恐怖の大きさは自分自身で決められる

2017年卒業生の皆さん。3を引いてください。話は最後まで聞くものです。ご卒業おめでとうございます。自分たちに温かな拍手を送ってください。

皆さんはこれから、知識と自我の先陣に立ち、可能性という大海の新たな波頭となってください。あのドアのむこう側には、新たなるリーダー、新たなるアイデアを希求する世界が待っています。

僕はあちら側にもう30年います。気の荒い猫のような世界ですよ。足元にすり寄って喉をならし、抱き上げてなでてもらおうとしますが、突如顔にパンチを食らわせます。

つらい時もありますが、心配はいりません。あちらには、トッピングを散らしたソフトクリームだって売っていますから。これだけはぜひ言わせていただきたい。時には無駄飯を食ってもかまわないのですよ。

人生に恐怖はつきものですが、その大きさは皆さん本人が決められます。幻や見えない未来に怯えて人生を送ることもできますが、今ここで起きていることや、この瞬間の皆さんの決断は、直に未来につながっています。

その決断が、愛か恐怖のどちらであるとしても。

非常に大勢の人が、実用性という仮面を被った恐怖におののき、進む道を選んでしまいます。本当にやりたいことには手が届かず、できるはずのないものであるように思えるため、宇宙にそれを求めません。

しかし僕が身をもって証明しましょう。やりたいことを宇宙に求めることは可能です。ぜひそうしてください。すぐに皆さんの夢がかなわなくても、あせることはありません。宇宙は、特大パーティサイズの僕の夢をかなえるのに忙しいだけですから。

(会場笑)

やりたくないことを選んでも失敗する、やりたいことに挑戦すべき

僕の父には、偉大なコメディアンになる才能がありました。しかし、父はその可能性を信じず、保守的な選択として会計士という安定した職業に就きました。

僕が12歳の時に、父は安定していたはずの仕事から解雇され、一家は食べていくために、ありとあらゆることをしなくてはいけませんでした。

父からは大事なことをたくさん教えてもらいました。中でも、やりたくないことを選んでも失敗するのですから、大好きでやりたいことにこそ挑戦するべきだということを学びました。

父が僕に教えてくれたのは、それだけではありませんでした。父の愛情とユーモアが、周囲を変える様子を目の当たりにし、思いました。

「これが僕のやりたいことだ。僕の人生をかける価値のあることだ」

そこで僕は、さまざまないたずらをはじめました。家を訪ねて来た人は、高い階段から飛び降りて来る7歳児の歓待を受けたものです。「何が起こったの?」と尋ねられると、「さあ。よくわからないから、VTRを巻き戻して見る?」と答えました。

そこでまた階段を上り今度はスローモーションで降りて来るのです。

(ジム・キャリー氏、階段から落ちるジェスチャー)

本当に変な家でしたね。

父は「この子のコメディセンスは本物だよ」と、よく自慢をしていました。僕の才能を、自分の2度目のチャンスのように思っていたようです。

誰かのためを想う真心にこそ1番の価値がある

プロのコメディアンとしてのデビュー2年後、僕が28歳の時のことです。ロサンゼルスである晩、はたと気がついたのです。僕の生涯の使命は、父のような人を心配事から解放してあげることなのだ、と。

そこで僕は新しく「心配事解放教会(The Church of Freedom From Concern)」を立ち上げ、その布教にいそしみました。

(会場笑)

皆さんの使命とは何ですか? 世の中にどのように貢献したいと思いますか? 皆さんの才能を使って人にどんなことをしてあげられますか?

皆さんが考えるべきことは、まさにそれだけです。先にそれを実行した先輩として、皆さんに経験をお話しさせていただきます。

僕の経験では、自分が他人にしてあげられることに1番価値があります。人生をかけて手に入れたものでも、簡単に腐敗しバラバラになります。最後に残るのは皆さんの真心です。

僕は、人を心配事から解放したいという選択をしたことによって、頂点に登ることができました。ほら、現に僕はここにいます。僕の仕事を見てください。

僕には極めて大切なことなので、この話をするとどうしても感情が高ぶってしまいます。僕は常に自分の仕事によって、人々が僕の前で、ベストな自分自身を解放できるように努力して来ました。

頂点に立った今、僕が解放できていない唯一の人物は、より深いアイデンティティを探して彷徨う僕自身です。

今の名声がなかったら、僕は何者でしょう? みんなが聞きたいと思っていることをうまく話せず、期待を裏切ったら。マルディグラ祭のマスクを被らずにパーティに現れて、ビーズをもらうために、おっぱいを出すことを拒否したら。はい、今のは忘れてください。

(会場笑)

心の平安を得るには、自らを受け入れること

しかし、皆さんのゲームは始まっており、皆さんはうまくやっています。すでに自分が何者かはわかっていて心の平安を得ています。人はこの平安を常に追い求めます。平安は各々の個性のかなたに横たわり、他者を受け入れ、まがい物や仮面の下にいます。努力すら超越したところにあります。

皆さんは、好きなようにゲームに参加し戦ってもよいですが、本当の平安を得るには、鎧を脱ぎ捨てる必要があります。

自分を受け入れれば、この世界で透明になることができます。皆さんを通して降り注ぐ光は、誰にも遮らせる必要はありません。この栄光を掴むためには、姿を見られたとしてもかまわないのです。

(絵画の覆布が取り払われる)

やっぱり絵をもっと大きくすればよかったなあ。

(会場笑)

大きな絵を描いたのには理由があります。この絵の題名は「高視程」です。あえて光にさらされる内面を表します。

解説します。登場人物は、みな光に心奪われています。上の隅に描かれた「パーティの主人」は、酔いつぶれることが無上の幸福であると信じ、皆さんを空っぽにするために、常にボトルの酒を勧めます。

彼女の下にいる「惨状」は光を嫌い、皆さんが人生をうまく過ごすことに堪えられません。常に最悪の状況に陥ることを願っています。

「ダイヤのクイーン」は、「キング」にトランプの城を建ててもらおうとしています。「虚無」は足にしがみつき「私を捨てないでください。私は、私自身をすでに捨て去ってしまいました」と懇願します。

世界で最も身近で愛する者であっても、時に何が明らかなのか、迷うことがあります。

この絵を完成させるのに僕は何千時間もかかりました。決して戻らない、僕の何千もの時間です。気が狂ったように、ただ1人で何週間も足場の上で描き続けました。

できあがった絵を見た友人が言いました。

「これをブラックライト絵画にしたらすてきだと思うよ」

そこで僕は描き直しました。

(会場暗転、絵画にブラックライトが照射される)

燃え盛る人間の集いへようこそ! クレイジーな登場人物がたくさんいます。僕の頭の中に閉じ込めておくよりも、こうして絵として解放してあげるほうがずっと良いですね。

自分の限界を決める必要はない

絵を描くと僕は心配事から解放されます。精神、霊、身体の全てに干渉して来る世界を押し留めることができます。

しかしそれでもなお、僕は時に「聖なる不満足」の感情に襲われることがあります。

なぜなら究極的には、僕たちは自らが思い描くとおりの像でもなく、あれこれ作った挙句お蔵入りになる映画作品でもありません。僕たちは、それらを通して差し込む光です。他のすべては鏡の曇りに過ぎず、拡散しますが、強制力はありません。

常々言っていることですが、お金持ちになりたい、有名になりたいといった、誰しもが持つ夢を自覚することができれば、それが完璧に満足できる状況ではないことに、皆が気づけるのではないかと思います。

皆さん同様、僕も世の中に出て行って、僕自身より大きな夢をかなえたい、と思っていました。すると僕より頭の良い人が現れて、僕自身より大きなものなどは存在しない、と教えてくれました。

僕の魂は、肉体という器の限界に封じ込められてはいません。肉体のほうが、限界のない魂に内包されているのです。魂とは、無が1つに統合された原野です。居心地よくあるため、もしくは楽しみのために、特に理由がなくても踊ります。

皆さんの内面がそのように変わった時、世界は、皆さんに単に触れようとしているのではなく、皆さんを胸に掻き抱こうとしてくれていることを実感するでしょう。

僕は常にスタートラインにいます。僕はリセットボタンを持っていて、絶えずそのボタンを押しています。皆さんの人生でこのボタンがうまく作動するようになると、皆さんの心は、自分を強制する物語を作らなくなります。

誰かと自分を比べたりせず、自分だけの夢を見よう

想像力は人生のシナリオを量産しますが、良いものもあれば悪いものもありますし、エゴは精神の多様性の中に皆さんを囚われの身にしています。

目の役割は、見るだけではありません。僕たちの目の前に、常に流れている映像の上に、第2の物語を投映するプロジェクターでもあります。恐怖がその台本を書き、題名は「僕は決して満足できない」というものです。

皆さんは、僕のような人間を見て「ジム、どうやったらあなたのような高みにまで登ることができるの? 一般家庭に置けないほど大きな絵を描くことができるの? 特殊な呼吸器官もなしに、どうしたらそんなに高く飛べるの?」と聞くかもしれません。

(会場笑)

これこそが皆さんのエゴの声です。この声に耳を傾けてしまうと、皆さんよりうまくやっているように見える人間が必ず出てきます。皆さんが何を手にいれようとも、エゴは安寧を与えてはくれません。

地球上に永遠に残る印をつけたり、不死を手に入れでもしない限り、声は皆さんを解放してはくれません。すでに所持しているものをエサに僕たちを誘惑するエゴとは、なんと厄介なものでしょう。

だからこそ、皆さんにはリラックスしてもらいたいのです。それこそが僕の仕事です。リラックスして、良い人生を夢見てください。

手段を考えるのではなく、願いを自覚しチャンスを探すべき

僕が小学2年生の時にアイルランドから来た臨時の先生が、朝のお祈りの授業で教えてくれたことがありました。何か欲しいものがある場合は、何かをすることを誓う代わりに願いを叶えてくれるよう祈りを捧げれば、その願いは叶うのだと言うのです。

教室でその話を聞いた僕は、毎晩「ロザリオの祈り」を暗唱するのでその代わりに自転車をください、と家でお祈りしてみました。我が家には自転車を買うだけの余裕がなさそうだったからです。誓いはあっさり破りましたが。

その2週間後、学校から帰ると、ぴかぴかのマスタング自転車が僕を待っていました。バナナ型シートにイージーライダー風のハンドルがついています。道化者からクールガイへの進化です。家族から聞いた所によると、友人が内緒で、僕の名前で懸賞に応募していて、それが当たったそうなのです。

それ以来、同じようなことが身の周りで起こり続けました。僕の持論ですが、自分が求めていることを宇宙に知らしめて行動すれば、このようなことが起こります。どのような形で実現されるかまではわかりませんが。

皆さんの仕事は、願いが実現する手段を考えることではありません。皆さんの頭の中でドアを開けることです。そしてリアルな人生で実際にドアが開いた時、歩いて通ればよいのです。もしタイミングを逃してしまっても、心配無用です。別のドアがまた開きます。必ず開くものなのです。

希望を信用してはいけない、信念に基づいてチャンスを選ぼう

僕は最初に「何かが起こるのではない。何かが皆さんのために起こってくれるのだ」と言いましたね。実際のところ、それが事実かどうかは、正直なところ僕にはわかりません。

僕は単に、試練とはチャンスだと考えて、最も実りあるように、選択を注意深くしているだけです。皆さんもいずれ、自分なりのやり方を身につけるでしょう。とても楽しいですよ!

ですからぜひ、信念に基づいてチャンスを選んでください。信念ですよ。宗教でも希望でもなく信念です。

僕は、希望を信用していません。希望は物乞いです。希望が炎の中をのそのそ歩くのに対し、信念は炎など軽々と飛び越して行きます。

今、皆さんは準備万端であり、世の中ですばらしいことを成し遂げる能力があります。今日、あのドアを通り抜ければ、選択肢は2つしかありません。好きを貫くか、恐れて逃げるかです。好きを貫いてください。恐れにより、遊び心を捨てる必要はありません。ありがとうございました。