忙しい先生たちの「余白」をどう作っていくか

三浦宗一郎氏(以下、三浦):ちょっと質問の時間も取りたいので、ぜひみなさんからコメントや質問をたくさんいただけたらなと思うんですけれども。でもやはり先生の余白や暇をどう作るのかも、社会として大きなテーマですよね、颯。

田島颯氏(以下、田島):僕、先生が前に話してた「多忙と多忙感って違うよね」って話がけっこうキーワードな気がしていて。僕らも言っちゃえば、カレンダーがびっちり埋まってるのに心は元気じゃないですか。それってたぶん物理的に忙しいことと、忙しいと感じることはまた別の話だということで。楽しいことをやってるから忙しさはそんなに感じないみたいな。

その多忙と多忙感っていう観点を持ちながら余白を考えていくと、別に時間が空いてるか否かよりは、心の余白がちゃんと取れてるかどうかが重要なのかもなと思ったりしてます。

三浦:まさに。ただ暇にさせればいいってわけでもない。本当にそうですよね。

田島:生徒からしても、やりたい部活動や委員会をやってたら、(時間的に余白がなくても)別にそれはそれでいいと思うんですよ。ただそれが例えば、けっこう地方だと多いんですけど、強制的に部活動に入らなきゃいけないみたいな。

陸上やりたくないけど陸上部に入んなきゃいけないとか(笑)。運動部がそれしかないということがあったりして。そうするとやはり、やりたくないことだよなぁ、と思ったりするんですね。

三浦:確かになぁ。僕ら「スナックハッシャダイ」というイベントをやるんですけど、もうあれは僕らの人生にも余白を作りたくてやってますからね。だから時間が空いてることと、その時間を余白にするという、能動的に休んでいくのはありますね。

「(先生は)部活動指導とかでがんじがらめなんじゃないか」という話もやはりあるんですけど、ここから今日、何かやりたい。ブレイクスルーしたい(笑)。

(一同笑)

「そうだよね」で終わらせたくない。何かないですか、颯さん。

田島:(笑)。

三浦:この「先生の忙しさ問題」は「そうだよね」で(終わらせずに)、何かあるはずだよ。

田島:でもやはり「先生とは」ってところに戻るのがいい気はしてて……。

鈴木寛氏(以下、鈴木):(手を挙げて)はい!

三浦:おぉっ! びっくりしすぎて(笑)。

社会科は、自由や人権を奪われた時の対処法を教える学問

鈴木:僕はちょっと最近(思うのが)、学校の教師、特に社会科の教師、ちゃんとしろと(笑)。

(会場笑)

要するに、自分が自由を奪われた時にどうするのかというのが、社会科が教えることでしょうと。だって公民って人権を教えてるんでしょう、と。

今の教員は明らかに自分が人権侵害されてるわけですよ。人権侵害された時に、どういう手があるんですか? 裁判ですか、署名ですか、国会陳情ですか? あるいは議会や代議士がいるわけでしょ。「自分たちは人権侵害されています」(という時に)何のために組合があるんですか、何のために連帯するんですか。

要するに社会制度がどういうことになってるかというと、「1人は弱いから連帯せよ」なんですよ。僕はマルキストじゃないけど、一応マルクスを教えてるわけでしょう。あるいはチェコの革命やポーランドのワレサ(※独立自主管理労働組合の初代委員長として祖国を自由民主化に導いた伝説的指導者)。ワレサはどういうふうに言ったんですか? 連帯でしょう。

今、抑圧されて人権が奪われてるんだから、連帯しなきゃいけないんですよ。それを教えてるんだったら、自分たちが最も連帯しなきゃいけないじゃないですか。しかも成功した革命は、いろんな人と連帯することでしょう。歴史とか公民ってそれを教えるためにある科目なんですよ。

だから社会科の先生は、まず自分たちが連帯をしなければいけない。そのためにはプロパガンダや啓発、熟議や学習会とか。もう今までいくらでも、歴史をひもとけばもっと大変な抑圧や命まで取られてた人がいっぱいいたわけですよ。その時に我々の先人たちはどうしたのか。その先人たちから知恵と勇気をもらうのが歴史でしょう。

だから歴史や社会科の教員、あるいはなぜ地理を学ぶんですかと。マララちゃんとかグレタちゃんとか、今の日本やみなさんよりももっと大変な局面で、めちゃめちゃがんばっている同世代の人たちがいるんですよ。それを教えるのが地理でしょうと。それを英語の先生や理科の先生にも共有していく。

抑圧された自由を取り戻す「芸術」の力

鈴木:そして、何のために芸術があるんですかと。芸術というのは要するにテーマの自由と、まさに方法の自由。お茶碗を焼けと言われて焼くのは職人さんで、大量生産の職人というのは、これはこれですばらしいんだけど。自由なテーマや方法で、「何か自分を表現してください」と(言われた)結果としてお茶碗を焼く人もいるし。

自由が社会に抑圧されている時に、自由の尊さとか、あるいは元気を取り戻すのが芸術でしょう。音楽、美術、図工、それぞれ先生がいるんだよね。

まさに音楽が、1つの歌が多くの人の共感をつないでいく。僕は音楽や芸術の力がめちゃくちゃ重要だと思ってるんですけど、ネルソン・マンデラの釈放を早めたのは、イギリスのウェンブリー・スタジアムに世界中のミュージシャンが集まってコンサートをやったからなんですよ。

だから音楽の先生は社会の先生と一緒に「学校の先生、大変だフェスティバル」とかロックコンサートとか(笑)。歌だったら、要するに芸術はOKなんだよ。

なかなかストレートに言いづらい時がありますけど、今の日本ではこれだけ表現の自由が認められているから、僕は言えると思うけどね。だって江戸時代にめちゃめちゃ抑圧されて、江戸幕府に文句を言ったら殺されちゃう時にどうしたんですか? 川柳をよんだわけでしょう。だから芸術はOKなんです、芸術はそうやって使うんですよ。

だから自分たちが子どもに教えてるのは何なのかっていうことを、もっとちゃんと考えてほしい。そして人任せにするんじゃなくて、まず自分たちが自分たちの人生をもっとウェルビーイングにするために真剣に議論をする。そしてその後ろ姿こそが、子どもたちにとっての最大の学びなんですよ。だから今日は(先生を)甘やかさない(笑)。

(会場笑)

「サボるな、学べ」と。社会科と芸術の教員。僕は芸術と社会科が一番のアレ(専門)だから、私の後輩たちに「もっとがんばれ」と。

修羅場を乗り越える過程で、真の知恵と人脈が生まれる

三浦:まさに。思えば僕らハッシャダイソーシャルも「先生がもっと気持ち良くがんばれるにはどうしたらいいんだろうか」と思ってるんですよ。そのためにはやはり、元気が大事だなって僕は思うので。

その「元気を犠牲にしない」というのがむっちゃ大事で、元気を差し出して得るものってあるのかと思いますよね。だから、まずはそれぞれが元気を取り戻せるような、まさにウェルビーイング的な一人ひとりのアクション(が大事だ)と。

鈴木:今ものすごく板挟みとか抑圧があるから、本当の学びと知恵が生まれるんです。そしてこれを乗り越えた時に、あるいはここを乗り越えるプロセスでできた真の知恵と人脈こそが、次の「卒近代」(※GDP至上主義から卒業し幸福を再定義し、真のウェルビーイングを追求する時代)を作るんですよ。だから僕は、次に移るための必要な試練だと思っててね。

しんどいけどがんばって、何か新しいことを半歩進めて。そして、大変だけどめっちゃ修羅場をくぐる中で、本当のキャプテンシップを持った人が次に出てくるという。僕は今、誰が出てくるのかをめちゃくちゃ楽しみに観察してます。宗ちゃんは半歩来てるけどね。

三浦:いやいや(笑)。がんばります。もうあっという間に時間が来まして、いったんホワイトボードに「先生とは」と書いていただいて。みなさんもあらためて書いていただけるとうれしいなと思います。いやぁ……なんか僕の背筋が伸びました。

(コメントを読みながら)みなさん次々と、いいですね。「言うんじゃなくてやるんだよ」「より良く生きる姿を見せる」。

先生とは「背中で語る人」

三浦:じゃあ先に(発表して)いいですか。やはり僕は、話を聴きながら、「先生とは背中や」と思いました。さっきコメントにも「コンテンツに寄りすぎている」という話があったんですけど、「言ってることとやってることが離れてないか?」という問いかけを、僕自身もすごく感じました。

あとはより良く生きるために教育があるとしたら、それは社会をより良くするためにあるのと同義な気がしていて。教室の中にとどまらずに……僕の亡くなった恩師に「微力は無力じゃないよ」と教えてもらったんですけど、そのパワーが先生にはあるんじゃないかなと。そして自分もがんばろうかなという気持ちになりました。颯、いけますか(笑)。

田島:僕も「背中で語る人」なんですよ……(笑)。

(会場笑)

田島:同じことを書いてて、ヤベぇと思って。

三浦:書き直してたね(笑)。

田島:書き直そうかなと思ったんですけど、まあでもこれだなと思って(笑)。コメント欄を見ながらも、いろんな意見あるなと思いつつ。でもやはり今の状況も含めて「問い続けられる人」が強いと思うんですよね。

その中で成果としてうまくいったかいってないかよりも「今こんなのをがんばってるんだぜ」「こんなことをしようと思ってるんだぜ」と言い続けられる人が、やはり先生であるべきだなと思うし。

まさに最初の話にもあったように、板挟みや苦悩や困難に立ち向かい続けてる人から得られる学びが、僕らにとっては必要だなとすごく思います。そして、もっと苦労ある時代を迎えるからこそ、これからの世代にとっても必要だなと。

そうなった時に彼らに教えるべきこと、伝えるべきことって「どううまく生きられるか」ではなくて「どうサバイブできるか」ってことだし、「どうそのサバイバルを楽しめるか」ってことだと思っていて。そのためには誰よりも問いを持ち、挑戦し、板挟みにあってる人たちが先生なのかなと思いました。

「半歩後ろからほほえんで」伴走者としての役割

三浦:ありがとうございます。ではすずかん先生、お願いします。

鈴木:昨日まで萩にいて今日から三豊に行くんですけど、「同行二人」という言葉があるんですよ。これはお遍路さんの言葉なんですけど、お遍路を1人で歩いてるわけで、人生とはそういうものなんですね。

しかし1人ではないよ、いつも弘法大師がいらっしゃるよと。やはり教師というのは「師」なわけですね。まさにその師の一番が「大師」。みなさんには師、そしていずれは大師になっていただきたいと思うけど(笑)。

そういう意味で、医師や教師のように師と名のつく仕事は何かということですけども。人生を歩こうとしている一人ひとりの生徒や弟子たちの師になるというのは、この同行二人の相方になることかなと思います。

その時に、ともすると半歩先を行こうとするんだけど、私はやはり「半歩後ろからほほえんで」っていうかね(笑)。時々不安になると(生徒は)後ろを振り返ります。その時にニコッとほほえんで、「うん」と首だけ振ってあげればいいと。そしてまた前を向いて歩いてくれればいいのでね。

崖や大きな川があるような本当に大変な時は9対1ぐらいで前(を歩きます)。ずっと半歩先を引率する人が多いけど、それは伴走じゃなくて引率なのでね(笑)。そういう意味で、多くは語らないけれども、眼差しだけは見てるよということではないかと思います。

人間は「無力」ではなく「微力」であるからこそ

三浦:ありがとうございます。さあ、あっという間に1時間が経過しました。お二人、どうでしょうか。「先生とは」って、すずかん先生は萩でずっとやられてたかもしれないですが、あらためて今のお気持ちと、先生方、教育者の人たちに対してのメッセージがもしあれば、最後にお聞きできればと思います。

鈴木:今日はとても良い時間を多くの人と共有できて良かったなと思います。それと今は、大変です。それはもちろん認めます。だけど大変というのは別に悪いことじゃない。「大きく変わる」ことだからチャンスでもあるし。

まさに今、時代が本当に250年ぶりに移ろうとしているから、いろんなものが崩れたり壊れたりしているけれども、一方でまさに正体不明の何か別のものが、荒削りの岩の中から生まれつつあるという。これもチェコ革命の時に劇作家のハベルという人が言ったんですけど。私はそれを聞いて「卒近代」ってことをやり始めました。

まさに荒削りの岩の中から何かが生まれつつあるんだけど、岩だからそんなすぐには削れないんですよ。最初は1人でコンコンってやってるけど、それが2人になり、4人になり、8人になり、16人になり、どんどん増えていくと、ある時からかなり大きな流れをもつようになって。

まさに人間は無力ではなく微力だから。微力がつながって積み重なれば、青の洞門(※江戸時代の僧禅海が、遭難者が絶えなかった難所にノミと槌だけで岩壁を掘り、30年の歳月をかけて貫通させたとされるトンネル)じゃないけど(笑)、トンネルがちゃんと貫通するわけです。

それを削り取って道が通じた時の感激や感動、あるいはそこで生まれた同士は、より強い絆になるから、その岩が硬ければ硬いほどいいなと思うね。そういうことなので、今のこの試練は大チャンスというきっかけに、「発射台」になると思います(笑)。

三浦:(笑)。ありがとうございます。

(会場拍手)

先行きが見えないなかで、「教育の未来」を変えるもの

三浦:では颯、お願いします。

田島:みなさん、ありがとうございました。最後、すずかん先生の「先生とは」という中で、「半歩後ろからほほえんで」っていうことがあったと思います。今の生徒たちにとってのそういう存在が先生だとして、でも同時に先生たちも先行きが見えない中で歩かなきゃいけない。

そう思った時に、先生たちにとっての半歩後ろでほほえんでくれるのって誰になるんだろうなと。

鈴木・三浦:(手を挙げる)

(会場笑)

田島:すずかん先生かもしれないし、宗ちゃんかもしれないし、たぶん会場にいらっしゃってる方、オンラインで見てる方も含めてそうなんだろうなと。もっともっとみなさん前に進めるし、僕も宗ちゃんもすずかん先生も前に進むし。

そこが大きいコミュニティとして、みんなで一生懸命前に進んで、答えはないけれどもなんとか行くことができるといいなと思いました。それができた時に初めて教育がより良くなっていくんだろうなと思って、そういう意味でもこの場の価値をすごく、あらためて感じましたね。ありがとうございました。

(会場拍手)

三浦:非常にすばらしい1時間を過ごさせていただいたなと思います。僕は来月から大学でお世話になると思いますが、ぜひ引き続き颯ともまたやりたいなと思いますので、何卒よろしくお願いします。では2人にあらためて拍手をお願いします、ありがとうございました。

(会場拍手)