「厳しい指導」がされなくなったことに警鐘を鳴らすイチロー氏

豊嶋鉄平氏:おはようございます。グロービス経営大学院の豊嶋(トヨシマ)です。火曜日は「なぜ? の深掘り」と題して、ビジネスシーンでよく見かける出来事や習慣に対して問いを立て、あらためて考えてみるコーナーです。みなさんの仕事に関する視点や考え方に対して、新しい気づきになれば幸いです。

今回は、「なぜ、厳しく指導すべきなのか?」です。現役引退後、MLBシアトル・マリナーズで選手の指導にもあたっている元プロ野球選手のイチローさんは、近年、日本全国の高校野球でスポット的に指導にあたっていることが知られているかと思います。

そのイチローさんが、先日訪れた高校で「指導する側が厳しくできない」という発言をしていたことが、大きな話題となりました。時代の移り変わりによって旧来行われていたような、厳しい指導がされなくなったことについて警鐘を鳴らしていました。

スポーツをまるで修行のような修練の機会とするのではなく、あくまで1つの娯楽やアクティビティとしてエンジョイすることを主眼に置く取り組みは、近年高く評価されているかと思います。今年(2023年)の甲子園では、まさしくそのようなスタイルを貫いた慶應義塾高校が優勝を果たすなど、旧来の軍隊のごとく厳しく指導する方針は、時代遅れの習慣として否定的に語られているようにも思います。

また、ハラスメントや体罰の温床にもなっていた、軍隊的な体育会系の指導を受けずに済むことは、時代感覚のアップデートであるようにも思いますし、若い子たちにとってはいいことであるようにも感じます。

ただ、イチローさんはこれを「酷なこと」として賛同していないとのことです。なぜなら、一見すれば優しさをまとっているようにも見えますが、同時にむき出しの自己責任を課している可能性があるからです。

イチローさんいわく、ある時代までは、自分で自分を厳しく律することができない人であっても、厳しい大人に指導されることで、その人の自堕落さや怠け癖を直していた。だからこそ、自分を甘やかして易きに流れるような人であっても、どうにか脱落することなく、ある一定のクオリティに仕上がることができていたとのことです。

厳しい指導をされた人とそうでない人の間に生まれる格差

今回の「なぜ、厳しく指導すべきなのか?」という、少し賛否が分かれるテーマに対して深掘りする上で、「育成に責任を負えるか」というマインドが必要になってくるかもしれません。

ビジネスの現場で上司や管理者が部下に対して厳しい指導をしようにも、ハラスメントとして告発されてしまうリスクが高いです。また厳しい指導をしたせいで心が折れたり、気持ちが萎えたりして辞められてしまうのは、人手不足の状況では死活問題になってしまいかねないため、うかつに踏み込むことができません。

なので教育者、指導者側も、まず自分で自分を厳しく律することができる人、厳しいフィードバックに耐えられるタフネスがありそうな人を慎重に選んで、育成するようになってしまっています。

なので、そうでない人は心が折れて辞められたりすることがないよう、腫れもの扱いしながら敬遠する。結果的に自分に厳しくできない人や、厳しいフィードバックに耐えられない人は、表面的には優しくされる快適な日々を送ることができます。しかし、タフな人と比べると、経験値や成長度で大きな差をつけられてしまい、誰にもそれを埋め合わせしてもらえない実状が生まれてしまいます。

厳しい上司は、部下を一定のラインまで引き上げてくれていた

格差が開いてしまったあとから、「自分がこうなったのは、誰も厳しく教えてくれなかったせいだ」などと申し立てることはもちろんできないですし、「自分でちゃんとしなかったせいでしょう」と、あっさり切り捨てられることもあるかもしれません。

厳しい上司というのは、部下を一定のラインまで引き上げることを、責任を持って保証してくれる人であるように思えます。優しい指導は、理不尽やトラウマを味わう機会を減らすことは間違いないんですが、かつてそういう(厳しい指導をする)人たちによって保証されていた、「高みに上がってこれるかどうか」は、完全に自己責任になってしまったように思えます。

厳しいことがすべていいとは限りませんが、「優しさ」という無責任は部下のためにもならないですし、ビジネスの現場においても、上司が本来すべきマネジメントとは程遠いものかもしれません。私自身もあらためて後輩や部下との接し方などを考え直したいと思います。