小学生からたこ焼き屋で働き、高校は2日で謹慎

——永松さんは飲食店の経営から本の執筆、コンサル業など、これまでさまざまな事業を展開されておりますが、どんな子ども時代を過ごされてきたのでしょうか?

永松茂久氏(以下、永松):幼い頃からけっこう山あり谷ありでした。僕は小学生の時から、地元の大分県中津市という商店街のたこ焼き屋で働いていたんですよ。お手伝いという体で始めたのですが、気がつけばお店を任され、中学生の時はほとんど僕一人で店を回していたような、今思えばめちゃくちゃな環境だったんです。なので、商売人としてスタートしたのは、小学校5年〜6年ぐらいの時でした。

——子どもの頃から1人でお店を回していたというのは驚きました。当時のご経験が、のちの起業にもつながっていくのかなと思いました。そこから16歳の時には、「高校に入って2日目で謹慎。そのままドロップアウトし、謹慎明けの条件で空手部に入部」とありますが、ここは何があったんでしょうか?

永松:中学校はとてもおおらかな学校で、呑気に好きなことをやらせてもらえる温かさがあったんですが、高校はどちらかというと進学校でした。中学3年の時にえらく成績が上がったので、調子に乗って進学校に入ったんですが、僕は大きくなったらたこ焼き屋になるって決めていたんです。

そしたら「ここは大学に行くための高校だ」とか言われたので「しまった、来る学校を間違えた」と、僕は初日からふてくされてしまったんです。「こんな学校、辞めるならいつでも辞めてやる」と思っていました。そこである時、事情は割愛するのですが、入学早々、謹慎を食らってしまい「どうしようかな」と思っていたら、先生に「条件がある」と提案されました。

僕は中学校の時、少林寺拳法の全九州のチャンピオンだったので、「今度立ち上げる空手部に入るなら、謹慎を解いてやる」と言われて、そのまま空手部に入れられました。こんな話は本にも書いたことないんですが、高校3年間は僕の人生の黒歴史ナンバー1です。

波瀾万丈な10代を過ごし、親友との約束を果たすため上京

——謹慎を解くために空手部に入部するというのは、すごいエピソードですね(笑)。小学校の時からたこ焼き屋になると決意されていたとのことですが、19歳の時に将来を約束されていた親友が他界されたと。この約束は、たこ焼き屋になる夢と関係があったんでしょうか。

永松:そうです。小・中ずっとたこ焼き屋でバイトをしていた中に、手伝いで引っ張り込んだ修司という友だちがいて、「大人になったら2人でたこ焼き屋を作ろう」と約束をしていました。その友だちが「東京に行っておいでよ」と僕に言ったんです。

「なんで東京なんだ? そもそもたこ焼き屋だったら大阪だろ?」と言ったら、その修司が僕にこう言ったんです。「東京にはすごい人たちがいっぱいいるから、そこに行って大企業の社長たちの息子とかと仲良くなって、俺たちがたこ焼き屋をする時にお金を出してもらおう」と。

——お友だちはそこまで考えていらっしゃったんですね。

永松:「東京にそんな人がいるなら、行くしかねえな」と思ったんですが、実は(高校で)卒業延期になってしまいまして。「卒業見込み」という認定が取れなくて、初年度は大学を受けられなかったんです。結果的には二浪したんですが、一浪は自動的に決まってしまいました。

それで地元で浪人をしていた時にその修司が心臓病で突然死んでしまったんです。予期せず夢の片割れがいなくなったのですが、「修司との約束だから俺は東京へ行こう」と決めて、とりあえず受かった大学に入った感じです。

「間違いなくこの会社が日本一になる」と言われ銀だこへ

——10代の頃から、波瀾万丈のご経験をされていらっしゃったんですね。そこから24歳の時に銀だこに就職され、1年ほどで大分県に戻って起業されていますけれども、どういった経緯だったんでしょうか?

永松:23歳の時、知り合いの紹介で流通経済大学の出版社の社長さんと出会う機会をいただき、その方に「たこ焼き屋になりたいんです」と話したら、「じゃあまずはうちに勉強に来なさい」と言われました。「これもご縁かな」と思い、その会社で営業マンとして働くようになりました。そうしたら、その会社のクライアント先に日本一のソース屋であるオタフクソースを見つけたんです。

入社したその日にオタフクソースに行って、「たこ焼き屋になりたいので、僕に力を貸してください」と言ったら、「君おもしろいね。しかもいい夢だ。私たちでよければいつでも力を貸すよ」と言ってくださったのが、僕の兄貴分でもある、今のオタフクホールディングスの社長の佐々木茂喜さんという方でした。

その時に、「今は出版社の営業をやっているし、僕らは本を作れるんだよな。どうせたこ焼き屋になるんだったら、たこ焼きの本を作ろう」と思いつきまして。

「たこ焼き業界を元気にする本を作りたいので、スポンサーになってくれませんか?」とオタフクソースさんに企画書を渡したら、茂喜さんが「いいよ」とお金を出してくれて。いろんなたこ焼きのルーツとか、こんなたこ焼き屋があるというのを取材して回っていたんです。

そこで最後に茂喜さんから言われたのが、「君にどうしても紹介したいたこ焼き屋がある」と。当時、別の会社へ取材に行こうかなと思っていたんですが、「銀だこという会社に行ってほしい。間違いなくこの会社が日本一になる」と言われたんです。

その取材で会いに行ったのが、株式会社ホットランド(築地銀だこ)の社長の佐瀬(守男)さんという方でした。「僕はたこ焼き屋になりたいので、この企画を作りました。社長、たこ焼き屋になる方法を教えてください」と言ったら、「じゃあうちに入れよ」と、銀だこの社長室にスカウトされて。そこから約1年半ぐらい、社長のそばでたこ焼き屋の経営ノウハウを勉強させていただいてから独立しました。

起業するもうまくいかず、人生に迷っていた

——その後は実際に起業され、28歳の時に「経営がうまくいかずに人生に迷っていた」とあります。どんなご苦労があったんでしょうか?

永松:地元の大分県中津市に帰って、「亡くなった修司に届きますように」という思いを込めて、「天までとどけ。」という名前のたこ焼き屋を作りました。ここまでは夢を叶えた青年みたいないい話なんですけど、世の中はそんなに甘いものではありませんでした。

地元の小さなスーパーにたこ焼き屋を出したところ、メンバーとして集まってきたのが、ニート、引きこもり、ヤンキー、高校中退、失語症といったメンバーだったんです。人数だけはやたら集まったので、人件費を稼ぐために九州一円ずっと行商をしていたんです。

そうすると、なかなか地元には帰れないので、スタッフみんなもくたびれ果ててしまって。「このまま俺たちはどうなるんだろう?」という、先がまったく見えない状態でした。その時に、たまたま鹿児島の宿で、あるサービスビデオを夜中に1人で見ていたら、知覧特攻平和会館が出てきたんです。

そのビデオで、亡くなった祖父がことあるごとに言っていた「人生に迷ったら知覧に行け」という遺言を思い出したんです。その翌日、その知覧に行ってみると、日本を一生懸命守ろうとした二十歳前後の若者たちの遺書がたくさん展示されていたわけです。

その遺書を見た時に、「この人たちの作りたかった日本を作るために、俺はここから生きていくんだ」と考えるようになりました。まだたこ焼き屋も満足にうまくいかない時に、今度は、僕が「『for you精神』あふれる日本を作る」とか言い出したので、スタッフみんな「何事ですか?」とびっくりしてしまって。

「俺たちは『for you』という思いを日本中に伝えて、日本を変えていくんだ」とスタッフたちに言ったら、「じゃあ、まず僕たちを幸せにしてください」と言われて、それはそうだよねと。

「みんなはどうしたい?どうすれば幸せになれる?」と聞いたら、「そろそろ行商をやめて、地元で働きたい」と言うので、それを実現させるために作ったのが「陽なた家」という店です。最初の計画では10坪ぐらいの店だったのですが、なぜか70坪になり、1~2階で150席もあるダイニングレストランになってしまったんです。

「感動は非効率の中にしかない」

永松:建物を建てて借金を抱えて、夢だけが膨らんだ状態で「よく考えたら、俺たち料理ができないんだよね」と。順番がでたらめなんですけど、「料理は出しながらだんだん上手になっていけばいいんじゃないか?」「でも、そんなことをしていたら店が潰れるから、それ以外できることをしようよ」と、あの手この手をいろいろと考えたんです。

店がオープンする前のレセプションの時、創業メンバーでがんばってくれていたスタッフがちょうど誕生日だったので、「そのスタッフにサプライズバースデーをやろう」とやったバースデーのお祝いが、すごくウケが良かったんです。店内にいたお客さん全員が感動してくれて、大号泣みたいになっちゃって。お客さまから次々に「あのサプライズバースデーをやってほしい」という声がかかるようになりました。

それでも、僕は「なんでたこ焼き屋で、サプライズバースデーをしないといけないんだろう」と思っていたので、最初はやる気がなかったんですよ。ただ、ギフトショップを経営していた実業家の母に、「感動は非効率の中にしかないのよ。非効率であればあるほど、『ここまでしてくれたんだ』ってお客さんは喜ぶんじゃない。せっかくだったらやってみたらどう?」と言われたんです。

それからはサプライズバースデーをやればやるほど、毎回予約が入りました。結果的に、陽なた家が始まって5〜6年経った頃には、1店舗で年間3,000件ものバースデーのお祝いをするという、変な店になっていました。

生涯の師匠となる斎藤一人氏との出会い

——「感動は非効率の中にしかない」というお母さまの言葉が、起死回生のきっかけになったんですね。そのあと、31歳の時に斎藤一人さんとの出会いがあったということで、どんなことを教わったのでしょうか?

永松:人として、商売人として、男として、いろいろなことを教わりました。「もしあの時、一人師匠と出会えていなければ、僕は今、どこで何をやっていたんだろう?」とよく考えます。

斎藤一人さんって、ふだんはぜんぜん表に顔を出さない、謎の納税日本一の実業家だったんです。その一人師匠との出会いは、たまたま人から「日本一の大商人が大分に来るから、講演を聴きに行くぞ」と連れて行かれたことがきっかけでした。

その前日に、スタッフみんなで出張バースデーをしに行っていたので、そのまま全員を講演会場に連れて行きました。そこで講演会を聴き、二次会で一人師匠に「せっかくなのでうちの店に来てくださいよ」と言ったら、「明日は予定があるから」と断られたんです。

しかし奇跡的に、たまたま僕を案内してくれた人が一人師匠たちの宿の手配をしていたんです。なので宿の場所がわかってしまって、「もう1回頼みに行こう」と、宿の前で一晩待っていたんです。そしたら一人師匠が笑って「わかった、負けた。今から行くよ」と言って、陽なた家に来てくれたんです。

一人師匠は、はじめ僕たちの店を小さなたこ焼き屋だと思っていたみたいなんですが、連れて行かれたところが、150席のダイニングレストランだったわけです。それで「君、おもしろい商人だね」と。「俺、君みたいな若い子を見るとワクワクするんだよ。今度、東京に来ることがあったら遊びにおいで」と言っていただきました。

そこから毎月1回東京に行くようになり、商売人として、人としていろいろなことを学びました。一人師匠は大ベストセラー作家だったので、「本ってどうやって作ればいいんですか?」ということを学ばせてもらって、僕も作家として実際に本を出す形になったんです。

——斎藤さんとの出会いがきっかけで、事業がどんどん広がっていったんですね。

永松:それはもう間違いないです。