「言葉を理解している」とはどういう状態か

近内悠太氏(以下、近内):言葉の場合は、辞書を調べれば「この定義だと、どっちも正解になるね」とわかる。じゃあ、辞書を調べれば決定するじゃん。いや、決定しないんですよね。

久保彩氏(以下、久保):決定しないですね(笑)。

近内:言葉のおもしろさでいうと『舟を編む』(三浦しをん著)という小説があって、まさに辞書編纂の話なんですけど。

久保:ああ、好き好き。おもしろいですね。

近内:確か冒頭で辞書編集に来た新しい子に「君は『右』という言葉をどう説明する?」と聞くんですね。これは辞書あるあるで「右」という言葉をどう定義するかが、1つ辞書の勝負でもあるんです。

久保:(笑)。そうでしたっけ。

近内:「右」の言葉の定義、みなさんはわかります?

久保:左の反対はダメ(笑)? ダメですね。

近内:じゃあ、左の定義は? 

久保:(笑)。ああ、来た。おもしろいのが出てきた。

近内:たぶん「北を向いた時の東になる」だと、今度北や東を調べるとまたそこに右や左が出てきて循環するんです。でもみんなが共通しているもので定義しなくてはいけない。僕の持っている新明解国語辞典では、「アナログ時計を正面に見た時の1から5が書かれている側」と書いてあります。

久保:おもしろい! そんなことが書いてあるんですね。

近内:「明」という漢字があるじゃないですか。漢字の「明」は「日」と「月」でできているけど、(右の定義として)「月の側」とも書いてあるんですよね。

久保:ええ(笑)!

近内:つまり誰でも今目の前に見えている共通のものによって、「右」を定義するという。

久保:はあ! おもしろい。

近内:哲学者の(ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・)ウィトゲンシュタイン的に言うと、ある人が「右」という言葉を理解しているかどうかを決める時、「『右』の定義を言ってみて」じゃなくて、「はい、右手を挙げて」「右を向いて」「私の右に立って」など言葉と行動がちゃんと一致した生活ができていたら、それは「右」を理解していると言えると。

つまり「右」という言葉を理解しているとは、言葉だけでなく、言語外の身体やいろいろなやり取りの中で、やっと「右」ということが理解されていく。というか齟齬なく「右」という語を使い続けられている間は「理解している」とされる。

ゴールはありません。so far so good.これまでのところ順調=一寸先は闇。これが言語ゲームというやつです。

だから辞書どおりの定義はわかったけど、実際に使えているかどうか。「右」という言葉を使って、コミュニケーションというゲームが営めるかが、言葉の理解である。言葉の意味は「いま・ここ(頭の中あるいは心の中)」にあると思っているけどそうじゃない。「生活のパターンの中に言葉の理解がある」と論じたのが、ウィトゲンシュタインですね。

哲学とは何か

久保:「言語ゲーム」という言葉やウィトゲンシュタインは知っていますけど、今さらながら腹落ちした感じです。すごくおもしろいですね。でも、何がおもしろいんでしょう?

そもそも私たちは考えることをせずに、言葉の定義を正解ありきに思っていて、前提ありきでいろいろとスタートしている。それ自体もある程度言葉を使って考えているけれど、そもそもの前提をもう1回捉え直すおもしろさ、意義というか、なんでしょうね。

近内:哲学は、ゲームのルールが変わる時には有効なんじゃないですかね。僕が「哲学って何?」という固い話をする時、「アプリオリ」という言葉を使います。「アプリオリ」と「アポステリオリ」という言葉があって。

「アプリオリ」がわかれば、「アプリオリ」じゃないのが「アポステリオリ」です。「アプリオリ」とは「経験によらないもの」。

例えば「1足す1が2である」は、実験によって確かめられ、正しい・正しくないと言われるものですか? 哲学は基本的に「アプリオリ」を探求します。逆に「アプリオリ」じゃない例として「太陽が東から昇る」があります。これは経験あるいは実験したり検証したりしないと把握できないものですよね。

それに対して「1足す1が2である」「このゲームの大前提の部分を議論の俎上に乗せ、検討する」というのが、「アプリオリ」のイメージです。本質に関する探究と言ってもいいかもしれません。経験によらずに成り立つものとして、哲学は「アプリオリ」なものを目指しています。

いわゆる世の中の多くの検証方法は、実験してみる、データを取ってみるという経験によるものです。でもそれはたまたま偶然的なものだから、世界をもう1回やり直したとしたら、変わっている可能性が高いわけです。

世界をもう1回やり直したとしても、僕らの認識世界の構造把握が同じだったら「1足す1は2」なはずなんですよ。だし、身体を有している生命体で空間把握を言語化できる存在であれば、左右概念を持つはずです。「右」とかいう語ではないかもしれませんが。

つまり、どれだけ世の中が変わったとしても変わらないもの、必然的なもの。僕らの世界をどう捉えるかという形式は変わらないはずですよね。世界をもう1回やり直したとしても残るものに対する探求が、僕は哲学だと思っています。

ゲームチェンジが起きると右往左往するワケ

近内:それ以外の実験的に確かめられるものは、世界の状況が違ったら成り立たないよねと。つまり言い方が悪いけど偶然でしかないものなんです。

みんなは、偶然でしかないものを「そういうもんなんだ」と変化しないものだと思っている。だから、いざゲームチェンジが起こった時に、右往左往するわけじゃないですか。地殻変動が起こる時に「これまでも偶然だったんだから、別に変化したってそういうもんじゃん」と思えるかどうか。やはりうろたえないことは大きいと思いますけどね。

久保:なるほどね。チャットでは「右往左往しています」という方もいますが。近内さんは冒頭でも「そういうもんだ」で言い聞かせる話をされていたと思うんです。私はチームを率いる立場として、そういう言い方になってしまう時があるなと思って、さっき反省していたんですよ。

例えば若手の人が入ってきて、いろいろと話しているけどなかなかわかってくれない時に、「いやいや、会社はそういうもんだからさ」で済ませちゃう。「ああ」みたいな顔をされながら(笑)終わらせている。

その先を話したいから「前提のところは、ちょっといったんそれで固めておいて」という感じでボールを渡しちゃうけど、それが変わる可能性もあるとなった時に……。

近内:つまり説明ができないから「そういうもんなんだよ」となると。

久保:言っている(笑)。

近内:ある意味、それは自分の言葉に責任を持てていないわけですね。自分の言葉に責任を持つなんて面倒くさいなと思いますよ。でもそんなに面倒くさいんですか?

久保:なるほどね。

近内:ただ多くの人がそれを必要だと思うから、哲学をやるんじゃないですかね。いつまでも「そういうもんだ」と言っていたら、自分は何をしゃべっているのかわからなくなる。人とコミュニケーションが取れているようで取れていない気がして不安になる。そんな時は、「言葉が通じているとはどういうことなのか」をちゃんと考えてみる。

「ビジネスにおいて、哲学はどう必要なんでしょうね」と僕も思うんです。こういう話をしても「それは面倒くさいですね」「ビジネスの現場では無理じゃないですか?」と言われたら、「じゃあ無理なのかもしれないですね」と言わざるを得ない。「哲学とはそういう営みなんですよ」というのはやはりあると思うんです。

みんなが使う言葉に合わせるのは脳のキャパオーバーの印

久保:コミュニケーションを取れているようで、取れていない気がするというのはわかります。

近内:単純になんでビジネスに哲学や対話なのか、なんで言葉の擦り合わせなのか、なぜ責任を持った言葉を使わなきゃいけないのかと言うと、世の中の社会構造がどんどん複雑になっているからです。僕らには、共通に信じているものや共通言語があるようでないんですよね。

例えば昔は「仏教を信じています」だったら、菩薩とか如来とか共通に信じているもの、共通言語があるから、コミュニケーションが取れたわけです。しかも昔は自身の共同体からそんなに移動しない。違う文化圏で育った人と会話をすることなんて普通は起こらない。

そして、そもそも僕らの脳は異質な他者と日々、大量に触れ合うことを想定して作られていない。基本的に150人くらいの、いつもと同じメンバーとやり取りするのに特化した脳なので、現在のコミュニケーションではキャパオーバーなんです。

社会の構造も違うし、生まれ育った環境もバラバラじゃないですか。同じ日本人と言ったって、どういう社会層の中で生きてきたか、どういう地域で育ってきたかによって、大切にしているもの、自分が負ってきた傷や記憶も違い過ぎる。

よくポロっと言った言葉で「それはあの人にとって地雷だよ」と言われることがありますが、見えないところに地雷がある。つまり、僕らの脳はキャパオーバーなんです。

だからしょうがなく責任を取れない言葉、なんとなくみんなが使っているそれっぽい言葉を使わざるを得ないわけです。「会社ってさ、ビジネスってさ、こういうもんじゃん」と。1個1個の言葉とちゃんと向き合っている余裕がないのはしょうがないですよね。だけど!

久保:だけど?

近内:「それを続けていていいんですか?」というのが、今のフェーズじゃないですかね。だっていろいろなところで、もうレッドオーシャンになっているわけでしょ。サチっちゃっている(飽和している)じゃないですか。

それこそサッカーの例で言うと、本当に手を使っちゃいけないの? でも「手を使ってみる」ところからラグビーが始まっているでしょ。新しいゲームが生まれたわけじゃないですか。それをビジネスで言ったらブルーオーシャンと言うんじゃないですかね。

ゲームのルールをちょっと変えてみたら、「こういうサービスってウケるんじゃね?」と誰もやってなかった、やっていいと思わなかった、そんなことができると思わなかったことが、まさにゲームチェンジャーなのではないかと。

自分の言葉を持つことの重要性

近内:「このビジネスのルールは偶然なんだから、変えることができる」と思えば、いざという時や変化に強くなるんじゃないですかね。裏を返すと宣伝や広告に惑わされなくなる。

「これが本質で、これが取るに足らないもの」「これは変わらないものだ」という自分の中に確固たる基準ができたら、宣伝にだまされない。これは現代において、けっこう大事な能力な気がします。講座の紹介のウェビナーをやっている我々が言うのもなんだけど、宣伝や広告にだまされないでください。

久保:(笑)。

近内:それくらい僕らは「みんな、こういうのがいいんだな」と思っちゃうんです。電車に乗っても「脱毛しましょう」「英語がこれだけできる」とか自己啓発系の広告ばかり見ていると、「そういうものが良いものだ」と刷り込まれちゃうじゃないですか。でも本当に良いことなの?

久保:なるほど。

近内:「広告にだまされないことが大事です」というのも、僕が言った言葉です。本当にみなさん、自信を持ってそう思っています? 「近内が言ったから、そうなんだ」はダメなんです。

自分で考えて「確かにそのとおりだ」と、ちゃんと自分の中に理路、理屈のステップがあると、「これはこうなんだ」と説得力のある言葉になります。自分で納得できる言葉は、絶対に周りにも影響を与える言葉になります。

言葉の軽さへの不安は、けっこうあるんじゃないですかね。言葉に体重をのせるというか、言葉に心をのせるのは、別に文学者だけの特権じゃないんですよ。ちゃんと考えて、経験と裏づけがある人は言葉に重みがのるんです。

自分で考えたり、一緒に議論したり、アウトプットしたりする中で、鍛錬するしかないと思います。

久保:うーん。

近内:あとは型を学んだ上で鍛錬ですね。