壊す前に、その建物がなぜ建てられたのか考えてみよう

松隈洋市(以下、松隈):それではちょっと付け足しですけれども、私の方から少し説明させてください。私の方からは、中沢さんが一番はじめにおっしゃってくださったように、はたしてこの国立競技場の場所自身がどういう歴史を持っていたのかということを、ぜひもう一度確認したいと思いました。

もう7月に取り壊されるということなんですけど、ヨーロッパには「壊す時には壊す前に、その建物がなぜ建てられたのか考えてみよう」という格言があるそうなので、神宮外苑がどういう形で今まできたのかということを、ざっとお話ししたいと思います。

これが竣工した時の配置図ですね。これは中沢さんがさっきご紹介してくださったとおり、内苑と違って都市的な公園を作ろうということなので、建物を外部に寄せて、真ん中はできるだけ広いヨーロッパ的な公園にしようということが意図されているのが分かります。

これがまったく同じ形で青山通りからの風景が残ってますけど、こういう姿。

あるいは絵画館もこういう姿ですね。

それから先日のシンポジウムで槇文彦さんがおっしゃっていたんですけど、これが造営されたのが1924〜26年なんですが、(1925年の)関東大震災で工事は遅れます。この時に、この外苑の競技場が避難所にもなったという記録も残っています。

戦前の「外苑競技場」の姿

松隈:1940年オリンピックが今から80年近く前に、こうやって決まります。実はこの時には、招致のために場所がないものですから、この外苑競技場を改装してオリンピックを招致しようと決まるんですね。この時の招致アルバムの写真も今でも写真集になって残ってます。

これが招致が決定した状態の時の神宮外苑の競技場ですね、絵画館との関係を見ていただくといいんですけど。これは今でもそうなんですけど、競技場の高さが絵画館側と競技場側で7メートルほど高低差があるので、絵画館側のスタンドってのは芝生の法面(人工的な斜面)になっていました。

そしてメインのアプローチは絵画館側で、それは明らかに絵画館側の景観を傷つけたくないという配慮があったわけです。

これは絵画館の屋上から青山通り側を撮った写真ですけれども、80年くらい前にこういう姿がここにあったのかということ自体がちょっと驚きの写真だと僕は思いました。

競技場の空撮なんかもこうして残ってます。実は霞ヶ丘アパートに、64年のオリンピックの時に転居させられた人たちが住んでいたのが、このスタンドの裏側くらいだと思うんですけど、こういう状態だったものですから、ここにスタンドを建てて、こちら側をグラウンドにしてたということですね。

こういうスタンドの断面図がありまして、1階にこういう食堂もあって、震災の時にここに避難した方が多かったという記録が残っています。

岸田日出刀が1940年オリンピックの外苑招致に反対した理由

松隈:それから伊東忠太という建築家と佐野利器という構造学者がこの明治神宮外苑に深く関わる建築家なんですけど、その二人の教えを受けた岸田日出刀という人がかなりキーパーソンになって、この外苑の問題について扱っていきます。 「幻のオリンピック」が1940年ということで、開かれる会場計画を、岸田日出刀が中心となって立てました。

当時、彼の教え子で独立したばかりの前川國男、それから学生だった丹下健三が、会場計画案を手伝います。

もちろん外苑に決まっていたんですけど、岸田は強くこの外苑をメイン会場にするのはやめようという話をします。彼は理由を3つ言っていて、ここでは敷地が小さすぎるんだと。それから外苑の風致を害する。それから、まさに1924年にできた建物を1940年のオリンピックで壊すのはあり得ないだろう、すべて破壊しなくはいけないのはおかしい。ということで、彼は強く反対していました。

こういう新聞記事も残っているんですけど、この中で言ってる言葉が今聞いても非常にアクチュアルでして。ちょうどオリンピックが3年に迫ってきた時期なんですけれども、自分は3年後のことを考えてるんじゃなくて、その10倍の30年後のことを考えて、「ここじゃダメだ」と言ってるのだと主張していました。

実は、そうは言っても、招致した組織委員会はIOCとの約束で、ここでやらざるを得ないと進めるんですね。

そこで岸田が苦肉の策として、メインスタンドじゃなくて絵画館側のスタンドの地上部分をすべて木造の仮設にするという提案をしていました。これの図面を書いていたのが前川國男と丹下健三なんですね。

オリンピックのスタンドは仮設のものでいい

松隈:それからもうひとつ、岸田がこれだけ強い主張をできたのが、先ほど森山さんがご説明してくださいましたけど、1936年のベルリンオリンピックの視察に岸田は文部省から派遣されています。そして帰ってきて、こういう写真集を出しています。

この中に、これは当時の説明図ですけれど、開会式が開かれた国立競技場周辺の鳥瞰図ですとか、岸田自身が撮影した写真、こういうものが全部掲載されてるんですね。

岸田は繰り返し何を言ってるかというと、これだけの規模のオリンピックを開くためには、結局、尽きるところ土地の問題だと。なぜその公共的なスペースが確保していないのかということに気づかされる、ということを当時書いています。

仮説の話も何回か出てくるんですけど、ベルリンのオリンピックでもですね、広いグラウンドで馬術大会するときに、こういう仮説をしていたんですね、当時、日本では丸太の足場しかなかったんですけど、向こうではもう単管の足場が使われています。

これの詳細な写真まで撮って、こういう仮説の方法もあるよということを、この写真集の中で岸田は示しています。

それから、明治神宮外苑のもともとの競技場の設計者は小林政一さんという人なんですけど、この人も、やはり改装について問題提起をしていて、絵画館側については芝生の上に鉄骨で架設スタンドをつけて、それでオリンピックをすればいいじゃないかと新聞で書いてます。

学徒出陣の壮行会に使われた競技場

松隈:結局、内務省が管轄してたんですけど、明治神宮の方から「ここでは困る」ということで、招致が決まったときの場所ではなく、明治神宮外苑に作らずに、駒沢のゴルフ場跡地に土壇場で方針が変わるんですね。

これが駒沢で計画された戦前の最終案です。東京市が設計チームを組んで作りました。これは見ていただく通り、先ほどご紹介したベルリンオリンピックの鳥瞰図からかなり影響を受けています。多分、唯一の参考資料だったので非常に強い影響を受けて作られています。

ただ、これを作った直後に日中戦争が始まっていましたので、東京大会が中止になると。そしてこれからわずか5年後にこの明治神宮外苑の競技場では学徒出陣の壮行会が開かれました。平和の祭典が行われるはずの場所で、戦地に向かう学生たちを雨の中見送る行事が開かれたんです。

岸田の上司の内田祥三が、この年に東大の総長になって、学生たちを見送る立場になってしまったという歴史もあります。

そして戦後になって、アジア大会の誘致が決まって、この場所を最終的に改築しようということで、取り壊されてしまうことになりました。

これは解体中の写真ですね。なかなか頑丈に作ってあったので、一部ダイナマイトで爆破したり、ずいぶん苦労して取り壊したということらしいです。

これが1958年にアジア大会のために完成した姿です。絵画館との関係を見ていただくと、今の競技場より少し小ぶりになっていることがおわかりになると思います。

これの左側がもともとの姿で、メインスタンドしかなくて反対側は芝生になっていますが、1958年の段階でぐるっと円周を全部作ったという形ですね。改修前はスタンドの裏側ににサブトラックがあったというのが、ちょっと面白いです。