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老荘思想でザッソウ第1回 ホントに「上善は水の如し」なのか(全2記事)

「大きい道の流れ」に身を委ねることで、案外道がひらける 変化の激しい社会を生き抜く「上善如水」の2つの意味

ソニックガーデンの代表・倉貫義人氏と仲山考材の仲山進也氏が、毎月さまざまなゲストを迎えて「雑な相談」をするポッドキャスト「ザッソウラジオ」。 今回のテーマは、「老荘思想」。クラシコムの青木耕平氏をゲストに迎え、本記事ではビジネスにおける「上善如水」の考え方について語りました。 ■音声コンテンツはこちら

「上善如水」に込められた2つの意味

青木耕平氏(以下、青木):だから最初は僕は、老子の言葉でよく知っている人が多いと思うんですけど、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」という……。

仲山:はいはい、日本酒がありますよね。

青木:日本酒もあるし、よく知られている言葉です。要は「水のようであることが一番いいんだよ」ということですが、僕はその意味をそんなによくわかっていないんです。「変化が激しくても、形がない水のように、柔軟にいろいろ合わせていければいい」という意味もあるんですけど、もう1つ別の意味があって。

それは、「水は上から下にどんどん流れていくし、留めることはできないから、ある意味人が嫌がるようなすごく低いところまでいっちゃうけど、結局どこかには収まる。だから、ことさらにそれを『ここで留めよう』としないほうがよい」という意味もある。

それが「一見、人が嫌がるところにもいっちゃうかもしれないけど、その先になんかあるかもよ」みたいな話としてあって、こういうことってすごく多いなと思うんですよ。

「流れに乗る」ことで、案外うまくいくことも

青木:「このままいったらどうなっちゃうんだろう」って思うんだけど、「もうなんか降りるわけにもいかないし」とか、例えば跡継ぎになった人だとすれば「自分の意思で勝手に放棄できないし」とか。

それって今の世の中的に言うと不自由だとか「それに囚われている」という言い方になるんだけど、囚われているからこそ意思の力の先に行けちゃったりするじゃない。

自分としては、「もうこれ以上下に行ったらマジでひどいことになるんじゃないか」と思うけど、「もうしょうがない、行くしかない」みたいな時に、案外いいところに行くみたいな。

結局はこれって「最後は海に至る」という意図なので、そういう意思の力の先にある「大きい道の流れ」に身を委ねた時に起こるおもしろいことって、もう僕らぐらいの年齢になっていたら思い当たる節があるじゃないですか。

倉貫:それ、楽天大学の学長の仲山さんという人がよくキャリアの話で言っていますね。

仲山:目標達成型と展開型というやつですね。

倉貫:「流れに乗る」というやつですね。

孔子との違いは「不確実なものにどう向き合うか」

仲山:僕は老荘思想が昔から大好きなので。戦国時代ということは、戦争に勝って相手の国を自分の中に取り込んで大きくなっていくという。それで「大きくなった組織をどうマネジメントするのか」みたいなところで、「経営者が人間力を高めましょう」と言っているのが孔子の考え方ですよね。

だからいわゆる昭和の経営者がずっと「こういうのが大事だぞ」と言ってきている学びは、孔子がベースになっているという。

そしてこの変化の時代、「組織をデカくしすぎて変化に対応できなくなって、みんなが不幸になっていたら、何のために組織をデカくしているんでしたっけ」みたいに考えて、「それで下に流れていったら苔を食って生活できるようになりました」というのが、前回青木さんがゲストに出てきた時の話です。

青木:そうね。でもまさに苔に通ずるよね。

仲山:うん、通ずる。「ここは誰も食わないんだよ」という。あとは倉貫さんがこの前出した本(『人が増えても速くならない』)のサブタイトルが「変化を抱擁せよ」ですけど、まさにそれが老荘思想だよなって僕は思います。

倉貫:今話を聞いていて、(当時は)めちゃくちゃ戦国時代だったから、最初に孔子が出てきて「どう国を拡大するか」みたいな話が注目されて、そのあとに老子とか荘子が出てくる中で、「不確実なものに対してどう向き合うのか」という話。

戦争に勝って国を大きくするのは、最終的には秦の始皇帝が出てくるみたいなもので、要は「(国を)統一したい」ということですよね。

統一するということは、秦だと法治国家にして「すべての国民を、同じ法律で運営する」って、めちゃくちゃ確実にしようとしているんですよね。だから「不確実なものに対して確実にしていきたい」という、人間の思想があって。

それに対して「いやいや、もう天下統一とかしないほうが、それぞれの良さが活きるんじゃない」と(老子や荘子 は)言っていて、不確実ってそういうことなんだなと、今話を聞いていて思いましたね。

比較や優劣をつけることが不幸の始まり

青木:それが現代の観点からして正しいのかどうかはちょっとわからないですけど、老子って基本的には「隣の国に行くな」「見るな」「知るな」みたいな話じゃないですか。

結局は「隣のことを知って、比較して良いとか悪いとか相対的な判断を自分の中に取り入れることが、すべて不幸の始まりである」「だから、『隣の国から鳥や犬の声が聞こえてくる』ぐらいの交流がちょうどいいんだ」みたいなことが書いてあったりして。

倉貫:比較しないほうがいいということですね。

青木:極論的に言えば、知らなくていいというよりは比較しないほうがいいということだよね。まぁ知って比較しないのは大変だからね。

仲山:あとは「そもそも優劣とかないし」という考え方ですよね。

青木:そうそう。

仲山:自然の調和に任せればいいだけであって、誰が偉いとかは関係ない。国も(老子が理想とした)『小国寡民(しょうこくかみん)』という、「国はちっちゃくて、人数は少なくて、別に乗り物に乗らなくても行ける範囲で幸せに過ごせるぐらいのサイズがちょうどいいよ」みたいな。

変化していく世の中で、「確実さ」を求めること自体が不自然

青木:あと荘子が、「機械で物をやるのはあまりよくない」みたいなことを言う……。

倉貫:なんか言っていますね。

青木:機械を使って何かをやると、機械の「機」に「心」で「機心(きしん)」が生まれて、「それが人の中にある賢(さか)しらな感じを促進するから、機械は使わないんだ」みたいな。だからけっこうアンチテクノロジー、アンチ知性みたいなところはすごくありますよね。

仲山:基本的に「世の中はどんどん変化していく」というベースの考え方があって、そこを確実にしようとすること自体が不自然で。ようやく確固たるものができたと思っても、ベースが変化すると建物がピタッと建ったと思ってもいつの間にか傾いたりするわけなので、確実にしようとすること自体が間違っている。

倉貫:でもこれ、「無為自然(むいしぜん)」って言うじゃないですか。でも無為自然でいて幸せになれるとしたらいいんだけど、要は「水の如し」って言いながら、マジでドブに落ちてしまうことがあるのか、もしくは無為自然と言いながら努力しないことがはたして本当に良いのか、僕はそこが知りたいので、そのへんについては第2回で。ちょっとこれ第1回、もう……。

青木:これ、20分経ったんですか(笑)。

倉貫:いやいや、なんだったら30分が経ちかけるという(笑)。

青木:恐ろしいな。

倉貫:恐ろしいですね。ちょっと今回は、場合によっては3回ではなくてもよいという覚悟ですので。

仲山:しゃべりたいだけしゃべる(笑)。

倉貫:しゃべりたいだけしゃべってもよいということで、今週はまず、老子荘子の入口のところをお話ししていきました。また来週に続きます。よろしくお願いします。

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