CLOSE

森川亮氏に聞く「シンプルに考える」仕事術(全5記事)

「3年間、1日20時間働いた」 元LINE森川亮氏がソニー時代の挑戦を振り返る

カラーズ・経沢香保子氏とブロガー・作家のはあちゅう氏による有料オンラインサロン「ちゅうつねカレッジ」の特別セミナーが開催され、ゲストとして元LINE代表でC CHANNELを創業した森川亮氏が登壇しました。本パートでは、森川氏がデジタル化やグローバル化といった大局を見据えながら挑戦を続けてきた仕事人生を振り返ります。日本テレビやソニーといった大企業において多くのしがらみのなか、自分のやりたいことを追い求めた同氏の仕事観に迫ります。(ちゅうつねボーナスセミナー:森川亮氏に聞く「シンプルに考える」仕事術より)

幼少期は歌手、天才ドラマーとして活躍していた

森川亮氏:皆さんこんばんは、森川です。今日は前半は僕が何をやってきたのか。後半はマネージメントの考え方みたいな、そういう話をしたいと思います。

まずはこの中で本を読んでいただいた方いますか? 『シンプルに考える』。結構いますね。本にも書いたのですけども、今年48歳になりました。子どもの頃、実は歌手をやっておりまして、正直勉強もできないしスポーツもできないし、どうしたもんかなと思ったときに、歌うのが好きだったみたいなんですよね。

よく歌を歌っていたら、僕の母がこの子は歌しかないから歌をやらせようということでオーディションを受けたところ、そこに受かりまして、そこからはいろいろなテレビの仕事とかCMとかレコードの当時でいうとタイアップのシングルを出したりとかそういうことをやっておりました。1番多いときだと月に2、3回ぐらいテレビに出たりとかしてたんですけれども。

ボーイソプラノで変声期を迎えまして、そこから楽器に転向しようということでピアノをやったりギターをやったり、タップダンスをやったりとかいろいろなことをやったりとか、サクソフォンをやって金管楽器もやってということなんですけれども。

最終的にドラムとの相性が1番良くて、中学時代ドラムを結構頑張りました。その当時は天才ドラマーということでアメリカのテレビ局が取材に来るとか、それなりにいい感じだったんですよね。

今度はドラマーを目指そうということでやってるとき、今度はドラムマシンという存在に会いまして、これが最初に自分の人生の大きな転機だったんですけれども。

この中で楽器をやっている方いらっしゃいますか? やっているとかやっていた方とか結構いらっしゃいますよね。

ドラムの世界が唯一、人間がいらない世界になってしまうという大変びっくりするようなことになったんですね。

例えばギターもピアノも、電子化されても必ず人が弾くじゃないですか。ドラマーはなぜか人がいらない機械が出てきて、ドラマーの人の仕事がほとんどなくなってしまったんですよね。

これが大変ショックでして、僕自身もドラマーになりたかったのに、ドラマーがなくなる世界が来るのだ、と。今多少ありますけれども、ほとんどなくなっちゃったんですよね。

テレビ局に入社「毎週のように会社を辞めようと思っていた」

これがいろいろな産業で起こるだろうということで大学でコンピュータ工学を学びました。筑波大学に行ったんですけど。ちょうどつくば万博があった年ですね。

それで筑波大学に入ってコンピュータを勉強したのですが、当時コンピュータの世界は本当にオタクの人ばかりでして、ほとんど学校に馴染めずに、学校に行かなくなってしまったんですよね。

大学でもジャズをずっとやってまして、ジャズをしながらアルバイトをして暮らすような、そんな生活を4年ほど過ごしまして。

就職しないといけないと。本当はプロを目指したかったんですけれども、やはり、ドラムマシーンの恐怖があって、きっとなくなるんだろうなという中で音楽に近いような職場に入ろうということで、たまたま日本テレビの内定が決まりまして、それで日本テレビだから音楽関係の仕事ができるだろうなと思ってたんですけど。

配属がコンピュータシステム部というところでして、もともとが大学でコンピュータの専攻ですから会社としましては得意なものをやってもらおうと思ったんでしょうけれど、テレビ局でコンピュータの部署に行くというのは、みんながみんな行きたくない部署なんですよね。

普通の会社でいうと総務部とかそんな感じのところだと思うんですけれど、とにかくビックリ。テレビ局にそんな部署があったんだとそういう感覚でして、それも最初に担当になったものが財務のシステムと。

22歳でミュージシャン目指していた人がいきなり財務のプログラムを書きなさいみたいな。これも大変ショックでして、しばらく本当に落ち込んでいて毎週のように会社を辞めようかと思っていたんですけれども。

当時アナログだった報道のデジタル化を担当

これからはきっとコンピュータの時代が来るだろうということで。テレビ局にいればいつかは、自分の仕事ができるんじゃないかなということもあって、まずはコンピュータをやってみようということで。

たまたま上司がすごくいい方で、さすがに22歳で財務はかわいそうだなということで報道のデジタル化の仕事を担当しました。

当時メディア。この中でメディアの方いらっしゃいますか? 当時、メディアは本当にそういう分野が遅れておりまして。報道の方は記事を手書きで書いていたんですよね。すごくビックリで。

当時はパソコンが当たり前でパソコンで書けば楽だし早いんじゃないかという時代に、俺の字が最高みたいな方がいらっしゃってですね。

手書きで原稿を書いて、それを切り貼りしてアナウンサーが読むという、そういうような時代がありまして。それを改革をして、記事をパソコンで書いてそれをネットワークで送って、それのデータベースをデスクの人がいじって。

そこからプロンプターと呼ばれる、アナウンサーが原稿を読むときに、カメラに原稿が出るようになってるんですね。それでカメラ目線で原稿が読めるんですけれども、そこまでを配信するという仕組みを担当したのが僕の最初のまともな仕事でした。

そこから今度選挙の仕組みの開発に入りまして、当時選挙は開票があってからデータを入力して、それから本社に帰って来てCGに出すみたいな仕組みだったんですけれども。

出口調査の仕組みがあって、最初に開発をしまして。地方選挙でいろいろやって。1番大きかったのは都知事選ですかね。青島さんがいたときにそれでちゃんと当てて。全国選挙に使うようになったという形です。

毎分視聴率を分析する仕組みを作った

報道関係のデジタルの仕事はひと通りやリまして。それである程度実績を積んで、その次は視聴率の分析のシステムを担当しました。

当時テレビ局というのは、視聴率というのは放送が終わった翌日の朝にビデオリサーチさんからファックスで送られてきて、それでチェックをして社内に貼ったりするんですけれど。

細かい視聴率っていうのはほとんど使ってなかったんですね。実はデータというのは個人視聴率とか毎分視聴率というのがあって、個人視聴率というのは年齢性別の数字が出るようになっています。これはあまり代理店さんもスポンサーさんに出したがらない。今は当たり前になってきたんですかね。まあ、あまり出したがらない数字。

例えば笑点みたいなものは視聴率が高いが、ほとんどの若い人は見ていないとか。そういうのが出るとスポンサーがつかないと思うんですね。そういうのがあったりしたんですけど。

僕は、毎分視聴率というものをかなり自由に使える仕組みを作りまして。20年ぐらい前なんですけれども、Macintoshがタッチパネル、GUIでPCにダウンロードしてエクセルで加工できるみたいな、そういうモノ作りまして。

毎分というと、例えばテレビ局って視聴率が下がる瞬間というのはCMを放送するタイミングなんですね。そこでチャンネルを変えるので。そのCMタイムを他局と比較してどういうところに打つのかというのを、数字を見ながらいじってくんですね。

あとはどういうタレントが出ると数字に繋がるのか。そういうものをPCで分析して番組で構成を変えられるような仕組みを考えまして、20代でOracleで講演するようなそこまで来ました。

ここまでやればいいだろうという思ったんですけれども、なかなか逆に仕事ができるようになると、上司が異動させてくれなくて、なかなか好きな仕事ができなくなったんですよね。

番組を企画し、開発し、出演もした

僕自身もテレビ局だからテレビ関係の仕事をしたいなと思いまして。番組の企画を作ったんですね。それが所さんの『どちら様も!! 笑ってヨロシク』の中の「クイズ100人に聞きました」という、ご存知の方いらっしゃいますか? 結構いらっしゃいますね。

あれは僕の企画でして。Macintosh100台をスタジオに入れてその場で集計するという。僕はあれに出演してたんですよね。所さんの横にいた若い男性。ピコピコハンマーで叩かれていたあれ僕が出ていたんです。実は。

そんなことで自分で企画して、自分で開発して、自分でテレビに出るみたいなところまでやっていたら、まぁ上司が怒り出しまして「お前は何をやってるんだ」みたいな。「ちゃんとまともに仕事しろ」みたいな。それですっかり会社が嫌になりまして、辞表を出しました。

辞める1週間前ぐらいでしょうかね。ある役員から呼ばれまして、「森川君、そんなにやりたいことがあるんだったら好きにやりなさい」ということで僕専門の部署を作ってくれまして。そこから僕の自由な人生が始まるわけなんですけども。

社内でプロバイダを立ち上げた

最初にやったのがインターネットの仕事です。当時マルチメディアというものが騒がれたときにインターネットブームが来まして。僕が最初にやったのがプロバイダの立ち上げですね。

当時ダイヤルアップのプロバイダが出てきて、それでみんなインターネットに興味があるということになったので、社員向けにインターネットプロバイダを立ち上げました。そして社内で営業を始めまして、社内向けにタダでやったんですね。

そしたら、社員の3分の1ぐらいが会員になりまして。そしたら元のシステム部署から「森川君、社内のシステムは僕たちが担当なんだから勝手にプロバイダ始めてメールシステムを作ってもらったら困ります。どうするんだ」ということでちょっと喧嘩になりまして、困ったなと。

ちょっと社長もユーザーになってもらおうということで、当時氏家さんっていう非常に業界でも有名だった方がいらっしゃって。

社長もユーザーになったからこれを更新しようと。そしたら僕のメールアドレスで社長名で送ってしまって大問題になって(笑)。

そんなはじけた頃があった20代でございますけれども。そんな中でインターネットが認められてインターネットの事業をやる部署として立ち上がったんですけれども。僕とアシスタントで何人かでやりながら何とか黒字化して。

当時日本テレビというのは新規事業が初年度黒字じゃないと認めませんという非常に厳しいルールがありまして、なかなか新しい事業をやりにくかったんですけれども、たまたま当時BSデジタル放送が始まるタイミングだったので、その立ち上げということで会社の設立から免許申請からそういったものをやったりとかをしてました。

番組の海外配信では権利問題が障害に

あとは今の仕事に繋がるんですけど海外展開ですね。当時、僕自身が会社の中で理系の人はあまり企画をやらないよね。みたいなイメージがあったんですね。

今はあんまりないと思うんですけれども、なので、そういう壁を取りたくて大学院で勉強しながら。とにかくこれからはテレビ局もグローバル化しなければいけないということで、テレビ局のグローバルの論文を書いてそれで自分で社内でプロジェクトを立ち上げて。

当時衛星放送が伸びてきて、いろいろな衛星を使って海外に番組を配信するというものが盛り上がっていたんですね。

今三菱商事さんと、空いているトランスポンダっていう波を抑えて。アジアにも番組を配信して現地のケーブルテレビで受けてもらって、そこの広告を売るという事業を何人かで立ち上げまして。

当時三菱商事さんと一緒に事業。こちらも初年度黒字なったんですけれど。とにかく海外に配信する番組が全然なかったんですね。

まず、権利問題でドラマとか音楽系はNGで、結局はジャイアンツ戦とニュースを海外に配信したと。もちろん、ジャイアンツ戦を誰が見るんだという。

日本でも最近あんまり見ないのに。たまたま当時、巨人の四番を台湾人が打っていて、台湾で結構ウケたんですよね。

幸いそこにCMがついてということで黒字になったんですけど。やっぱりこのままじゃまずいなというふうに思って。テレビ局は最終的に今は変わったと思うんですけれども、地上波が1番収益率が高いので、なるべくそこに集中すべきだという声もあって、そこでソニーに移りました。

毎日1つ事業計画を出して、3カ月間ダメ出しされた

ソニーは当時プレステも元気で、VAIOが出たばかり、ハンディカムも元気だったんですよね。ネットで使えるハンディカムを出したりとか。皆さん覚えてますか? クリエというPalm OSを使った端末なんかもすごく元気だったり。とにかくイケイケの時代。AIBOも出たりとか。

そんな中でソニーはエレクトロニクスの会社からデジタルの会社になるんだということで、コンテンツと、端末を結びつけるような新しい事業をやろうって事で、最初にテレビのオーディオのオンライン化事業を推進する新規事業の部署に入りました。

そこでテレビとかオーディオとかをガンガンネットに繋げて、コンテンツ配信しようということでいろいろな提案をしたんですけど、毎日1事業計画を出して、3カ月間毎日ダメ出しされて。それも何の理由もなく。ちょっといけなさそうだからと。

今だからわかるんですけれども、やっぱりエレクトロニクスのカンパニーというのは、テレビとかオーディオとかがものすごい売上で、逆にネットにつなげてしまうとコストも上がるしそういうエンジニアが社内にないので、なかなか現実的に難しかったんですね。

当時はiPodもなかったですし、そういう時代が来るとは誰も思ってなかったので、なかなかそちらに舵を切れず、結果的に僕はネットワーク専門のカンパニーに移りました。

当時So-netが元気だったという事と、So-netとソニーピクチャーズとかソニーミュージックとかコンテンツ系を一緒にして看板を出しまして、それであればやりやすいかなと思って移ったんですが、コンテンツ系の方が「映画をネットに流すのはけしからん」と。音楽も。

それだったらCDが売れなくなると。やっぱりなかなか難しくて。結果的にはトヨタさんと東急さんとジョイントベンチャーを作ってそこの立ち上げに携わりました。

3年間、1日20時間働いた

当時、結構よく上司と喧嘩をしてまして。何でしょうね。何を出してもなかなか通らずにケンカして会社を出てそのまま戻らなくなって、勝手に新しい部署に席を作って名刺を作って仕事を始めまして。

人事発令が出てないから上司が心配して、森川君どこにいるんだと、会社に来ないし、そしたら勝手に名刺を作って仕事をしてるらしいということで、かなり社内的に大問題になりまして。

その時もやはり辞表を出そうかと思ったんですが、何とかかんとか売上を稼いでしまったので、しょうがないなということで、そちらのほうを3年ほどやりまして。大体10人ぐらいから最終的に250人ぐらいまでの組織に育てました。

社名にソニーという名前がなかったので本当に大変で。営業の責任者だったんですけど、大体毎朝会社に来ると日経新聞を見て、景気が良さそうな記事が書いてある会社に電話をして、そしてそのまま営業に行って、というのをほぼ毎日繰り返してまして。

だいたい夜中の11時から営業会議をして朝まで仕事する。1日20時間3年ぐらい仕事をしていました。

今より結構仕事をしてるんですけれども、そういう生活をしてある程度実績が出たんですけれども。そしたらソニーから年配の方々が出向してきまして。やっぱり大企業というのはなかなか頑張った分、自分の身にならないなということを感じて、それで前職の会社に移りました。

続きを読むには会員登録
(無料)が必要です。

会員登録していただくと、すべての記事が制限なく閲覧でき、
著者フォローや記事の保存機能など、便利な機能がご利用いただけます。

無料会員登録

会員の方はこちら

この記事のスピーカー

同じログの記事

コミュニティ情報

Brand Topics

Brand Topics

  • リッツ・カールトンで学んだ一流の経営者の視点 成績最下位からトップ営業になった『記憶に残る人になる』著者の人生遍歴

人気の記事

新着イベント

ログミーBusinessに
記事掲載しませんか?

イベント・インタビュー・対談 etc.

“編集しない編集”で、
スピーカーの「意図をそのまま」お届け!