「すべてのものは因果関係によって成り立っている」

坂東孝浩氏(以下、坂東):さっき仏教哲学という言葉が出たんですが、龍源さんのお話の中で仏教哲学は無敵の論理構造。たけちゃんも話を聞いて「倫理体系がやばい」と感じたんですよね? 

武井浩三氏(以下、武井):そうそう。

坂東:完全にロジックができあがっている。

武井:宗教じゃなくて哲学。

坂東:哲学なんだ。そこらへんをお聞きしたくて、まず宗教と哲学の違いは何か。龍源さんがおっしゃるのは仏教哲学とはどういうことなのかを聞きたいんですけど。

松波龍源氏(以下、龍源):まず、仏教の哲学性とは、仏教の始祖はみなさんご存じのお釈迦さまですよね。ゴータマ・シッダールタと呼ばれた、2500年前の北部インドに出現された1人の男性によるわけですけど、おそろしく論理的な人だったんです。

この人は「世の中の苦痛とは何か。生きとし生けるものの中にある苦しさを取り除くために、ハッピーに生きていくためにはどうしたらいいか」を考え考え、考え抜かれた方だったと伝わっています。最終的に発見したお答えが「すべてのものは因果関係によって成り立っている」と、その1点に集約されるわけですよね。

「当たり前やんか」と現代の私たちは思うんですけど、2500年前ではけっこうエポックメイキング(最先端)だったんじゃないのかなという気もするわけですよね。だって2500年前の日本、たぶん歴史記録はないですよね。

坂東:おお、なるほど。確かに。

龍源:縄文時代の真っ只中。文字もおそらくなかったでしょうし、中国の歴史書が登場するのはもっとあとですね。三国志が紀元2世紀か3世紀くらいですかね。三国志の時代の700年前くらいなわけです。ぜんぜん歴史なんかない状態で、そこで「すべては因果関係によって成り立っている」と言ったのは、なんかちょっとすごくないですか?

坂東:確かにそうなる。

仏教は「何かを信じる」宗教とは真逆の存在?

龍源:お日さまが照っているのは、そこに太陽の神さまがいるからだと。雨が降るのはそこに雨の神さまがいらっしゃるからだと。雨の神さまの働きで天から雨が降ってくる。直感的にそういう世界観だと思うんですよね。

そうすると「それは神さまがそうしているからそうだ」という思考停止な話になるわけですが、そこでお釈迦さんは「因果関係だ。原因がないことは発生しないんだ」と言った。

認知されているものとは、必ず原因があって、そこに働きかける何らかの縁、関係性があって、原因とそこに働きかける力、生まれてきた結果が、複雑なネットワークを作って時間とともに変化をしているとおっしゃった。この時点で、いわゆる「何かを信じなさい」という宗教とは、そもそも違っているわけです。

坂東:確かに。その時点で論理的ですよね。

龍源:はい。そこから始まっていますから、仏教はその伝統を持っています。「あなたが、私が言っていることをいったん信じることにしたとして、その信じる理由が、私が有名な仏陀と呼ばれる人だからなら、信じることをやめなさい」とお釈迦さまはおっしゃったそうです。

坂東:自分で、自分のことを信じなくていいと。

龍源:「私が仏陀だから信じると言うんだったら、そんなものは信じるな。自分自身でよく考えて、あっちこっちから論理考証して、納得できたものを信じなさい。そうじゃなかったら信じなくていい」とおっしゃっているわけですよね。

坂東:なるほど。

龍源:「仏教は宗教と呼ばれるものなのか。真逆じゃねーか?」という話ですね。

坂東:それはキリストさんをディスっていることにはならない。

龍源:どうなんでしょうね(笑)。そこ、何でディスる(笑)?

坂東:(笑)。

龍源:生配信ですから、それはあとの打ち上げでしましょう。

坂東:わかりました(笑)。

宗教と哲学の違いは「自分の心が決める」ところ

坂東:でも宗教と哲学の違いは、(哲学は)誰かを信じたり誰かが神となってそれを信じたりすることじゃなくて、論理体系を信じるかどうか自分の心が決めるということですね。

龍源:自分で考えて「そうだ」と思ったことはそう思えばいい。そう思えないことはそう思わないほうがいいという感じですよね。

そこからちょっと時代はとびますけど、今のチベット仏教では「帰謬論証(きびゅうろんしょう)」という考え方があります。「帰る」に、ちょっと難しいですが「謬」は誤謬の「謬」、間違いと言います。それに「論証する」と書きます。

例えば仏教哲学が「この世にある」と言っている万物の根源的な本性は、実体のなさや絶対のなさで、これを「空性」と言います。仏教哲学の答えでは万物の根源は空性だけど、(帰謬論証では)いったんそうではないと考えてみる。「万物に実態がある、絶対性がある、独立性、個別性がある」と考えて、物事を見ていくとどうなるかという考え方をしましょうと。

坂東:ほうほう。

龍源:そうすると必ず誤謬ですね。過ちという論理の破綻が観測されてくる。

坂東:ほう。

龍源:いったん帰謬論証で考えて、現実で起きているいろいろなことや論理的構造を検証していって、何の過ちにも帰さないものを真理として残していく考え方をするんですよね。これってまさに科学の実験そのものじゃないですか。

坂東:確かに。

龍源:仮説を立てて反証実験をやっていって、「何をどうしたってこうなるよね」というのを、「どうやらそうらしい」と受け入れる。(仏教には)そういう伝統がありますから、やはりその点を考えても、僕たちが普通に思っている「とにかく信じなさい。受け入れなさい」と言ってくる宗教とは、一線を画するのかなと思うところです。

坂東:なるほど。じゃあ徹底的に証明をしまくっているということですね。

龍源:そうですね。

仏教の悟りは「頭でわかる」という話ではない

龍源:ただ1点、これは僕の考えでもありますけど、さっき武井さんもチラッとおっしゃいましたが、仏教の悟りは「頭でわかる」という話じゃなくて身体知だと思うんですね。例えば、水泳の泳ぎ方。「人間は水に浮くかな」と思ってやっていたら「浮くな」というのがわかるし、「クロールはこうやって泳いだらいいんだ」というのは練習したらできますよね。

一輪車もそうですよね。あんな車輪が1個のもんでそんな立てるんかいと思いますけど、練習するとこんな感じってできますよね。一輪車の乗り方やクロールの泳ぎ方を、「文章化して誰でもわかるように書いて」と言われたらどうですか?

坂東:めちゃくちゃ難しい。

龍源:無理無理書いたら書けんこともないかもしれへんけど、じゃあそれを読んだ人が「わかった」と言って、水に飛び込んでクロールを泳げますかと言ったら無理じゃないですか。

坂東:無理ですね。

龍源:それが身体知だと思うんですね。自分の体、全身で獲得したものだと思うので、仏教が言っている真理への悟りとは、身体知的に機能すると思うんです。そのために古来より伝わっている修行があるわけです。みなさんのパッとしたイメージの中では座禅をしてみたり、ひょっとしたら滝に打たれてみたりね。

坂東:ありますね。

龍源:断食をするとかね。いろいろなものが思い浮かぶと思いますけど、やはりああいう行為によって、身体知的に備わってくる「あ、そうなのか」という、よくアハ体験と言いますよね。ポンと腹落ちた瞬間にアハとわかるという話がありますけど、そういうものを求める。それがないといけないわけで、だから修行しないといけない。

でも修行するためには、それをいったんやるべきこと、良きこととして受け入れる必要があるわけです。だって修行を始める前の修行者は悟っていないんで、その悟りが正しいかどうか、悟りがいかなるものかなんてわからないんですよ。

坂東:判断もできない。

龍源:できないでしょ。「なんで人生をかけて修行をするの?」となったら難しいですよね。そこはいったん受け入れる話になってくるわけです。そうなると仏教も「宗教かもしれない」となってきます。

坂東:ああ!

仏教は哲学なのか宗教なのか

龍源:以前まさに哲学を専門的にしておられる方と、「宗教(仏教)は哲学なのか宗教なのか」をちょっと議論というかお話させていただく機会があって。問いの立て方が不毛な気がするんですけど、その1点(修行)を持って「いわゆる大学でアカデミックにやっているような哲学には入らないですね」という結論になりました。僕はそれは別にいいと思うんですよね。

アカデミックな哲学とは、あらゆる方向からその事象に対して、検証を続けまくるのが哲学なわけです。自分が理解できていないことや納得しきっていないことがあったとしても、いったん良きものと受け入れて、それをわかるための身体的な行をするのは、彼らの定義においては哲学とは言わないと、その時にはおっしゃっていたので。

それがポピュラーな論なのかどうかわからないですけど、そういう定義が入ってくるんだったら、「仏教は確かに宗教ですね」となるわけです。このあたりは難しいところですね。

坂東:すごいですね。なんか今、「なるほど」と言ったけどなんかあるんですか?

武井:ちょっと口から出ちゃった。

(一同笑)

武井:思考が追いついていない。

坂東:追いついてないの(笑)。

武井:さっき3時から7時くらいまでずっとお説法を聞いていて、俺、ずっと頭がパンクしてましたからね。今日はちょっと情報量が多すぎて。

坂東:そうよね。今日僕らは先に来させてもらって、お話を聞かせていただいて、そのあと瞑想体験をしたんですけれども、最初は漫談みたいな感じで始まったんですよね。

龍源:(笑)。

坂東:けっこうおもしろいね、ワハハみたいな感じになった途中から、めちゃくちゃギアが入ってきて。

武井:情報量がね。

大乗仏教の思想的な基軸は、空を解く中観哲学と、心の分析学である唯識

坂東:結局「仏教とはこういうものだよ」という定義。それからさっき言った空性のことですね。

龍源:そうですね。

坂東:それから……。

龍源:唯識ですね。「空」が中観ですから。

坂東:ぜんぜん記憶がございません。すみません。もう忘れております。唯識と空が軸になっている。

龍源:大乗仏教の思想的な基軸は、空を解く中観哲学と、心の分析学である唯識であるというお話を、させていただいたかなと思います。

坂東:なぜそれを知って自分で体現できたほうがいいのか。どうしたらそれができるようになるのか。その1つが「瞑想」ということで。

龍源:そうですね。

坂東:全部体系的に説明してもらうのも、後半の1時間半ぐらいだったんですけど、まさに仏教の根幹に触れるような話で、「これがわかったら悟ったと一緒だよ。本当にわかったら悟ったということだよ」という話で、スピード感がすごかったっすよね。

龍源:最初にちょっとボケを入れ過ぎて。

坂東:(笑)。余裕があると思った。

龍源:余裕があると思ってボケまくっていたら、だんだん余裕がなくなってきて、ちょっとみなさんにはつらい思いをさせてしまいました。

坂東:すごかったですね。

武井:俺は2回目だから、1回目は。

坂東:感動的だったんでしょ?

武井:アハ体験というか、むしろスッキリしたんですよ。頭の中がめっちゃ整理できた。だけど今回も、前回と半分くらいは同じ領域の話だったりもしたんですけど。

坂東:被っていないところもけっこうある。

武井:なんかわからないけど、すでに自分の中でまとまってきたものが、じゃあ今の自分自身はどうなのかと、脳みそがグルグル回っちゃって。

坂東:ほう!

武井:ちょっと途中から、本当に頭がパンクしちゃって。

坂東:つらそうだったもん。

武井:本当にずっと頭が重くて。

坂東:なるほど。今もあまり?

武井:今は麻婆豆腐を食べて、めちゃくちゃ辛くて、その辛さでバーっと飛んだ感じが。けっこうこれ、唯識のうちの。

龍源:前五識の舌識。

武井:舌識。けっこう大事ですね。

坂東:なるほど。

龍源:ちょっと今天気も梅雨時で湿度が高いじゃないですか。そのへんもあると思いますよね。全身で認識されるものなので、空気が重い時は体の中も通りが悪くなるんで、気候的にもちょっと籠るのはあると思うんですね。

武井:なるほど。

仏教の「定義」を問い直す

坂東:今日はここでは仏教を深く話すことはしないんですが、仏教を再定義するとはどういうことなのか。どういう仏教哲学をまず日本人に知ってほしいのか。これはどんなふうに?

龍源:そうですね。仏教の基本的なものの考え方や在り方は、言葉をすごく大事にするんです。一つひとつの言葉に対して「我々はこういう意味で使う」とピタ、ピタ、ピタと定義をしていって、その上で議論します。

いろいろな考証考察をやって、私たちはこう考える、こう生きる。だから私たちはそのためにこういう修行をして、このような心を獲得するんだと。

そのために、さっきから世界観と申し上げていますけど、「世界に存在する自分が作っている世界」の中のいろいろな物事に対して、基本的にはちゃんと定義をしていく。ふわっと「幸せ」と言っても、幸せの定義がうまくできないと、どう求めていいかわからないじゃない? それが、仏教の基本的な考え方なんですよね。

そこにのっとって、今我々は「仏教」という言葉をいかなるものと定義しているのか。これを考えないと、じゃあどうしようかと言えないと思うんです。海外のことを知っておられる方は別として、画面の向こうのみなさんは、日本で「仏教」と言った瞬間に、何が頭の中に出てきますか? たいてい「葬式」がまず出てくると思うんですよね。

坂東:出ますね。

龍源:出ますよね。「葬式」「法事」、あとなんでしょうね。「重要文化財」「国宝」「運慶快慶」「仏像彫刻」「仏教美術」。マニアックな人は「仏教建築」みたいなね。仏教建築もけっこうおもしろいんです。でも「それは仏教なの?」という。

坂東:確かに。

龍源:仏教とは「悟った人の教えてくれたこと」という意味ですよ。仏教建築や運慶の彫刻が、悟った人が教えてくれたことなんですか。お葬式でなんかよくわからない「観自在菩~」というのを、うーんと聞いているのが悟った人が教えてくれたことなんですか。果たしてその定義でいいんだろうか。我々、日本仏教徒協会と名乗っている団体の1つの問いですよね。

21世紀の日本にフィットした「仏教の再定義」

坂東:すごい問いを発していますね。仏教業界的に大丈夫ですか?

龍源:でもそうなんじゃないですか。「俺、何をやってんのやろ」と思いながら法事をしているお坊さんは、たぶん少なくないと思う。

(一同笑)

坂東:マイルドに言いましたね(笑)。少なくない。

龍源:少なくないと思いますし、それぞれにご自身の定義があると思う。それはぜんぜんいいと思いますし、私は葬式反対派ではないですね。ご葬儀はいつの時代も絶対に必要だと思います。グリーフケアとして機能するものだと思いますし、1つのケジメとしてやはりやらないと気持ち悪いところもあるでしょうし。

気分だけの問題じゃなくて意味もちゃんとあると思うので、しっかりとその(葬儀の)世界は、続けていっていただきたいとは思うんですが。仏教の定義としてはめるのは、そもそもちょっと違うんじゃないのかなという気がするわけですよね。

坂東:確かに。

龍源:僕の根本的な問題意識としては、今の日本や世界はあまりいい方向に向かっているようには思えない。それを良き方向に向かうために、僕たちが何を獲得するべきなのか。それを考えた時に「仏教かもしれない」と思うわけで、じゃあその仏教がお葬式でお経を聞くことなのかというと、話がまたおかしいわけですよね。

坂東:確かに。

龍源:僕は元に立ち返って「悟った方が教えてくれたこと」を、これから21世紀の日本という時空間にフィットした仏教として再定義をしたい。そのために悟った人とはいったい誰なのか。その方が教えてくれたこととは何なのかを、もう少しクリアに定義をして、共有できる方々と一緒に享受していきたい。

仏教は社会に「活きるもの」

龍源:そして社会にインストールすることができれば、人間は変わっていくのではないかな。それこそがお釈迦さまがやろうとしたことなんじゃないかなという気がする。そんな感じです。

坂東:お釈迦さまがそもそもやろうとしたんじゃないのと。

龍源:だって「お釈迦さまは、何で説法したんですか」という話になるわけですよね。菩提樹の下で悟りを開かれたと伝わっていますけど。本当にいろいろな研究をされていますけど、お釈迦さまが「もう悟ったからいいや。俺はもう死んじゃおうかなー」と思ったというのは、どうやらそうみたいですよね。

坂東:なるほど。

龍源:ところが、「でもこれは他の人にもきっと役に立つことだから、自分だけ楽になって死ぬんじゃなくて、誰かと共有して社会に活かしてもらえるほうが、価値があるんじゃないかな」とお釈迦さまは思い直されて、「大変やけども行くか」と立ち上がって歩き始めてくれた。それが、仏教の始まりになるわけです。

坂東:よっこらしょと。

龍源:しゃあないな、行くかと。慈悲ですよね。お釈迦さまの後継者、弟子たちである我々は、そこに習うべきなんじゃないのかなと。その上で葬儀とは社会を良くすることにつながっていく。

人の心をより良き方向に導くことにつながる確信を持って、そういうリチュアル(宗教儀式)、宗教行事に取り組むべきなんじゃないか。そのほうがきっと豊かだ。

今、お坊さんのお経が長いの短いの、足がしびれたとか、そんなのじゃないですか。そういうのはもったいない。もっと活きるだろうという思いはあります。

坂東:そっかそっか。仏教はもっと活きるものなんですね。

龍源:はい。

坂東:仏教を、つまり悟った人が教えてくれたことをあらためてクリアにして、それを社会に実装する。インストールすることでより良くなるよねという。なぜそうなるのか。

龍源:そうですね。