親の価値観を押しつけずに、子どもと対話を続けるための心がまえ

田久保善彦氏(以下、田久保):それでは今ご質問をいただいているのを、いくつかピックアップしてお聞きしてみたいなと思います。

1つ目です。「私の子どもは小学校5年生ですが、今のまま遊びの気持ちを忘れずに育てたいと思う一方、資本主義のもとで従来どおりの教育が行われ、周囲が受験戦争へ向かう中で、どこまで好きなまま進ませていいか、ある程度準備させてあげるべきか、とても悩ましく思っています」と。

「子ども扱いせず、子ども自身が問いを立てて興味を深めていけるよう、対等に対話をしていくことが親の役割なのかなと感じていますが、価値観を押しつけずに子どもと対話を続けるにあたっての心がまえみたいなものについて、アドバイスいただけることがあれば」ということなんですけども。

孫泰蔵氏(以下、孫):そういう質問とかを受けることが最近増えまして、そういう時に私の個人的な考えとして申し上げているんですけど、「だいたいでいいんで、ドーンとかまえときゃいいんじゃないですか」っていう(笑)。「どっちでもいいっすよ」っていうことを申し上げてるんです。

なぜなら私も小学生の時、ファミコンにめちゃくちゃのめり込んで徹夜とかしてたので、説得力がないっていう(笑)。「どうしたもんかな」とかっては思うんですけど、でも「どっちでもいいや」と。やめろって言ってもいいし、思いっきりやらせてもいいなって今、思ってるんです。

それはどうしてかっていうと、正直……ぶっちゃけてすごいことを、あえて暴論を申し上げるんですけど。「みなさんご自身も、親御さんからそんなに影響を受けましたか?」って言いたいんですよ(笑)。

僕も親から良いこともいっぱい影響を受けましたけど、でもそれに影響を受けたっていうのであれば、すばらしい本を読んで影響を受けたとかもあるし。すばらしい先輩に出会って、すごく尊敬できて、うわーってすごい影響を受けて、人生が変わったようなこともありましたし。いっぱいあるんですよ。

親から受けた影響もあります。けど、自分という人間を作っていく時に、親だけが突出して影響を及ぼしていたかっていうと、そうでもないよねって僕は実感として思うんです。

なのであなたが悩むのはいいと思うんですけど、何をどうしたって、子どもはそんなに影響を受けないと思うので(笑)。いいんじゃないかって思うわけですよ。

その時の「ベスト」を考え切ってやるしかない

:よく初めての子育てをするお母さんとかが心配で……よちよち歩きしてる時に、湯気が立ってるやかんが置いてあるストーブのところに近づいていこうとしてると、「危ない!」って言いますよね。

でも子育て経験豊富なばあちゃんとかがいると「1回触らせんね、やけどしたらいいったい」って(笑)。そうすると「ギャー」って、触って泣いて、もう二度とそれから近づかないようになるわけですよ。

そういう意味で、長い人生の中では1回痛い目にあうっていうのもすごく大事なことで。それを放ったらかしにしたからといって、もし自分の子どもが大きくなって「あの時、お母さんお父さん止めてくれんかったけん、こんなひどいことになっちゃった」とかって言ったら「人のせいにすな」って言えばいいんですよね(笑)。「自分でなんとかせぇ」って言えば僕はいいと思うので。

自分なりにいろいろと問い続けていく中で、「この時はこうしたほうがいい」と思ったら、こうしたらいいってすればよいと思います。だからのびのび育てるのもよし。言ったって世の中はまだこういうルールで動いてるんだから、ある程度そことは折り合いつけなきゃいけないよねっていう考えもよし。

いやいや、そんな折り合いつけなくてもいいしっていうのもよし。しかもそれ自体がぶれたところで「人間ってのはぶれるもんなんだ」って言えばいいと思うし(笑)。

でもその時々で一生懸命、愛情を持って接してさえいれば、別にどういうことを言ったりやったりしたとしても、気持ちはきっと伝わると思うんですよね。それであれば僕はいいんじゃないかなと思っています。「何が役に立つかわからない」っていう話を第4章で書いてるんですけど、そこではそういうことが言いたくて一生懸命書いたんです。

『冒険の書 AI時代のアンラーニング』

田久保:その時に本当にベストだろうって思うことを、ちゃんと考え切ってやる以外、方法ないですもんね。

:実際、それ以外ないですよね。間違ったと思えば修正すりゃいいだけの話だと思うんです。

田久保:ありがとうございます。

数十年前は「サラリーマン」が少数派だった

田久保:あとここもちょっと触れられなかったのですが、みなさん思ってる部分は多いかなと思います。メリトクラシー(能力主義)の極限が超高性能なAIであるという、「メリトクラシーの限界」という話も出てきました。

だからそもそも、能力開発はもうしなくていいよっていう世の中を前提にしたほうがいいんじゃないの、ということもありました。

ただ一方で、じゃあそれがない世の中ってどういう世の中になるんだろうな……みたいなことを、この質問をいただいてる方もそうだし、多くの方がそう思ってるかもしれません。

もしくは、例えばここにもおもしろいこと書いてあるんですけども、医者みたいな仕事に関して言うと「さすがにいろんなものをクリアしてもらった人じゃないと、手術とかしてもらいにくいよね」みたいな折り合いというか。

メリトクラシーがなくなった世の中って、泰蔵さんはどんなふうに想像されていらっしゃいますか。ここはいかがでしょう。

:現代社会はやはり資本主義が高度化してきて、分業がどんどん進んで、いわゆるサラリーマンというかたちで働く人がすごく多くなったんですよね。でもこれって実は数十年でしかないっていうこともあるんですよね。

というのも、植木等さんが『スーダラ節』を歌ってたクレイジーキャッツの頃に、僕はたまたま映画でそのセリフを見たんですけど、歌で「いつか自分もサラリーマンとやらになってみたいもんだ」って言ってるんですよ。

1950年代、1960年代ぐらいなんですけど、その当時の日本はまだサラリーマンがマジョリティではなくて、マイノリティだったっていうことですよね。

「メリトクラシーを超えた社会」は昔からあった

:サラリーマンは評価があって、評価とひもづいた報酬制度があって。ですからメリトクラシーっていう社会が世界を覆ってる感じがするんですけど、でも例えば1940年ころの戦前の日本では、家が農家だという人は人口の半分くらいいたそうなんです。ところが今は、5パーセントも切ってるくらいなんです。

2人に1人は農業になんらかの形で関わっていたという意味で言うと、ほとんどの人が兼業だったと思うんです。そういう時は「なにかあっても食うのは困らんよね、育ててるから」っていう感じがあったとは聞くんですよね。今でも農家をやってらっしゃる人は「食いっぱぐれるっていうのはないわね」って思ってるし。

世の中でいろいろなことにあくせく、ギクシャクしてるよりも、お金とかもあんまりないけど、でも「お金稼げて大金もらえることよりも、うまく育ったっていうほうがうれしかったりする」って、本当に無理なくおっしゃってたりもして。そういった意味でメリトクラシーを超えた社会っていうのは、実は昔からけっこうあった。

しかもAIがなんでもやってくれるようになるから、みんなベーシックインカムみたいなので悠々自適に生きていけるようになる。「そんなわけないじゃん」とかって言う人がいるんですけど、実は日本にも、今でもけっこうたくさん不労所得者っていらっしゃるんですよね。地主とか、マンションのオーナーとかで家賃収入が入るから。

やりがい・生きがいとして仕事はしてるけれど、別に食うためにやってるわけじゃないっていう方って、たくさんいらっしゃると思うんです。あれみたいなもんだっていう話なんですよ。だから別に新しい話ではない。

社会全体がそうなったっていうのは確かにないので、新しい社会になったって言えるでしょうけれど。そういう暮らし方をしてる人は昔も今も、実はいる。だからあんまり特殊な話だと思わなくていいんじゃないかなって、実は僕は思ってるんですよね。

だからそういった意味で、どう考えても「行き過ぎたメリトクラシーは不幸にしかならないな」って思うし。私だけじゃなくいろんな方もおっしゃってて。「もうちょっと楽になりゃいいよね」っていうぐらいな感じなんですよね。

自分の愛する人に伝えるブックガイドが「冒険の書」になる

田久保:ありがとうございます。では私からの質問としては最後になります。本が出て約3ヶ月ということで、本当にものすごい反響があったのではないかと想像されます。

泰蔵さんが想定外に「こういうふうに解釈してくれて、思ってもみなかったこんな伝わり方がするんだ」って思われたことで、ポジティブサイドで「良かったな、この本書いて」って思われたことが、どんなことがあったのか教えていただけたらなと思うんですけど。

:うまく伝えられる自信がなくて、伝わらないだろうなって思って……例えばコミュニケーションでも、自分として一生懸命伝えてるつもりだけど、半分も伝わればいいほうだって、やはり実体験として思うんですけど。

田久保さんもそうですし、思った以上に深く受け止めて、私以上にそこから派生して、いろんな考え方をそこにひもづけてくださるような、いろんな情報をくださる方が出てきて。本というメディアはすごいメディアだなっていうことを今、実感してるんですね。

初めてお会いするのに、もうすごく深いところでつながっているような不思議な気持ちになって、いきなりお話ができるのは、ほかのメディアではあり得ないことだなって思うんですよね。今回初めてちゃんと自分で書いて本を出したので、私は体験したことがなくてですね。

そういった意味で先ほど申し上げたように、みなさんもまずは「自分が明日死ぬんだったら、この本とこの本、良いから読め」って、自分の愛する人に伝えるブックガイドを、3冊でも5冊でもいいので「うーん……」って考えていただいて。

それがなんで良いのか、1行ずつでいいから書くところからしていって、それをさらに深めていく。それを一生懸命やったのが、この本1冊ぶんになったんですけど、僕の場合(笑)。それが『冒険の書』だと僕は思っていて、それをみなさんもやっていただく。

それがみんなに伝わると、私が今申し上げていることが、たぶんみなさんにもピンとくるだろうって思いますので。すごくおすすめしたいことなんですね。

混沌とした時代だからこそ「楽観的な気持ち」を大切に

田久保:ありがとうございます。泰蔵さんのこの本の中に「必ず未来は変えられる」と。この対話の中で私が変われば、もうすでにそれって世界が変わっていくことにつながっていくじゃないって、ものすごく勇気をいただける本でした。

私自身は今日泰蔵さんとお話しさせていただいたあとに、もう1回この本をやはり読まないとなって今思ってるところなんですけども。今日ご参加のみなさんは、365ページの本を完読された方のはずなので、たくさんのメッセージを受け取っていただけたのではないかなと期待をしております。

じゃあ最後に泰蔵さん、みなさんにメッセージをいただけたらと思います。

:私も自分自身にいつも言い聞かせてることなんですけど、「ディープオプティミズム」っていう言葉がありまして。徹底的に悲観的に・客観的に、いろんな角度から徹底的に深く考えていくことで見えてくる楽観的な姿勢っていうのが、すごく大切だなと。

特にこれからの時代はすごく混沌とした時代になっていく予感が、たぶんみなさんもしてらっしゃると思うんです。私もするんですよね。こういう時こそ、深く考え抜いた上で生まれてくる楽観的な気持ちを、ぜひみんなで大切にしていきたいなと。

私の本はそのつもりで書いたからこそ、「読後感が爽やか」とか「心が軽くなりました」って言ってくださる方もいてですね。そういった意味で、そのことを最後の言葉としてみなさんに伝えて終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

田久保:ありがとうございました。本当に貴重な話で、幸せな時間でした。ありがとうございます。