原点にある「喜ばれる人になりなさい」という言葉

——永松さんは、バースデーのお祝いをするたこ焼き屋という、非常にユニークな事業をされていました。その成功の裏にはお母さまの言葉があったとおうかがいしましたが、グラフでは41歳の時にそのお母さまがご病気になったとあります。

そこから飲食店はスタッフへの譲渡を開始して、講演はすべてキャンセルというご決断をされましたが、どんな思いがあったのかをおうかがいできますか?

永松茂久氏(以下、永松):母は僕が子どもの頃からギフトショップを経営していて、親と一緒に過ごす時間があんまりなかったんです。

でも、家族は基本的にはけっこう仲が良かったんですが、僕と弟はよく問題を起こしていたので、世間の扱いとしては「ギフト屋の2人のバカ息子」みたいな扱いでした。そんな僕たちに母親がいつも言ってくれていたのが、「喜ばれる人になりなさい」という言葉だったんです。

「人生で一番大切にしている言葉は何か?」と、最近よく質問をされるんです。もちろん斎藤一人師匠とか、いろんな人にもらった言葉もあるんですけど、僕の原点は、この「喜ばれる人になりなさい」という一言です。

「どうすれば喜ばれる人になれるのか」を追求していたら、たこ焼き屋がダイニングレストランになり、ダイニングレストランがウェディングをするようになり、出版依頼が来て、講演をするようになりました。そうやって飲食・出版・講演の3本柱で走っていた時に、母ががんになってしまったんです。

僕は当時、福岡の店の立ち上げをやっていたんですが、そのまま地元に飛んで帰りました。そこで父から、母が膵臓がんの肝臓転移、ステージ4のがんになってしまったと聞きました。

父から「俺はどうしてもあいつを助けたいから、力を貸してくれないか」と言われて。自分の母親なのでもちろんそうするつもりでしたが、僕は実は以前から、スタッフたちに飲食店を渡すと決めていたんです。

うまくいっていた事業を手放した理由

——事業はうまくいっていたのに、なぜ手放そうと?

永松:僕はたこ焼き屋にはなりたかったけど、別に飲食店をやりたかったわけではなかったんです。その当時10店舗近くの店があったんですが、「これをいつまでも続けることはないな」と思っていました。それでスタッフたちに「みんな、社長になる準備をしとけよ。この店はお前らに渡すからな」と常々言っていたんです。

彼らに譲渡をするのはもう少し先の予定だったんですが、僕はとにかく母のそばにいたかったので、このタイミングで飲食事業を手放そうと決めました。そして講演も、本当に年間250回とか、渡り鳥のようにいろんなところに行っていたんですが、そこからはほぼリスケやキャンセルをしました。

最後に残ったのが、母の横でパソコンひとつでできる出版の仕事だったんです。飲食・講演・出版の中で、出版ならば母のそばでできるなと思って、その1つに絞ろうと決めました。ちなみに母も、僕が本を書いているのが大好きだったんです。「専業作家になったら?」とよく言われていました。

その時に、「よし、俺は出版一本でいこう。母さんが良くなるまでは、絶対に講演はしない」と決めていたのですが、たまたまどうしても断れない講演があって。その日に母の容体が急変して、闘病生活を始めてから約1年後、最後は講演の後に電話でバイバイしました。

——そうだったんですね。そこから再び上京されていますが、どういった思いがあったのでしょうか。

永松:母の遺品整理をしていた時に、一冊のノートが出てきたんです。それは母の手記で、結果的にはそれが遺書になったのですが、その中に、「あなたは絶対日本一のメンターになるよ」という言葉と、最後に「あなたの本の日本一のファンのたつみより」と書かれていました。母はひらがなで「たつみ」という名前です。

それを見た時に、「俺は日本一のメンターになろう。ところでどうやったらなれるのだろう?」と考えるようになりました。母はよく「私はあんたが日本一になる姿を見てみたい。出版だったら日本一になれるんじゃない?」と言っていて、僕は「そんな甘いもんじゃないから」と言ってたんですけど。

大ベストセラー『人は話し方が9割』が生まれたきっかけ

でも、母の遺書にもそのことが書かれていたのを見て「母さんのあの言葉は本気だったんだな」と思いました。それで、父と弟と妻に、「母さんが『俺は日本一のメンターになる』って言ってくれたから、それを実現するために、東京へ行ってくる」と伝えました。たぶん母の中でメンター業のナンバー1は、やはり本を書くことだったんです。だから「まずは出版で日本一になる」と伝えました。

その時に父から、「そうか。お前が日本一になったら、たつみは日本一の母になるんだな」とポロッと言われたんです。「なんで母さんが日本一になるの?」と聞いたら、「そりゃ、息子が日本一になったら、それを生んで育てた母親は、日本一の母だろうが」と言われて、僕の中で覚悟が決まったんです。

実は僕は、銀だこに勤めてから九州に帰る時に、「次は絶対に武器を持って、東京に出てくる」と決めていました。僕にとっての武器はたこ焼きかなと思っていたんですけど、まさかの出版だったという。人生ってどうなるかわからないものだと常々感じています。

そうして東京に来て、「僕は絶対に日本一になって、母親を日本一の母にする」と、講演や出版で事あるごとに言っていました。

そんな中、すばる舎の現在は営業副部長をしている原口大輔さんから、実は5年も6年も前から「話し方について書いてくれ」と言われていました。でも、僕は話し方の専門家ではないからと、ずっと断っていたんです。

ただ、僕がその当時大事にしていたのが、「頼まれごとを頼まれた以上に返していくと、どんな人生が起きるんだろう」という展開型の生き方でした。例えば「夢を持ってまっすぐ進んでいく」という生き方もありますよね。でも、出会った人によって、あみだくじのように変わっていく人生もありだなと思っていたんです。

それで、原口さんの企画を受けることにしました。それが『人は話し方が9割 〜1分で人を動かし、100%好かれる話し方のコツ〜』という本になりました。

上手に会話をするための3つのポイント

——大ベストセラーとなるわけですね。『人は話し方が9割』はコミュニケーションがテーマですけれども、コミュニケーションを円滑にするために永松さんが意識していることや、苦手な方に向けてのアドバイスをいただけますでしょうか。

永松:人と上手に会話をする一番の方法は、「上手に話そうとしないこと」なんですよ。矛盾したことを言うようですけど、人は「上手にしゃべろう」というふうに自分に意識が向くと、絶対に緊張するようにできているんです。

そうではなくて、目の前の人にちょっとでも、「この人と会えて良かったな」とか「話せて良かったな」と思ってもらうことが、最高の話し方だと思っています。だから別にアナウンサーみたいに流暢に話せなくてもいいし、会話が途切れてもいいと思うんですよ。

それよりも大切なことは、やはり「目の前の相手が喜んでくれるように」と思いながら話すことで、ポイントは3つだけです。1つ目は、いい表情をする。要は笑顔でいることや、人と向き合った時に感じを良くする。

そして2つ目は、人が話している時にうなずいて話を聞くこと。要は共感することです。笑顔でうなずいて、相手の話に対して良いリアクションをする。「ああ、それって良いですね」「なるほど、初めて知りました」とか、「勉強になりました」「わあ、おもしろいですね」とか、「きゃー」でも何でもいいんです。

「職場の苦手な人」との関わり方

そして3つ目が、相手に肯定的な言葉をかけることです。

「笑顔で、うなずいて、相手を肯定する」という3つのことさえできれば、誰でも会話が上手になると、本で伝えています。

あと、もう1つポイントがあるとすれば、それは「苦手な人や嫌な人と、無理をして話さなくていい」ということです。自分の話をよく聞いてくれる人、自分が話を聞きたい人、要は良い会話ができる人との時間を増やしたら、人は必然的に会話がうまくなります。なので、いきなり苦手な人のところに行くのではなくて、会話力を上げていった後に、苦手な人とは話をすればいいと思います。

——仕事上、苦手な人とも関わらなきゃいけない場面では、どうしたらいいんでしょうか?

永松:その質問は一番多いんですけど、とにかく端的に終わらせることですね。まずは本当に話しやすい人と会話力を高めていくことを意識して、その人たちとの仕事で忙しくなると、おそらく嫌な人に使う時間は必然的に減っていきます。

「仕事だから嫌な人と話さなければいけない」というところに関しても、僕は「なるべくスルーしながらやれる方法って、果たしてゼロですかね?」と聞きます。すると、意外とそうでもないことが多いんですよ。「嫌な人とうまく話さなきゃ」という時間を、もっと自分の有意義な時間に当てたほうが良いと思っています。

『人は話し方が9割』は、コミュニケーションスキルの本ではない

——克服しようと思うのではなく、自分の人生の時間をどう使っていくかという考え方ですね。

永松:そうです。『人は話し方が9割』は、コミュニケーションスキルの本ではなくて、メンタルの本なんです。みんな慣れた人の前では、ペラペラしゃべるわけです。でも、嫌な人や大勢の人の前に立たされたりしたら、いきなりしゃべれなくなる。これって絶対スキルじゃなくて、メンタルの問題じゃないですか。

仕事はもちろん大事ですが、心を削ったり人生をボロボロにしてまでやるものなのかなという疑問はあります。世の中に会社はいっぱいありますし、なんなら起業もできます。僕は「起業」という言葉をよく知らないうちに、25歳~26歳でたこ焼き屋を始めたんですが、創業当時から「好きな人だけと生きていく、好きな人とだけ仕事する」と決めていたんです。

それが実現するまでにちょっと時間はかかったんですけど、わがままと言われようがなんだろうが、自分の時間は、自分の好きな人たちのために使いたいなと。嫌な人のために使う暇なんか、1分1秒たりともないと思って生きているんです。

自由とわがままって、すごく紙一重だと思います。その代わり、嫌な人と関わらないことは、嫌な人が自分にとっての飛躍のチャンスを持っていたとしても、絶対にお願いしないということです。ふだんは逃げ回っているのに、自分が困った時だけ、その人のところにひょこひょこ行くって、ぜんぜん筋が通らないじゃないですか。

その人がいないとどうにもならないと思っても、絶対に頼らない。自分の選ぶ道は自分で責任を取るしかない。それが「好きな人だけと生きていく」ということにおいて、自分に課した部分です。