲げられてしまうことはありますが、心の中では本当の自分を知っています。「どうすれば自分らしくなれるだろう?」私はそういう事柄においては変わってるかもしれません。でも私独りではありません。独りではないのです。

私がファッションモデルになった時は、小さい頃からの夢が叶ったと達成感を感じていました。私の「外側」が、私の内面や性別と一致したからです。複雑な理由については後ほど説明します。

当時この写真を見た私は「ジーナ、ついにやりとげた! ここまで来たのね!」と自分に言いました。でもある10月、私はまだまだこれからなんだと悟りました。

私たち全員が、家族や宗教、社会、歴史の瞬間、自分自身の体によってでさえも、自分を型に閉じ込めています。何人かは自分の肌の色や信条など、彼らを取り巻くものによる制限を受け入れない、自由になる勇気を持っています。

それらの人々は常に現状で許容できると考えられているものを変える脅威となります。私の場合、ここ9年間、私のいくつかの隣人達や友人、同僚、ましてや私のエージェントでさえ私の歴史を知りませんでした。ミステリー小説の中で、これは「真相解明」に当たるんだと思います。

これが私の過去。私は男の子として産まれました。私の生殖器からの判別によって男の子だと判断されました。今でも覚えています、自分が5歳の頃、フィリピンにて家の中でTシャツを頭にのっけて歩き回っていました。

母が「どうしていつもTシャツを頭にのっけているのよ?」と訊きました。それに私は「ママ!これは私の髪よ。私は女の子なの」と答えました。当時の私はどのように個性を表現するか知っていたんです。

ジェンダーとは常に、変えることができない事実として受け取られていました。現代ではそれが実際よりより流動的で、複雑で神秘的なものとして受け止められています。

手にした成功ゆえに、私は自分の話を共有する勇気がありませんでした。それは私が間違っていると思ったからではなく、自由になる勇気を持った人々に対する世界からのリアクションがどうなるかを知っていたからです。毎日、私は女性であることにとても感謝しています。

私を受け入れてくれる母、父、家族がいます。でも、多くの人はそう恵まれてはいません。

突然、美人コンテストの世界に

アジア文化には、性別の流動性の神秘を祝う長い伝統があります。仏教の慈悲の女神があり、ヒンズー教のヒジュラ女神があります。私が8歳の時にこれらの神秘を祝う祭りに参加しました。

私はステージの前にいて、この美しい女性が私の前に現れたのです。何かが私の心を打ちました。それこそが私がなりたい様な女性です。

15歳の頃、まだ男の子の格好をしてた時、私はT.L.という女性に出会いました。彼女はトランスジェンダー美人コンテストのマネージャーで、ある夜私に訊きました。

「あなたが美人コンテストに参加していないなんてどうして?」

彼女はもし私が参加したら参加費や洋服代の面倒は見てあげると言い、説得しました。

そしてその夜、私は水着審査で1位、ロングドレスで1位、40人強の候補者の中で2位という成績を収めました。

あの時、私の人生は変わりました。突然、私は美人コンテストの世界に引き合わされました。初めての仕事がトランスジェンダー美人コンテストの女王だという人はそう多くないと思いますが、喜んでその名誉を頂戴します(笑)。

なので、15~17歳の間、私は最も権威のある美人コンテストから、トラックの荷台でやる美人コンテストまで、いろいと挑戦してきました。時には田んぼの道端などでも行われました。

フィリピンは良く雨が降るんですが、雨の時は運営者がコンテストをだれかの家に移して行わなければならないこともありました。

私はその時に見知らぬ人の良さ、特にフィリピンの遠い田舎に行った時の良さを経験しました。でも一番重要なのは、そのコミュニティで何人か親友に出会えたことです。

2001年、私の母はサンフランシスコに移住し、私の永住ビザの申請が通ったことを伝えました。私はアメリカに移住できるようになったのです。

アメリカで性別を変えるには手術を受けなくてはいけない

でも私は断りました。「ママ、私は今ここでの生活が楽しいの。友達がいるし、旅行も、美人コンテスト女王になるのもとても気に入ってる」と話しました。しかし2週間後、彼女から「もしアメリカに渡ったら、名前と性別表記を変えられることを知ってる?」と電話が来ました。

それこそ私が必要とした情報でした。私の母は続けて、名前に「E」を2つ続けて付けることを言いました。彼女は私が19歳の時、タイでの手術についてきてくれました。面白いことにタイのかなり田舎の地域に、最も権威ある安全で洗練された手術を受けれる場所があるのです。

その時、アメリカでは名前と性別を変えるには手術を受けなくてはいけませんでした。2001年、私はサンフランシスコに渡りました。自分のカリフォルニア州運転免許証にジーナの名前と女性を示す「F」マークを見たのは衝撃的な瞬間でした。

多くの人にとって、彼らの身分証は運転するためか、お酒を買うための物かもしれませんが、私には違います。それは生活のため、尊厳を得るための存在です。私は突然恐れが消えて、自分が夢を達成し、ニューヨークに移ってモデルになれるような気がしました。

トランスジェンダーの自殺率は一般の9倍

多くの人はそう幸運ではありません。アイラン・ナトルズという女性のことを思い出します。彼女はニューヨーク出身で、勇敢に彼女の真実のもと生活していました。しかし自己嫌悪によって彼女は自ら命を絶ちました。

私のコミュニティ、私たちが実際に生活するこの共同体において、自殺率は一般の9倍の高さです。毎年10月20日、私たちはグローバルなトランスジェンダーを追悼する徹夜の集会があります。

私がここにいるのは長い間正義のために戦った人々の歴史があるからです。これはマーシャ・P・ジョンソンとシルヴィア・リヴェラ。

今日、この瞬間が私の本当のカミングアウトです。私はもはや、自分の真実や自分のために生きることはできません。私は人々に対して恥じることや恐怖を持つこと無く、彼らの真実に基づき生きられるように、私ができる最善のことをしたい。

私はさらけ出したまま、ここにいます。10月20日の追悼を必要とされない日を迎えるためです。

私の最も深くにある真実がありのままの自分を受け入れています。皆さんも受け入れてくれますか?

お聞きくださりどうもありがとうございました。

(スタンディング・オベーションの拍手)

キャサリン・シュルツ氏(以下、シュルツ):ジーナ、ちょっと質問なんですが、ジェンダーの不一致を抱えた子供や家族メンバー、友人がいる人たちが、彼ら(トランスジェンダーら)にとって良い、思いやりのある親切な存在になるために、どんなことを伝えますか?

ロセロ:確かに。まず、私は本当に恵まれています。私は時に母、そして、家族に支援され、それだけでとっても心強いです。

若いトランスジェンダー女性をコーチすると、彼らの両親がそれを受け入れることができないと彼女らから電話がかかってくるんです。そういう時私は母にそれを話して「ママ、この女性に電話して話してくれない?」と母に彼女らの親と話してもらったりします。ある時はそれで効くし、ある時は効かないです。

ジェンダー意識は私たちの中核にあるでしょう? 私たちは皆産まれる時にジェンダーを課されています。でも私が言いたいのは、その課されたジェンダーは合致しないことがあるということ。

そして人間は自己意識の際にある程度のスペースがいるということ。そんな会話を両親や同僚とするべきです。トランスジェンダーのムーヴメントはゲイ・ムーヴメントに比べるとまだ始まったばかりです。

興味を持つスペースを設け、質問することです。あなた達全員が私の同盟だと願っていますよ。

シュルツ:ありがとう、とても素敵なスピーチでした。

ロセロ:ありがとう。