『トイ・ストーリー』の誕生まで20年かかった

エド・キャットムル氏:随分昔の話になりますが、僕の母校はユタ大学です。ユタ大学は、コンピュータグラフィックスを開発した学校で、多くの優れたカリキュラムを擁し、魅力的な人材を輩出する、素晴らしい校風の学校でした。

在校中にそんなことを声高には言いませんでしたが、素晴らしい文化がありました。生きていく中で、ここでの文化は常に私に刺激を与えてくれました。

卒業後の僕の目標は、世界初のコンピュータアニメーション映画を作ることでした。卒業後はニューヨーク工科大学で職を得て、アルヴィ・レイ・スミスと出会いました。その後、ルーカス・フィルムとピクサーで働きました。

世界初のコンピュータアニメーション映画制作という目標への道のりでは、様々な出会いがあり、僕たちのコミュニティには人材が次々と集結しました。

膨大な技術上の課題が山積しました。プロセスを解析し、何がどのように作動するかを必死に考えました。もちろん、どうやって映画を作るかを考えたのです。まったくの前人未到の事業でした。

1995年、ついに映画が完成し大ヒットを記録しました。ピクサーが株式公開する1週間前のことです。『トイ・ストーリー』の誕生です。僕たちは、20年の歳月をかけてついに生涯の夢をかなえたのです。

株式公開と次回作のラフとで多忙を極めていたにも関わらず、僕は喪失感を感じていました。友人たちと共に、目標を達成してしまったからです。何が代わりになるだろう? 次なる目標とは、何だろう?

単に次の作品を作るだけでは、この穴を埋めることはできません。もちろん僕は、新作の制作現場には必要とされるでしょう。しかしそれだけでは、世界初の映画を作ることと同等にはならないのです。

同じ作業を繰り返せば、映画はできるでしょう。しかしそれではクリエイティブな活力が足りません。グループ全体が1つになり、前進する力のビジョンとしての目標が必要です。皆で協力し、力を合わせて目標が達成されてしまうと、グループはなんとなく結束力を失ってしまうのです。

その過程において僕は、次なる目標として「企業文化の創造」をする必要がある、と気がつきました。僕たちが去っても長く残り、仕事を続ける意義を与えてくれる企業文化です。映画の制作を続けることもこの企業文化に含まれます。前向きな意欲を引き出す文化です。

成功を収めた企業も、時代の波を見誤れば失敗する

では映画を制作し続けることには、どのような意義があるのでしょうか? 解決すべき点が2つありました。

我々は独自の映画制作技術はすでに持っていて、更に新作を作ろうとしています。まず、そういったことを継続できる企業文化とは何で、そもそもどこにそのヒントを求めればよいか? といったことでした。

映画制作中、我々は別のコミュニティにも参加していました。つまり我々は、シリコンバレー文化の一員でもあったのです。しかしそこでは戸惑うような事態が起こっていることに気がつきました。

シリコンバレーの多くの企業が、非常に優秀な人材に恵まれ、皆が極めて熱心に働き、成長を続けています。ところが、奮闘し成功している彼らが、とんでもない愚挙をしでかし、凋落するのです。部外者からすると、一体全体、何が起こっているのだろう? とびっくりするような事態です。

僕が最初に関係を深めた会社は、皆さんも恐らくお聞きになったことがある、エヴァンズ&サザーランド社という新進気鋭の会社でした。グラフィックツールの基礎を築き、多くの人に影響を与え、当時トップレベルのエンジニアを擁し、市場へのアクセスもあり、具体的な問題点もきちんと把握している、そんな企業でした。

ところが彼らは、時代の波を完全に読み損ねました。全ての手段を備えていたにも関わらず、次に来る技術は何かを、掴み切れていなかったのです。そして別のグラフィック技術に座を奪われてしまいました。

この会社は成長し大変な成功を収めましたが、さらなる成功を目指して彼らがとった動きは極めてばかばかしいものでした。

これは他の同業者同様、部外者としての目線です。内部の事情を斟酌した公平な意見ではありません。しかし我々にはばかばかしい動きとして映りました。振り返って見ても、本当に愚かな動きでした。実にくだらないことをしていたのです。

問題点に向き合うことで企業文化が創造される

そこで次の疑問です。

「成功を収めた集団のこのような失敗は、どうして起きるのだろうか? 我々も同様の罠に陥ってしまうのだろうか?」

案の定、『トイ・ストーリー』制作が終盤にさしかかると、我々もまた内部に大きな問題を抱えていることがわかってきました。持ち時間が数分しかないので、ここでは詳細にはお話ししません。

わくわくするような事態が進行し、すばらしいことが起こっている時には、悪いことについて目をつぶってしまいます。良いことが進行している時には、何かとうまく行ってしまうからです。

しかし、良い状態を維持したいと思った場合、問題点をきちんと把握し、向き合って解決しなくてはなりません。

「企業文化の創造」とは、そういった問題に取り組むことを意味するのです。

解決するべき点その2とは、問題解決にあたり考察の助けになるという触れ込みで巷に溢れる提案の数々は、現実には役に立たないことです。ちょっと説明が難しいですね。わかり易いように例を挙げます。

「ストーリーが最も重要である」と言うことを止めた

映画制作でよく用いられる言葉に「ストーリーこそが最も重要である」というものがあり、業界では深く信じられています。

しかし、ピクサーが発足した当初に、初作品で他に差をつけることができたのは、我々が単にストーリーのみを重んじただけではなく、ストーリーをサポートするための、ありとあらゆる努力をしたからです。テクノロジーやアートが、全力でストーリーをサポートしました。

ところが他のスタジオの考えを知るために本を読んでみると、皆おしなべて同じことを言うのです。作品の質の優劣にかかわらず、「ストーリーが最も重要である」と唱えます。あくまで僕個人の感想ですが、僕は「実行もせずに言うだけなら簡単だ」と感じました。

「ストーリーこそが最も重要である」などとわざわざ口に出しても意味がありません。現実に全く役に立ちません。何でも口にするのは簡単です。ストーリーが最も重要なのは事実ですから。しかし、皆が安易に同じことを言い過ぎます。そこで僕は「ストーリーが最も重要である」と言うことを止め、何年も口にしませんでした。

ところが1年ほど前に、ハーバード大学院ビジネススクールの教授と会食する機会がありました。彼女は、ハリウッドでプロダクションの仕事をしている友人の話を引き合いに出し、「ストーリーが最も重要である」と主張する映画制作会社が作るヒット作品の数々について、おもしろい見識を話してくれました。

そこで僕は、映画とはストーリーそのものなのだ、とはたと気がついたのです。

つまり映画にとって「ストーリーが最も重要である」などという言葉は、無駄な繰り返しで何の意味もないのです。ところがこの言葉には皆、いかにも意味深いと言った面持ちで、もっともらしくうなずきます。

(会場笑)

ビジネス本から得られるものは何もない

また、こんなこともありました。ピクサーの発足当時、畑違いの分野の出身者の僕は、ビジネスについての知識は皆無で、ビジネス本を大量に読んで勉強しなくてはいけませんでした。様々な本に目を通してみると、質の高い本ももちろんありますが、中にはまったく中身のないものもありました。プロのビジネスライターが書いたものでさえそうなのです。

得るものがあるか否かを判別できないので、あるサービスを利用することにしました。今でも利用しているそのサービスは、他人が本を読み、本の大切なエッセンスをそっくり抜き出してくれるというものでした。有料で要約を提供してくれるのです。

くだらない本でも読み通すことなく要点のみを通読できるので、このサービスを使って読書を続けました。2カ月続けて気がついたのは、これらの本からは得るものはないということでした。本当に何もないのです!

(会場笑)

僕は衝撃を受けました。原因として考えられるのは、本に内容そのものがない場合もありますが、内容を抽象化してしまったため中身がなくなる場合もありました。抽象化してしまうことにより、意味のある内容が取り除かれてしまうのです。

両方が原因でだめな本もあるでしょうし、中にはきちんと本質を突いた本もあるでしょう。抽象化は、膨大な内容の中から本質を模索する手段なのかもしれませんが、作者が言いたいことを本質から乖離させてしまうのです。

恐怖を認識しなければ向き合うことはできない

そこで我々は、シンプルに何が本質かを考えてみました。皆さんに、我々が見出したことをうまくお伝えできるよう頑張ります。ピクサーでうまくいったセオリーですが、我々がさらに経験を積むにつれ、その都度変わっていくでしょう。

僕は、人は内なる恐怖に、深く分け入る必要があると思っています。ほとんどの人には、変化や不意打ち、恥をかくことを避けたいという保守的な衝動があります。この力は深く根付き自覚されることは滅多にありません。しかしこの恐怖を認識しなければ、きちんと向き合えません。

安全策に甘んじて、リスクを取ろうとしなくなってしまいます。

ところで、リスクについてはまた別の話になります。リスクと失敗について理解しようとすると混乱をきたし、大抵の場合、話し合っても行動への転換が困難です。皆が理解していないからです。

恐怖に話を戻します。恐怖について探る時、僕は自分自身がかつてどうだったかを思い出すようにしています。卒業後にニューヨーク工科大学に勤めてラボを設立した頃のこと、ユタから出て来た僕は、ラボができて初めて採用されました。

次に採用されたのは、こちらに座っている良き友人アルヴィ・レイ・スミスでした。ラボ入所当時の彼は、単なる見知らぬ1人にすぎませんでした。

我々には、人員を採用する必要がありました。学長がラボを所有し、なおかつ研究にも参加していました。

僕はアルヴィを面談し彼がスタンフォード大学の出で、僕より頭が良いいことを知りました。そして彼には、僕よりカリスマ性がありました。上司も、アルヴィがラボに入所した当初から、ラボの長には僕ではなく彼が適任だとわかっていたと思います。僕は何も言いませんでしたが、そういう空気を感じました。

(会場笑)

でも僕が彼より先に採用されてしまっていたわけですね。やがてアルヴィは僕の親友になり僕はそのことに非常に感謝しています。でも内心では彼のほうが優秀だと思い、周りにもそういった雰囲気がありました。

こうして僕は、人は誤った選択を犯すことを学びました。そして選択を誤らないことが僕の重要課題になりました。

このような恐怖には対処していかなくてはなりません。しかし恐怖とはとても根深いものです。

不完全な作業を見せ合い、恐怖心を払拭する

マンガ『ディルバート』に人気があるのは、官僚主義を舞台に繰り広げられる愚行を、おもしろおかしく描いているからです。我々はみな、官僚主義のばかばかしさがどういうものかをよく知っていて、実際に目の当たりにしています。

しかし企業文化創造の観点からすれば、なぜこのような愚行が行われるのか、その理由を問うべきなのです。理由は存在するはずであり、白日のもとに晒されなければいけません。さもなければ愚行がはびこり、賢く才能のある者を駆逐してしまいます。我々はこういう類のことを考えていかなくてはいけないのです。

ピクサーには、2つほど手持ちのテクニックがあり対策として用いられています。1つは「デイリーズ」というテクニックで、アニメーターに大変有効です。「デイリーズ」とは、アニメーターが作業を毎日お互いに公開することです。

さて、アニメーターが公開するのは、まだ形をなさずうまく作動しないような、初期段階の作業で、これにはトレーニングが必要です。なぜなら皆、自分の作業を専門家なり監督なりに見せるのは、非常にうまく出来上がった段階になってからでないといやだ、と思うものだからです。

そういった抑制の心理は、作業を鈍化させます。だから、まだうまく行かない段階で見せるよう、アニメーターを訓練する必要があるわけです。

全員でこれを実行するとやがて慣れ、恐怖心が払拭されます。恐怖心が消えると、よりクリエイティブになり、お互いから学び、刺激を与え合います。すばらしいことは、こういった不完全な作業を見せ合うミーティングの場で起こるのです。

映画制作現場に限らず、様々な場所で失策が起こるのは、大抵の場合、他人を入れる前に1人で良い仕事をしてしまおうとするからです。

ある種の作業には、これは非常に有効な手段ですが、ソフトウェアの現場ではうまく行きません。「デイリーズ」をソフトウェア開発に応用するのはお勧めしません。とにかく、趣旨は不完全な作業を見せ合うというもので、これはとても重要です。

グループの人数が増えると、人は体裁を保とうとする

我々が使うもう1つの手段は、我々が「ブレイン・トラスト(注:ピクサー作品制作における問題点解析グループのこと)」と呼ぶものです。「ブレイン・トラスト」は偶然の産物でした。

『トイストーリー』には柱になるプロデューサーが4人おり、映画制作は未経験でしたがとてもよく団結して仕事をしました。彼らはお互いにとても率直で、フランクに何でも打ち明け、愉快な人々であり、集中力がありました。彼らの仕事ぶりを眺めるのは、なかなかに心楽しいものでした。

他の追随を許さぬすばらしい仕事をしてくれたものですから、僕は映画制作とはこういう成果を生むものなのだ、と思い込んでしまいました。そして映画を制作する時には常にこういうことが起こるという思い込みのゆえに、後に罠に陥ることになりました。

とにかくそれは、映画史上類を見ない集団の誕生という、極めてユニークなできごとだったのです。ピクサーのすばらしい作品が次々と生み出されるのは、この集団が成長して、協力し合って働く方法を確立したからなのです。ではその方法とは、どのようなものなのでしょうか?

1つの特徴として、彼らは率直に話し合い、お互いを信頼するとお話ししましたね。もちろん、皆さんもお互いに率直でしょうし、わざわざ特筆すべきことではない、と思うかもしれません。

しかし、大切なこととは信頼や率直さではありません。もちろんこれらが大切なのは明らかですが、集団の結束が緩まないように我々が実行していることこそが重要なのです。では集団に害をなすものとは、いったい何が考えられるでしょうか?

この集団は大人数に成長し、人数以外にもいろいろな事柄についてスケールが大きくなりました。しかしよくないこともあります。時に集団の規模が、過分に大きくなりすぎて活気がなくなってしまうのです。

人間には、人前で恥をかきたくない、他人を傷つけたくない、という欲求があります。馬鹿な発言はしたくないし、他人の前では見栄を張って演技してしまいます。集団に人が増えると感じるリアルな感情です。

我々の仕事は、この集団が常に活気に満ちているように注意を払うことです。だから僕はミーティングでの発言の内容は気にしません。どんなふうに会話がなされているかに気を配ります。もしそうでなくなったら、絶対に変えなくてはいけません。

この集団は時と共にどんどん進化し、とてもうまくいったと感じました。

個人には自由ではなく裁量権を与える

失敗した点が1つありました。このテクニックを他のグループに適応した時に初めて、他の大事な事柄にも気がつきました。似たような仕事内容のテクニカル・グループが複数あったので、優秀な技術スタッフを統合したことがありました。

彼らはお互いに意気投合し、率直で、皆で一緒に長時間働きはしましたが、あの魔法は2度と起こりませんでした。うまく行かなかったのです。3、4回グループをうまくまとめようと試みました。ところがグループを統合すると、皆がイライラしお互いにバラバラなことをします。

我々は、やっと何が違うのかがわかりました。映画の「ブレイン・トラスト」で、彼らにはまったく裁量権がなかったのです。彼らのメモなりコメントなりは、監督に対して裁量権がありませんでした。監督は、彼らの提案を何でも採用ないし却下できました。

そして全員がそのことを知っていました。彼らには、お互いに対してのびのびと率直になれるほどの裁量権がなかったのです。裁量の構造に問題があり、彼らの人間関係を狂わせていました。

それがわかった時、解決策を他の部門にも適応し、他部門もより良く機能するようになりました。

「良い組織は、お互いの人生を認める」

そして最後に、これはあまりにも明らかなのでうまく表現することが難しいのですが、自分の人生をどう取り扱うか? ということです。

僕はアカデミックな環境の出なので、これに大きな影響を受けています。アカデミックな環境では、他の組織同等、政治的駆け引きがたくさんあります。組織でいかに他の人に対して格好よくあるか、ということに気を配るのです。

僕はさまざまなコミュニティにいました。ピクサー、ディズニー、シーグラフなどのシリコンバレーのコミュニティや、映画制作の業界関連の2社ほどです。これらのコミュニティには多様性がありました。

ある場所は所属していてとてもやりがいがあり、長く続く友情を得ました。また別のある場所では自分の利益しか考えない人が采配を握り、大きな収益を上げていたとしてもコミュニティとして機能不全に陥っていました。そんな会社では、人は率先して自分から動きません。社員のモチベーションがあまりよくないのです。

彼らの違いは、企業文化として、そこにいる人がお互いをかっこよく見せようとしているか否かだと思います。するとできてくる映画に差が出ます。彼らは、お互いがかっこよく見えるよう、本当に努力しているのです。

良い組織とは、お互いの人生を認めるのです。

我々はピクサーというすばらしい場所を獲得しました。もちろん、これまでと同様多くの危機に絶えず見舞われ、惨事が起こり脱線しますが、社内が皆で解決しようと頑張っています。我々の全員が、そういった惨事を自分たちの手でくぐりぬけていかなくてはいけないと思っています。もちろん時には大変な苦痛を伴いますが。

今はディズニーと共にありますが、やることは変わりません。ここにも人の集団があり、お互い協力しあい、世界を感動させる映画を作っていこうとしています。ベストでポジティブな方法でお互い協力し合わないと、それはできないのです。ありがとうございました。