自分が第一人者になれる分野を作る

岡島:宮﨑さんに今の続きで聞いていきたいんですけど、そういう意味ではサイバーさんに入られたときは何人ベースくらいになってたんだろう。

宮﨑:300人くらいですね。

岡島:そうですよね。今から見ると全然レベルが違う……。

青柳:10倍以上ですよね。

岡島:その300人くらいのところに入られて、当時のサイバーはどういう状況……?

宮﨑:当時は……広告事業は順調に伸びている、メディアはメールマガジンとかHTMLメールとか、そこらへんが全盛期で、ブログが出てくるちょっと前。SNS・ブログの出始めるちょっと前だったので、ちょうどトレンドとトレンドの谷間。「新規事業どうしよっか」と。

当時の広告事業はやるだけ伸びたのでアップサイドだらけなんですけど、単一事業で広告だけをやっていると、飽きちゃうじゃないですか。サイバーエージェントは営業会社から始めて、メディア企業にシフトして技術力をつけて、グローバルで大成功するっていうロードマップがあったので。

その中で「次どうしていこうか」「もっと大きなメディアを立ち上げたい。ずっとメールマガジンやっててもね」と。ここからアメーバブログが始まってるんですけど、ちょうどその手前くらいに入ったので。過渡期というか。

岡島:最初に入ったときは配属ですよね。自分で選べないですよね。

宮﨑:はい。

岡島:最初に何をやられたんですか?

宮﨑:内定したくらいのときは大阪支社の立ち上げというか、大阪の社員が5名くらいのときに入っていたので普通に広告事業の営業をしていて。内定者のときからお客さんを持って普通にやってました。

岡島:そこで頭角を現していって、さっきの話でいうとポジションがどんどんできて。

宮﨑:そうですね。

岡島:どうやって勝ち取っていったんですか。

宮﨑:ちょうど1年目のときにアメーバブログが立ち上がったんですけど、ウチも当時は営業の会社だったので企業をアメーバブログに誘致したいと。しかも中小企業ではなくて、大手の企業さんと。

そういうところとアライアンスを組んだり、大きなプロモーションを企画立案してプロジェクトマネージメントまでできる人がいなかったので、ある日突然、社長の藤田から「宮﨑、東京に来て(その仕事を)やってくれ」と言われまして、それを立ち上げたと。

岡島:それは何で抜擢されたんだろう。

宮﨑:僕は1年目のときに新人賞を取っていて、新人賞を取った人には、でかいチャンスを提供するっていうのが、ウチの会社の伝統としてあるんですね。一方で、1年目のときにSEM(Search Engine Marketing)とかサイトリスティングの広告とかが流行っていて、そこの第一人者が社内にも業界にもゴロゴロいたので、自分が第一人者になるような分野を作らなきゃと思って。

それがその当時は欧米で流行って、日本でもにわかに流行り始めたばかりのブログ・SNSのマーケティングだったんです。

そのときにちょうど大阪で大手の広告主のお客様がいらして、僕がブログを勉強しながら新しいプロモーション手段として「ブログを活用してユーザー参加型のキャンペーンをやりましょう」という企画書を持っていったら「面白いね、すぐやろうよ」ということでドーンと予算を付けていただいて、その当時業界で話題になったキャンペーンをやったんです。

そこから僕のブログとかCGM(Consumer Generated Media)のキャリアがスタートしていったという。

20代で転んでも致命傷にはならない

岡島:早いですよね、なんか。何でそんなに覚醒が早いの?(笑) 20代前半でしたよね、まだ。25歳とかそんな感じ。

宮﨑:学生のときは起業家志向の仲間や、目線の高い人とばかりいるようにしていたので……。

岡島:同志社でしたっけ?

宮﨑:同志社です。だから京大の友達とか関西の学生の友達とか、そういう起業家目線の仲間と集まっていて。話すことも「どういう事業が伸びそう」とか「○○ってベンチャー企業の○○さんって経営者かっこいいよね」「将来一緒に事業立ち上げようぜ」とかそういう話ばかりしてたので、自然とそういう目線になって。

岡島:そういう意味では(青柳さんと)似てますよね。SFCもそういうカルチャーだし、周りにそういう人たちがいるから、学生から社会人になるところの立ち上がりがすごく早い感じがする。しかもサイバーの仕組みが、新人賞を取った人にはどんどん任せていくし、フロンティアを開けていくっていう、これも社内でのブルーオーシャン。

宮﨑:そうですね。業界のブルーオーシャンでもあって。そういう人、目立つ人にはやっぱり仕事がくるんで、そういうキャリアの築き方を意識してました。

岡島:20代でチャレンジしてそれを楽しんでるっていうのが、すごく面白いなっていうか。変な言い方なんですけど、20代で転んでも致命傷にはならないと思っていて。

青柳:そうなんですよね。

岡島:なのに、何でみんなそんなに怖がってんのかなっていうか。「リスクは~」とか。命は取られないと思うんだけど(笑)。「でも親が~」「周りが~」とか。そうすると、ググっとそこで新しい領域を開いていって、サイバーバズ……。

宮﨑:(サイバー・バズを)立ち上げたのは2006年、(入社)3年目のちょうど1日目から社長。

岡島:3年目か。今3年目の人を見ると、ピヨピヨな感じがしません?

宮﨑:いや、それがそうでもないんですよ。

岡島:まあ、新人社長とかいますもんね。

宮﨑:新人社長とか、内定者で会社を作るとかやってますから。負けてられないなって感じがしますけどね。

岡島:後ろからの追い上げというか突き上げもあるんですね。ありがとうございます。

海外展開における苦労話

岡島:ここからはお二人に、もうひとつの山の「海外」の話をしたいと思っていて。さっきのお話にもあったように、グローバルに出ていってる企業もたくさんあって、大変なこともたくさんあると思うんです。成功も失敗もきっといろいろある。

でも今振り返って、そこを二人とも通ってきて、お二人にとっての海外でのチャレンジ……しかも割と(フロンティアを)開けていった二人だと思うので、それがご自分のキャリアにとってどうだったかというところをお話ししていただけますか? 青柳さん。

青柳:私は、最初は結構うまくいくんじゃないかなと思って。「日本でもグリーがうまくいったし、イケるだろう」くらいの気持ちで行ってしまったという(笑)。その後、大変想像と違った。

岡島:何が違ったの?

青柳:働くときの文化・環境みたいなものが全然違って。日本ではグリーの知名度もあるし、でもあっちだとグリーってテレビドラマの『glee』ですよね(笑)。

岡島:なるほどね(笑)。

青柳:そんな感じで、しかも「お前らいつ帰るの?」「アメリカでずっとやり続ける気があるの?」みたいな感じで、最初はなかなかローカルの方を採用できなくて。「採用さえできないのかよ!」っていうふうに思って、苦しんだところがありますね。

岡島:そこが一番の想定外かな?

青柳:あとは、そもそも西海岸特有の働いている人たちの仕事観とか職業観みたいなところが……まあシリコンバレーというところが、アメリカの中でも違うカルチャーの人たちが集まってるので、そこに対してちゃんとアダプトして自分のものにするまでに、やっぱり1年強かかったかなと思いますね。

岡島:この辺から二人とも混ぜて聞いていきたいんですが、宮﨑さんはどうですか?

宮﨑:僕も海外の展開は相当苦労しましたね。

岡島:ちなみに、二人とも帰国子女でもなんでもないでしょ?

宮﨑:なんでもないです。

青柳:僕ね、20歳のときにTOEICが600点だったんですよ。

岡島:(笑)。私が笑うとちょっとよくないんだけど(笑)。だから、そういう意味ではアメリカに住むのも初めて?

宮﨑:住むのも初めて。何ならカンファレンスで行ったことがあるくらい。サンフランシスコに。

岡島:やっぱりチャレンジャーですよね。もちろん断るチョイスはないんでしょうけども。

次のステージへ上がるためのアピールの仕方

宮﨑:自分で、30歳までに大きな事業をやりたいと思っていて。25歳でサイバー・バズを始めて、(目標が)かなったというか事業責任者、経営者にはなれたので、あとは腹を括ってやるだけだと。

(新しく)30歳の目標を作っておかないと、自分の中で成長が止まるかもしれない。そう思ったときに、30歳で海外でやるっていうのを決めたんですよ。25歳のときに。で、(当時CA8だった)西條(晋一)さんに同行したときなど、ことあるごとにアピールしてみたりとか。

岡島:パスポート落としてみたり(笑)。

宮﨑:(笑)。英語でブログ書いてみたりとか、やってたんですよ。しばらくやってたらそれを覚えてくれてて、西條さんがサイバーエージェントの海外事業をやろうと決めたときに、僕に声をかけてくれて。「一緒にやらないか」って。

岡島:やっぱりキャリアのタグですよね。「海外、海外」ってずっと言っていると想起されて、脳内で「宮﨑さんこう言っていたな」っていう。

宮﨑:人ってそんなに覚えてくれないじゃないですか。「あいつそんなに○○やりたいんだ、じゃあ任せてみようかな」っというところにもっていくことが大事。なので言い続けて、アピールしてナンボかなと思って。

岡島:宮﨑さんの場合は「30歳で海外」って思ってたのも、ほめちぎっているわけじゃないんですけど、「自分は挑戦し続けないと退化していく」ってみんな言うんだけど、実際やるってときに「はい」と言わない人が多いじゃないですか。

多いんですけど、そこで二人とも……事業責任者やったり上場もして、ある意味事業開発のところも安泰になってるわけで、会社も伸びている。会社が伸びているからそこに乗っていけばいいって話もあるじゃないですか。そこで新しい大変なチャレンジ、しかも言葉も文化も違うところに……。

青柳:でも当時の自分がやらなかったら、これはちょっとおこがましいんだけど、ウチの会社の限界がそこに来るのかなってところもわかっていたんですよね。そういう意味では乗っかっていくっていうか……安定した大企業だったらわかるんですけど。

岡島:作っていかなきゃっていう。

青柳:そうですね。そういう危機意識のほうが大きかったかなと思います。あとは当時の2010年くらい、日本にジンガさん(Zynga Japan)とかが入ってきて、山田進太郎さんの会社(ウノウ株式会社)を買収するとかが起きて、「日本で戦国時代だ!」って(誰かが)言ったら「いや、これグローバル戦国時代だから」みたいな(笑)。

岡島:「あれ、ゲーム変わってきたぞ」っていう。

青柳:そういうのがあって、行けるんだったら自分から行かなきゃっていうので、あんまり「これに乗ってったら大丈夫だから」みたいなのが(なかった)。上手くいったと思ったら危機がすぐ来るんで。

岡島:でも逆境力が強いですよね、グリーは。グリーの人たちも。

青柳:まあそうですね(笑)。

岡島:さっきの自己効力感じゃないけど、「なんか越えられるんじゃないかな」ってみんなどこかで思ってるんじゃないかな。

青柳:そういう楽観はありますね。それがなかったら、アメリカの途中で折れたでしょうね。

自己否定できるという強み

岡島:宮﨑さんはどうですか? アメリカに行ってグッと自分が伸びた感じ?

宮﨑:苦労しましたけど、アメリカで西條さんと一緒にやってる時期があって、そこでちょっと覚醒した感じはしますけどね。

岡島:どんな覚醒ですか?

宮﨑:一回自己否定しないといけない環境に追い込まれたっていうのが、やっぱりデカくて。日本でやったものが全部通じない。その当時、グリー・DeNA・ウチ(サイバーエージェント)が海外に行っていて、残り2社はちゃんと買収をやってたけどウチはやらずに来たので。

岡島:オーガニックに。

宮﨑:それがいい面もあるんですけど、採用も含めて相当苦労した部分の方が大きかったです。採用した人たちの定着も日本とまったく違って、すぐに転職したりするじゃないですか。シリコンバレーの競争環境のなかで自社をどう見せていくかとか、どうローカル採用の人たちをマネージメントして組織づくりするか、どう事業を作っていくか。

全部の変数が、不確定な要素だらけ。こんな難易度の高い市場でビジネスしたことない。その中でやってたので、そこは本当に……失敗もいっぱいしましたけど、めちゃくちゃ成長はできたと思います。

岡島:自己否定できるっていうのも強さなのかな。

宮﨑:自己否定せざるを得ない状況に追い込まれた、みたいな。

岡島:どうですか青柳さんは。

青柳:僕は、今宮﨑さんがおっしゃった「グリーはアメリカで大きな買収を2つしてる」(のときに)300億円くらい使わせていただきまして。300億円投資して結果が出なかったら経営責任じゃないですか(笑)。なので自己否定とかそういうところではなくて、上場会社の役員として、これがもうダメだったら会社を辞めるしかないなと(笑)。自己否定というよりも、追い込まれてます。

「アメリカでやりたい」って言って300億円使って結果が出なかったら、今まで僕がどんなにグリーに貢献してたとしても、このスパンでは経営責任を取らなきゃいけないわけですから。僕、今までグリーに入って追い込まれたことがなかったなと思って、そのとき初めて自分の取締役の座を賭けたなと。

岡島:今日、いいですね。手が震えた話とか(笑)。

青柳:自分の恥ずかしい話をさせてもらいつつ(笑)。

岡島:こういう場でないとなかなか聞けないから。

青柳:岡島さんがすごく聞き出すからしゃべっちゃう(笑)。

岡島:全然全然。なるほどね、追い込まれてそこでまた勝ってるんですよね。

青柳:かろうじて(笑)。

岡島:で、宮﨑さんも勝ってるんですよね、戦って。採用も難しいし、採用して上手くいってるかなと思ったらチームが割れてったりするし、人は辞めたりするし。

宮﨑:そうですね……。

岡島:すぐ辞めるって言うし、競合(他社)に行くって言うし(笑)。

宮﨑:もう「えっ!?」みたいな(笑)。

岡島:「何言っちゃってんの!?」って、決めてきてるしみたいな感じもありますよね。人間不信にはならなかったの?

宮﨑:そこはならなかったですね。もともと芯が強いほうなんで、そういうふうには考えなかったですけど。まあ、割りきってこの環境に自分を合わせて成長させていくしかないなっていう感じに考え方を変えましたね。