京大教授が考える、ウェルビーイングのコアになるもの
市橋直樹氏(以下、市橋):出口先生が過去にいろんなところで、人々のつながりのデザインとか社交の場としての重要性をよくあげられていらっしゃるんですね。今日の前半の出口先生のお話にもあったんですけど、その場を作っていくことをWeとした時に、閉じたWeと、開かれたWeみたいな話。
「こういうのってあんまりよくないWeだよね」「こういうのがいいWeじゃないか」というところを、もう少し補足いただければなと思います。
出口康夫氏(以下、出口):それともう1つ、先ほどご紹介があった(渡邊さんとドミニクさんの共著でもあるウェルビーイングのテーマの書籍の)3部作のうちの第2部作『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』に、渡邊さんに突然「書いてくれ」と言われて書いたのですが、そこでは二つのテーマを扱いました。一つは、もちろんWeです。
もう一つは、そもそも「ウェルビーイングとは何か」という問題です。私の答えは、「ウェルビーイングとは、ウェルゴーイングだ」ということです。
このような考えは、今日のお二人との話の中でも既に出てきたものだと思います。行為と結びつけられたウェルビーイングとしてのウェルゴーイングとは、行為の結果ではなく、行為の途中の順調さ。さらに言えば、単に順調にいってるというよりも、「順調に回り出してきたなぁ」という感じです。
「QUINTBRIDGE」でも、人々が初めて出会っていろんな議論をしながら計画を立て始めて、「なんかこれ、うまくいきそうだ」っていう時が一番楽しい瞬間かもしれません。物事が本当にうまくまわり出して、結果が見えてくると、むしろ寂しくなってくるというか、がっかりとまでは言わないけれども、あの最初のウキウキ感が弱まったりするというのもありうるんだろうと思います。
行為を、参加者が常に共同でリスクを負いあっている共冒険と捉え、そのような共冒険が順調に回り出した状況、ないしは、そういった状況を感じるという事態としての「順調行為性」が、ウェルビーイングのコアではないかと考えています。
だから行為の結果ばっかり見て、その途中の状態である「順調行為性」を見落としてしまうようなウェルビーイングの測り方をすると、ウェルビーイングのコアであるウェルゴーイングを見落としてしまうことになり、ひいてはWeをより悪くしててしまうことになりかねない。
これは非常に重要な点、注意すべき点だろうと思います。このような観点は、先ほどの「3つの『ゆ』」(「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」の意。ウェルビーイングを捉えるための概念)のすべてに関わってくると思います。例えば「ゆとり」というのも、この遂行順調性としてのウェルゴーイングと重ねて考えることができるのではないかと思います。
みんなで「中心の取り合い」をすることが一番のリスク要因
出口:それからもう1つ、利益の中心の取り合いというゼロサムゲームをやるのも悪いWeだというお話もしました。
よく聞かれるのは、じゃあ、ゼロサムゲームをやめること、そこから降りることはどうやったらできるんですか、という質問です。自分だけがゼロサムゲームから降りたとしても、そのことで他の人が利益の中心を独占してしまった場合、自分が損するわけだから、なかなか降りれないですよね。
実際、さまざまな利害関係の中でビジネスをしたり、生活をしている最中に、中心をそう簡単に手放せるか、ゼロサムゲームから自発的に降りられるかと言うと、それは確かに難しい。
でも僕らは時々そういったことを、知らず知らずのうちにやっているのではないかと思います。例えば、「おみこしを担ぐ」という共同作業を思い浮かべてみましょう。うちの町内は超高齢者社会で、私ですら、この年になっても、「おみこし」というか一種の灯籠のようなものを担がされることがあります。
いざ「おみこし」を担ぐとなると、最初はみんな、ついつい「自分のんところは重たいなぁ」とか「ちょっとでも楽できないかなぁ」とか考えているかもしれません。このような状態では利益の中心の取り合いが生じている、中心をめぐるゼロサムゲームが起こっていると言えます。
でも、ちょっとバランスが崩れてみんなが「危ない!」と思ったら、そのようなゼロサムゲームをやっている場合ではなくなってしまいます。
中心の取り合い、ゼロサムゲーム自体が一番のリスク要因になってしまう。みんながゼロサムゲームのことを忘れて、同時に自発的に「わっ」と手を差し伸べないと「おみこし」がひっくり返ってしまう。同じようなことは「共冒険」としての行為一般について言えるのではないでしょうか。
突発的な事態が起こり、リスクが目の前に姿を現した場合、「これはやばい」となった時は、中心の取り合いを続けること自体が明らかにコストになる。そのような場面では、我々はみんな中心を手放し、ゼロサムゲームから自発的に降りざるを得ない。そういったことは目を凝らせばいろんなところで、ビジネスの中でも起こっているのではないか。
そういった体験を「ゼロサムゲームからの自発的降板」という形で言語化し、可視化する。それが重要ではないかと思います。
市橋:ありがとうございます。ウェルビーイングからウェルゴーイングがすごくわかりやすいですね。組織としてはそこをアウトプットで測っていくんじゃなくて、そういうふうになっていくための(プロセスの)評価指標を考えていかないといけないかもしれないですね。短期的に「KPIでこれを達成してればOK」だけではないところが必要かなと思います。
組織の情報共有の仕方にはイノベーションの余地がある
ドミニク・チェン氏(以下、ドミニク):そのプロセスが今いい方向に向かってるか、悪い方向に向かってるか。ウェルゴーイングなのかイルゴーイングなのか、おみこしってミクロ秒単位でわかるわけですよね。コンマ3秒ぐらいの時間幅で「あ、今やばい!」みたいなのが全員わかるという。
その感覚って、例えば100人のチームの中で「今ちょっとうちら、やばいかも」みたいな兆候を、100人のうち6人だけ気づいてるみたいな。他の人は忙しすぎて気づけない時に、全員がおみこしのように感じられる、何か情報なのか数値なのか、触覚的なインターフェースなのかもしれないし。
私が作ってる「Nukabot」は、ぬか床がウェルゴーイングなのかイルゴーイングなのかを教えてくれるテクノロジーです。あれをある学会で発表したら「地球版の、地球Botを作ってくれ」みたいに言われたことがありました。
今、地球がいい感じなのか悪い感じなのか。たぶん何を聞いてもよくないと答えちゃうんじゃないかみたいな話をしていたんですけれども。だからそこは何か情報提示のイノベーションや、組織での情報共有の仕方のイノベーションの余地が、多々残されてるなという気はしました。
市橋:ありがとうございます。
渡邊:おみこしの状態認知を考えた時に、早く簡単に認知するためにはどうするか考えると、「みんな同じセンサーを持てばいい」となるんですが、それはとてもリスクが高いんですよね。状態がその範囲外に出ちゃうとぜんぜんうまくいかないんです。
そうじゃなくて、みんな違うセンサーとか違う価値観を持ってその場にいるんだけれども、ある状態に対する「よいかわるいか」の判断に関しては一緒というのをどうやったら作れるのかなと。多様な人が集まってるんだけれども、「今この会社はよい状態かもしれない」「これからいい方向に向かっているかもしれない」ということに関しては共有されている。
だからもしかしたらビジョンもしくは会社全体のあり方は共有されているけれど、個人の価値観で動ける自由も残されている部分があったらいいのかなと、聞いてて思いました。
他者や生き物、物に対するケアが自分にも返ってくる
市橋:ありがとうございます。そういう意味では本当にビジョンとかパーパスが流行り言葉ではなくて、なぜそれが出てきたのか。そこをしっかり持っていれば自由度を高く作れたり多様性を認めあえると、今のみなさんのお話を聞いていて(思いました)。
あとは兆候みたいなところですかね。ウェルゴーイングなのかイルゴーイングなのかを測っていく時に、ビジョン・パーパス等はどうなのかなとか。例えばある会話がなされてる時、誰々が機嫌がいい時はここはうまくいくけど、何かしら人がこう(衝突)してる時って組織全体がこうだよな、とかの発見をマネジメント側としてやっていく必要があるんじゃないかなと気づきました。
まだまだ話は尽きないんですが、この後ネットワーキングの時間をみなさん楽しみにされていると思いますので、このセッションは、これを最後にしたいと思います。
最後にお三方から、今日1日を通じた気づきであったり、あるいは今日来ていただいてる方、ネットワーク越しにいらっしゃる方へのメッセージ。これは言っておきたいみたいなことがございましたら、みなさん一言ずつお願いできればと思います。ドミニクさん、出口先生、渡邊さんの順でよろしいでしょうか。
ドミニク:はい。お2人ともありがとうございました。淳司さんとは、もうSelf as Weな共著者な関係で、何度もお話ししてるんですけど。今日初めて出口先生ともお会いしましたし、出口先生の新著も読ませていただいて。こういう場でお話しできてすごくウェルビーイングな、ウェルゴーイングな時間でした。
1点だけ、今日話がしたくてできなかったなと思い返すのはケアについてなんですよね。出口先生との話の中で、物を大事にするみたいな話をしましたけども。(物に対して)ケアをすることが自分に跳ね返ってくる。逆に言うと、ケアレスに接することが自分自身をもケアレスにしていくと。
ここもそこまで単純じゃないので、いろんなことを議論しないといけないんですけれども。人は自分のウェルビーイングもケアするし、他者に対しても、生き物も、物もケアするという。そういう側面について、この先の議論があるのかなと思いました。
司会者:どうもありがとうございました。
「お金が儲かる」だけのビジネスではうまくいかない時代
出口:私のほうからも、お礼を申し上げます。ありがとうございました。多くの点について、3人で、さらにはみなさんで合意ができて本当によかったと思います。
最後に一言ですが、20世紀はやっぱり経済の時代だったと思います。「経済」という言葉が新聞の一面を飾るようになった。これは20世紀の前半にはあまりなかった事態だと言えると思います。
それに対して、21世紀は価値の時代だと思います。経済の独走というか、すべてを経済的価値に一元化するという考えは、もう限界に来ている。
その一つの現れとして、例えば地球環境を守らないといけないということがあります。ビジネスがうまくいき、経済がうまく回っても、環境が破壊されたら元も子もない。このような考えは今わりと広まっているのではないでしょうか。次に来るのは「ウェルビーイング」だと思います。
単にお金を儲けるとか、起業をしてビジネスをうまく回すだけでなく、何のためにやるのか、どのような価値の実現を目指すのかということが、今日、改めて問われているのだと思います。例えばウェルビーイングもそのような価値の一つですし、今日お話しした「よさ」もそうです。経済的価値に還元、回収されない目指すべき価値を見据えないと、ビジネスが一歩も進まない時代に来てるのではないかと思います。
渡邊:はい。最後にというかまとめというか。ウェルビーイングとかSelf-as-Weの話を聞いたり、もしくは話したりする時って、「流れるプールの中でどういう姿勢をとるのか」みたいな感じで僕は解釈します。
というのは、実際みなさんとこの場でご一緒させていただいて、この場に大きな流れがある中で、自分をどう置いたらおもしろい流れが生まれたり、ちょっとだけ流れが変わったりするのかなと。自分を流れるプールの中に配置してみるように考えて、こうやって話をしたりするんですけれども。
その視点はまさにSelf-as-Weでありつつ、一方で全体に対して「自分がいったい何ができるのか」という視点で、自分ごとでありながら他人ごとのように人と関わる。自分を公共物のように扱って、ギバー(Giver)として相手に捧げてみる。これによって結局は全体がうまく回って、自分も少しだけ気持ちよくなるというかほっとするみたいなことが起こるので。
心遣いと言うとすごく柔らかくなってしまうんですけれど、そういうものが流通する場として、ここも含めていろんな場ができていくといいなと思いました。
市橋:はい。本当にみなさん、ありがとうございました。