ノーベル経済学賞・ダニエル・カーネマン氏が語る、幸福を妨げる“3つの罠”

経験と記憶の謎 #1/2

ノーベル経済学賞の受賞者であり、行動経済学をつくり上げたダニエル・カーネマン氏の幸福に関するスピーチ。「経験の自己」と「記憶の自己」、2つの自己で幸福の捉え方が異なるとする自説を説きました。(TED2010より)

幸せを妨げる罠

ダニエル・カーネマン氏: 最近、幸福について話す人が多いですね 過去5年に出版されタイトルに「幸福」と入っている本を数えたところ、あまりの多さに40冊ほどで諦めてしまいました。研究者の中でも幸福への関心はかなり高まっています。幸福への指導もたくさん行われ、皆が人々の幸せを願っているようです。しかし、そのような努力にも関わらず、幸福を正しく認知するのを妨げる罠がいくつかあります。

今日はこの認知の罠を取り上げます。これは自らの幸福を願う一般の人にも、幸福を研究する学者にも当てはまります。この罠により誰も幸福を理解していない状態にいるからです。

ひとつ目の罠は、幸福は複雑だと言うことを認めたがらないことにあります。「幸福」という言葉は今では以前ほどの便利な表現ではないという事が明らかになりました。この表現を様々な事にあてはめすぎているからです。

この言葉にはある特定の意味がありましたが、今では狭い意味に限定することは不可能と認め、幸福な状態をもっと複雑な見方でとらえなくてはいけないのです。

ふたつ目の罠は、体験と記憶を混同してしまうことです。生活の中で見いだす幸福と自分の人生の幸福度合い、この違いです。このふたつは非常に異なる概念ですが、どちらも幸福というひとつの観念にまとめられがちです。

幸福を正確にとらえる方法はない

3つ目の罠は、錯覚に気づくこと。幸福の状態を左右する状況をゆがめて考えてしまうのは残念なことです。これはまさに認知の罠です 幸福を正確にとらえる方法がないのです。

例を出してみましょう。私の講義の後におこなった質疑応答で、ある方がこんな話をしました。彼は交響曲を聴いていてその音楽に聞き惚れていたところ、その曲の終わりに耳をつんざく音が入っていました。

彼はかなり感情的に曲が台無しになったと訴えていました。でも、台無しになったのは曲ではなく、その経験の記憶です。彼は素晴らしい曲を20分聴いていたのにその価値がなくなったと思ったのは、台無しになった記憶が残ったからです。

彼に残ったのは記憶しかありません この話から我々は自らを2つの自己として考えているらしいとわかります。「経験の自己」―これは現在を生き、現在を経験し、過去にも戻れる自己です。でも基本的には現在しかありません。例えば、医師が「ここを触ったら痛みますか?」と尋ねる相手は患者の経験の自己です。

もうひとつは「記憶の自己」というのがあります。記憶の自己とは、記録を残し、人生の物語を紡ぎます。例に出すと 「最近の調子はどうですか?」「旅行はいかがでしたか?」なんていう質問です。このふたつは まったく異なるもので「経験の自己」と「記憶の自己」を混同してしまうのは幸福の観念に見られる混乱なのです。

「経験の自己」と「記憶の自己」

自己を記憶することは、物語を話すことのようなものです。我々の記憶の基本的な反応ですぐに動き出します。我々が話を練るときは、ただ我々が語っているのではなく、記憶が我々に語るのです。要は、経験から引き継がれたものが話になるのです。

その一例を挙げてみます。昔行われた研究で、大腸内視鏡検査を受けた実際の患者から得たデータです。この検査は今となっては痛みを伴いませんが、研究が行われた90年代には痛みを伴う検査でした。患者は60秒ごとに痛みの度合いを報告するように言われています。

これは2人の患者と彼らの痛みを記録したものです。この2人のうちより苦しんだのはどちらかと聞かれたら、明らかにそれは患者Bですね。彼の検査時間のほうが長く、患者Aが毎分感じた痛み以上に、患者Bは痛みを感じました。

さて別の質問をしましょう。患者自身にどれだけ苦しんだと思うかと尋ねると、驚くことに患者Bよりも患者Aのほうがより嫌な記憶として覚えていたのです。

2人の検査は異なっていました。なぜなら、その記憶の1番重要な部分は検査の終わり方なのです。どちらの記憶も特に特筆なことはありませんでしたが、一方の記憶はもう片方よりも明らかに悲惨なものでした。

より嫌な記憶として語られた患者Aは、まさに終わるときに痛みがピークを迎えていました。本当に悲惨なものです。対象となった患者には検査後、時をおいてインタビューしました。検査全体の印象を評価してもらうと患者Bよりも患者Aがより大変だったと答えました。

これは経験の自己と記憶の自己の間で起こるはっきりとした矛盾です。経験の自己の視点で見ると 患者Bのほうが大変だったのは明らかです。では患者Aにどうすべきだったか。実際に行った臨床実験で効果が確かめられているのですが、患者Aのチューブをそれほど動かさず大腸内視鏡検査を長引かせます。

そうすることで患者は痛みを感じますがその痛みはほんの少しで、それまでに比べて痛みは激減します。これを数分やれば、患者Aの経験の自己にはつらい思いをさせますが、記憶の自己にはずっとましな処置です。なぜなら患者Aに与えた経験による記憶はましなものになっているからです。

記憶の自己と経験の自己とは全く別物

物語を形作るのは何でしょう? これは記憶を通して我々が思い出す話や我々が作り上げる話にも共通したことです。話を形づくるものは変化であり、決定的な瞬間であり、結末なのです。結末は非常に重要な役割を果たしていて、この患者のケースでは検査の締めくくりが記憶の善し悪しを左右したのです。

さて経験の自己は、人生において切れ目もなくどんな瞬間でも次から次へと新しい経験をしています。「この瞬間」の行方は? と問うと答えは非常に簡単で、永久に失われます。人生における時間の大半は失われます。

心理的現在は約3秒だと言われており、その3秒は人生で約6億回、月に約60万回もある計算になりますがほとんどが形跡を残しません。ほとんどが記憶の自己に無視されてしまいます。

それでもどういうわけか、今この瞬間には価値があり、そこで起きている事こそが人生であると感じるのです。我々が生きる間に体験できるのは限られたものであり、人生をいかに過ごすかということが価値を持つように感じますがこれは記憶の自己が残す記憶とは違うのです。

記憶の自己と経験の自己とは全く別物なのです。1番の違いは時間の扱い方です。経験の自己の視点で見てみましょう。休暇に出かけるとします。1週間の休暇も、2週間の休暇も同様に楽しんだとすれば、2週間の休暇で得られる充足感は1週間の休暇の2倍です。

しかし、記憶の自己はこのようには働きません。2週間の休暇は、1週間の休暇とさほど変わらないのです。なぜなら新しく加わる記憶はなく、記憶自体を変化させる事がないからです。

このように時間は記憶の自己と経験の自己を区別する重要なポイントです。この休暇の例に時間はあまり影響力はありません。記憶の自己は、話を記憶し語ること以上に働きがあります。

記憶の自己のために我々は休暇に出かける

実際に決断をするのは記憶の自己です。例えば、大腸内視鏡検査を2回2人の医師から受けた患者にどちらかの医師を選んでもらうとすると その患者は記憶の中でましだった方の医師を選びます。この選択をする際、経験の自己は関わっていません。

通常我々は経験から選ぶ事はせず記憶から選び出します。未来のことを考える時でさえ、経験として考える事は普通ありません。先を見越した記憶として未来を見ています。これは記憶の自己が我々を支配していると考えてください。記憶の自己が決定を下し、経験の自己に対して望んでいたわけでもない事も経験させるのです。

私が感じるのは我々が休暇に出かけるのは、休暇とは記憶の自己のために行くものだという気がします。これを正当化するのは少し難しいのですが、我々は記憶をどれだけ思い返すでしょうか? これは記憶の自己が支配している説明のひとつです。

この事を考える時、数年前の南極旅行を思い出します。それは今までで最高と言える旅行で、その他の旅行に比べて思い出す回数も多いのです。

その3週間の旅行を過去4年のうちに思い出したのは25分程度でしょう。もしも、600枚の写真を見返したとしたら1時間追加されるくらいです。3週間の旅行に対してせいぜい1時間半の記憶なので何となく不釣り合いです。

経験の自己はどれだけ幸せなのか

平均的な人ほど記憶を思い返すことをしないのかもしれませんが、もっと頻繁に記憶にアクセスしたとしても真の疑問が残ります。なぜ経験と比べて記憶に重きを置くのでしょうか? 

ここである思考実験をしてみましょう。皆さんの次の休暇で、休暇の最後になって全ての写真が削除されるとします。皆さんは記憶喪失の薬を飲まされ旅行の記憶はなくなります。それでも、その休暇を選ぶでしょうか?(笑)

別の休暇を選ぶとしましょう。2つの自己が対立して存在しているので、それをどのように決定するか考える必要がありますが、実際のところわかりづらいんです。

時間を優先すればある答えが出てくるでしょうし、記憶を優先すれば別の答えが出てくるかもしれません。なぜその休暇を選んでいるかという2つの自己の間にある選択肢は我々が直面する問題です。

2つの自己は2つの幸福の観念をもたらします。2つの自己に対して適用できる幸福の観念がそれぞれにあるのです。そこで出てくる質問は「経験の自己はどれだけ幸せなのか?」。

そして「経験の自己の人生においてどれだけ幸せを感じているのか?」。幸福を感じる瞬間とは非常に複雑なプロセスです。測定できる感情とは何でしょうか? 経験の自己が感じる幸福と時間の関係性はわかっていただけたと思いますが、記憶の自己の幸福を尋ねるとしたらそれはまた別物です。

これはある人がどれだけ幸せに暮らしているかということではなく、その人が自分の人生を考えたときにどれだけ満足しているかということです。

この2つはとても違う観念です。ですが、この観念の違いがわからなければ幸福の研究はうまくいきません。私はまさにこんな感じに長い間、幸福の研究にあぐねている学者の1人です。

「記憶」と「経験」における幸福度の相関関係

経験の自己の幸福と記憶の自己の満足感が違う、ということは近年注目されるようになりました。現在では2つを隔てて測る努力もされています。ギャラップは50万人を対象に世界中で世論調査を行い、自分の人生と経験をどう思っているかアンケートを行いました。

そして、それに沿った形で他の調査も進んできました。近年では2つの自己に絡んだ幸福に関してようやく明らかになってきたところです。我々が学んだ主なことは、2つがまったく別物だということです。

ある人の人生の満足度を測る事はできても、そこからその人がどれだけ人生を幸せに過ごしているかはわかりません。反対のことも言えます。相関性を示してみましょう。

相関性は約0.5パーセントです。例えば 父の身長が180cmだとある人が言ったとしても彼自身の身長に関しては何もわかりませんね。多少の目安にはなりますがはっきりしたことはわかりません。それくらい経験と記憶の関係性は不確かだと思ってください。

ある人が自分の人生は10点満点中8点だと言ったとしても、どれだけ経験の自己が幸せなのか推しはかることはできません。ですから相関関係は低いのです。

幸福に対する満足度を支配する要素はわかっています。お金は大切ですし、目標も大切。幸福とは主に好きな人と共に満足することであり、好きな人と時間を過ごすことです。他にも考えられますが、これが支配的です。

ですから、2つの自己の幸福度を強めたい場合はまったく異なる事柄をする事になるでしょう。要は、幸福は心身ともに健全でいることと同じ事だと考えるべきではないのです。2つはまったく違った観念です。

カリフォルニアへの移住による幸福度の変化

ここで手短に説明しますが、幸福を考える時、これほど複雑化するもう1つの理由は人生に関して考えるときと実際に生きている日々とでは我々は同じことに注目していないということです。

ですから、カリフォルニアの人たちに幸せの度合いを尋ねても正しい答えは得られません。その質問を他の人にするとカリフォルニアのほうが幸せなはずだと思うのです。例えばオハイオの人なんかね (笑)。ここで起きるのは、カリフォルニアで暮らす事を考える時、カリフォルニアと別の場所を対比させて考えるということです。

例えば気候の違いです。実は気候というのは経験の自己には重要ではなく、人がどれだけ幸せなのかを反映しているわけでもありません。

しかし、記憶の自己の中では気候は幸福の一因ととらえ、中にはカリフォルニアへ引っ越す人が出るのです。幸せになるだろうと期待してカリフォルニアへ移り住む人たちに何が起こるのか。

追跡するのは興味深いんです。経験の自己が一層幸せになる事はありません。本当です。でも確実に言えるのは彼らがもっと幸せだと思うようになる事です。

なぜなら、彼らはオハイオの天気がどれだけ悪かったか思い出し、正しい決断をしたと感じるからです。心身ともに健全でいることを事実どおりに考えるのは非常に難しいのです。どれだけ難しいことなのか、わかってもらえたでしょうか。

<続きは近日公開>

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