マリオはなぜ世界でヒットしたのか?
チームラボ・猪子氏が語る、日本的空間認識とクリエイティビティの関係性

日本文化と空間デザイン~超主観空間~ #1/2

情報社会化が進むにつれ、言語化できる領域ではプロダクトの差別化が図りにくくなっていく、と語るチームラボ・猪子氏。では、非言語領域で独自のものをつくっていくにはどうすれば良いのか? 日本独自の空間認識を例に挙げながら、クリエイティブと文化の関係性について紹介しました。(TEDxFukuokaより)

チームラボを起業したきっかけ

猪子寿之氏:僕はチームラボという会社をやっています。チームラボのエンジニア達はプログラマーだとか、デザイナーだとか、CGのアニメーターとか、建築家だとか、数学者、そういった実際に手を動かすスペシャリスト。そういったスペシャリストの集団で出来ています。

スペシャリストが自分の専門領域の範囲を超えて、共に考え、共に創る。そういうプロセスを通して、ものを作っている集団です。

僕らは、サイエンスだとか、テクノロジーだとか、デザインだとか、アート、そういうものの境界線を曖昧にしながら「実験と革新」、そういうものをテーマに何か自分たちが作る。

作ることを通して、もしくは作るプロセスを通して、何か未来のヒントみたいなものを見つけていければいいなと思ってやっています。僕らは社会にとって、テクノロジーとクリエイティビティ、そういうものが最も重要であると考えて起業しました。

今日は、自分たちの活動を通して普段感じてること、発見したこと、具体的には個人や世界にとってのクリエイティビティなどが、僕たちが認識している以上に豊かな認識の上に成り立っている。そういった話ができればいいなと思っています。

言語化できる領域は差別化が図れない

情報社会になって情報の共有スピードが激しくなって、例えば、特に言語で言語化できる領域や論理化できる領域は競争が極めて激しいので、競争の差異がなくなっている気がしています。

むしろ、かっこいいとか、かわいいとか、おもろいとか、気持ちいいとか、そういった領域を文化依存度の高い領域と呼んでいるんですけれども、文化依存度の高い領域こそが競争の源泉になってきている。

つまり、文化依存度の高い領域は、作る方法論が言語や論理で記述できない。よって共有しにくく、競争の源泉になっていく。つまり差異を生んでいくのではないか。そういうふうに考えています。

そういった意味で僕らの文化や文化そのものを紐解いていきたい、そのように考えています。

文化といっても表面的な形式ではなくて、文化の裏側にあるような世界をどう捉えているか、世界をどう認識しているか、そういうものをちゃんと紐解いていきたいと思います。そういう意味で、僕らはアート作品を作っています。アート作品を作るプロセスを通して、僕らの文化の裏側にあるものをちょっとずつでも紐解いていきたいと思っています。

具体的にどういった作品を作っているかというと、

こういうような日本画のようなアニメーション、日本画のような映像作品を作っています。どういう思いで作り始めたかと言うと、西洋文明が入ってくる前、昔の日本人は今と違った風に物事を捉えていて、今と違った風に捉えていたが故に、見えている世界が今とは違ったのではないかと思っています。

日本画に見る「超主観空間」とは

よく日本画は平面的だと言われますけれども、それは現代人にとって平面的に見えるのであって、当時の日本人とっては空間に見えていた。つまり、今の人が写真を見て空間だと感じるように当時の人にとっては、日本画を見てそれを空間だと感じていただろうし、もっと言うと世界を見た時に、世界が日本画のように見えていたのではないかというふうに思っています。

もっと言うと、西洋のパースペクティブと同じように日本画にも空間認識のちゃんとした論理構造があって、それはパースペクティブとは違うけれどもきちんとした空間認識の論理構造がある。そういう風に思っているんです。僕たちはそういった論理構造を模索して、それを自分たちは「超主観空間」と呼んでいるのですが、そういった論理構造的に作品を作っています。

具体的に言うと、いったんコンピュータの裏側にこういった空間を作って、オブジェクトも全部立体的に作ります。これはコンピュータ上に作った空間をパースペクティブに見た状態ですよね。

ディスプレイに表現された時点で空間は表現できないので、何らかの論理変化をして平面に落としてディスプレイに表示しているのですけれども、これはコンピュータ上の空間をパースペクティブで見た状態。僕らは、僕らが模索した論理構造で平面化してこういう風な平面にしています。

これはコンピュータの裏側では、同じ空間です。パースペクティブで見るとこうなのですが、日本的な空間認識で見るとこういう風になっている。自分たちの論理構造をもとに、空間を論理的に平面化して映像作品にしています。

昔の日本人は世界がレイヤーに見えていた?

実際、このように作った作品を展示していると、見終わった人たちが「チームラボさんは何レイヤーでアニメーションを作っているんですか?」と聞かれます。

よく自分はいろんなところで国語能力がないだとか、日本語が崩壊しているだとか、何言ってるかさっぱりわからないだとか、ネットを見ると書かれていたりするんです。だから、多分僕の日本語が崩壊しているがゆえに、何を言っているか分からないんだろうなと思って悲しい気持ちにいつもなるんです。

「一生懸命空間で作っているんですよ!」といっても、「あーそうですか! で、一体何レイヤーでアニメーションを作っているんですか?」と聞かれ、馬鹿にしているのかな? と思うのですが。

冷静になって自分たちが空間で作り上げたものを見ると、まるでいくつかのレイヤーで描いたように見えます。なるほど、確かにレイヤーで見えると。つまり、日本の空間認識で世界を見ると、もしかしたらレイヤーで見えやすいのではないか? 

もっと言うと、昔の日本の人達は世界がレイヤーに見えていたのではないか? そういうふうに思い始めたんです。そういうふうに考えるといろいろなことがつながってきます。

例えば、世界をレイヤーに見ていると、実際に人が人工的に世界をデザインする時、世界はレイヤーに見えているので、デザインもレイヤーになります。つまり、人が空間をデザインする時、世界もレイヤーでできているのではないか。

これは、典型的な日本のお庭、実際にレイヤーで描かれています。借景まで作られています。借景も1つのレイヤーですね。本当はすごい空間なのに、逆に西洋はもちろん世界をパースペクティブで見ていたので、世界をパースペクティブで見ていた時、実際、人口的に人がデザインするとき、パースペクティブでデザインしたんだと思うんです。

日本人と西洋人の導線の違い

これは典型的な西洋のお庭。パースペクティブでデザインされていますね。パースペクティブでデザインされた空間というのは、横に動くと空間が歪んでしまいます。つまり、空間が歪んでしまうので横に動けない。なので、導線がこのように、まっすぐに導線ができたんではないか、そういうふうに思うんです。

逆に、レイヤーでデザインされた空間というのは、正面に移動するとレイヤーが壊れてしまうので正面には移動できないんです。ただし、横方向に中心という概念がないので、横方向に自由に移動できます。

なので、横方向に導線ができたんじゃないかと思うんです。つまり、空間のデザインの違いが人の導線の違いを生み、人の導線の違いを生んだんだと思います。例えば、西洋の人は自分の動きに対していつも世界は正面にあり、日本の人は自分の動きに対しいつも左側に(笑)、横側にあったんではないか、そういうふうに思うんです。

マリオと日本の空間認識との関係性

話が変わるんですけれども、これは僕が大好きなマリオ。マリオというのは世界で初めて横スクロールアクションという概念を生み出して、世界中で大ヒットしています。世界中の人々は、マリオを生んだ人に対して天才なんじゃないかと神のように賞賛しています。 でも考えてみてください。マリオを生んだ人は京都にいて、京都は伝統的な日本の空間の認識によってデザインされた空間に溢れていて、もしかしたら毎日の生活の中で自分の生活に対していつも世界は横側にあったんです。

その横側に合ったデザインは、レイヤーによってデザインされていてその風景をそのままゲームという世界に落としただけなのかもしれない。

実際、マリオというのは2次元のゲームと言われるんですけれども、マリオの背景はレイヤーによってデザインされていて、マリオで遊ぶとまるで空間の中をマリオが駆け巡ってるような感じが子供の頃していたと思うんですね。

「洛中洛外図」と「ドラクエ」の共通点

また、話が変わってしまうんですけれど、これは有名な洛中洛外図、典型的な大和絵ですね。

これは、ドラクエ。

再びマリオ。全然関係なさそうですけれども、実はこれは同じ空間認識による平面だと僕らは思っています。例えば、ここに梯子と橋があります。これは学校の先生に怒られる構図です。

でも、日本の空間認識の論理構造では正しい表現なんですね。散々、日本の空間認識の論理構造という話をしているんですけれども、もうちょっと考えてみましょう。考えやすいように、西洋のパースペクティブからおさらいしましょう。皆もしかしてわかってるかもしれないけれど、もう1回おさらい。

これは有名なおばちゃんの絵ですよね。この有名なおばちゃんの絵は西洋のパースペクティブで出来ています。

パースペクティブというのは画家視点。画家が青い人だとしたら、水色の空間を認識しているということですね。おばちゃんは赤い人ですよね。水色の空間の中に、おばちゃんが立っています。

そういった水色の空間の中におばちゃんが立っている映像を、パースペクティブで平面化して映像化したのがさっきのおばちゃんの絵ですね。ここで、絵を見ながらさっきのおばちゃんになりきったとしましょう。おばちゃんにはなりきりたくないんですけれども、ここはおばちゃんになりきりましょう。

仮におばちゃんになりきったとしたら、おばちゃんの見えている風景はピンク側、あのピンク側の風景が見える。つまり、絵をみながら、絵の登場人物になりきると、見えてる風景が変わる。当たり前ですよね。

人間は空間を論理的に合成している

ここで、大和絵をもう1度見ましょう。これは典型的な大和絵ですね。大和絵はどのような風景が見えていたのか? 大和絵は視点という概念は極めて無いと思っているんですが、ここではわかりやすくするため視点があったとしましょう。

視点があの青い人、手を上げている青い人。あの人の視点から水色の空間が見えていて、その見えている風景を描いたのが左側の大和絵ですね。まさか世界がこんなふうに見えているはずがないと思うかもしれない。

でも、それはたまたま西洋文明に侵されているだけで、もしかしたら見えているかも知れない。そもそもだって、人はこんなふうに見えていないです。人間の目というのは、フォーカスの範囲が極めて浅くて、極めて狭い。

例えば、僕の顔を見た瞬間、僕の顔の作りは、見えていないですよね? 僕の顔を見た瞬間、前の人の後頭部は見えていないですよね? 視界に入っているはずなのに見えていない。

つまり、極めて浅くて、極めて狭いんですね。それは、自分たちが認識している以上に極めて浅くて、極めて狭い。でも、そんなに狭くてそんなに浅いと思っていないですよね? なんで思っていないか?

もちろん人間は、いっぱい動いて、フォーカスもして色々認識している。それを時間軸の中で、いっぱい認識している。狭くて浅い部分を脳の中で論理的に合成しているんですね。その論理構造がパースペクティブの論理構造で認識している。

だから人間は、風景がまるで写真のように見えているような気がするし、写真を見たら、それを空間だと感じるんです。そういうわけですね。

登場人物になりながら、絵を客観的に認識できる日本の空間認識

だから、所詮これも脳の合成だと考えればこういう風に見えていたと考えても、それは、おかしくないかもしれない。納得いかないかもしれないけど、ここでは、昔の日本人は、このように見えていたとしましょう。

青い人が四角い周りの空間を見えていて、それがあの風景ですね。あの絵です。仮にそういう風に見えていたとして黒い服を着たオッサンがいますよね。黒い服を着たおっさんの位置はちょっと違いますけども、仮にそれを赤い人だとしましょう。

で、水色の空間に赤い人がいる。それを見ているのがこの絵ですよね。仮に黒い人になりきったとしましょう。黒い人になりきったら、この風景はピンク色の部分ですね。ピンク色の部分が黒い人が見ている風景。見ている風景は、ほとんど変わらないですよね?

つまり、何が言いたいかというと、絵を見ていて登場人物になりきった。絵の登場人物になりきっても、見えている風景は、変わらないですよね。言い換えると、絵を見ていて絵の登場人物になりきっても、絵を見続けられる。

でも、さっきのおばちゃんの絵は、絵を見ていて、おばちゃんになりきった瞬間に絵は見続けられない。でも、この絵は絵の人になりきっても見ている風景は変わらない。なので、絵を見続けられるんですね。

未来に文化をつないでいくことこそが重要

また再びドラクエ。僕は、子供の頃にドラクエをやって、レベルアップをするたびに狂喜していました。まるで自分事のように嬉しかったんです。いや、「まるで自分事のように」ではなく、自分事だったんですね。自分事だった。

でも、映画と違ってゲームというのは操作をしなくてはいけない。ゲームを操作するというのは、絵を客観的に認識して、絵の中のどこに人がいて、どこにいるから上に操作するとか、右に操作するわけですけど、つまり絵を認識し続けなくてはいけない。

にもかかわらず、レベルアップするたびに自分事として喜んだ。完全に登場人物になりきりながらも、絵を見続けられたんですね。逆に、パースペクティブの世界だと、登場人物になりきると、絵は見れなくなる。なので、どうなるかというと、逆に登場人物を画面上に出すことができない。

これは典型的なアメリカのゲームですね。なので、銃だけだとか、ハンドルだけだとか、コクピットだけだとか、そういう風になる。

もちろん大袈裟かもしれないけれども、先人達が長年構築していった日本の空間表現を現代の日本人も無意識に受け継いでいる。そして、その日本の空間表現がインタラクティブなコンテンツであるゲームの空間表現と非常に相性が良かったのではないか。

だからこそ、当時の日本のゲームというのは、世界中を夢中にさせることが出来たのではないか。そういう風にも思えるんです。何が言いたかったかと言うと、クリエイティビティというものは自分たちが思ってるよりも、個人個人の能力を遥かに超越して、豊かな文化の上に成り立ってる。

そう、文化は長い歴史の中で非言語に、そして無自覚に連続しながら新たなものを生んでいってるんですね。それはもっと言うと、文化を生み続けることが文化を連続させていくことであり、それが個人もしくは社会のクリエイティビティを生んでいると思うんですね。今日はありがとございました。

<続きは近日公開>

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