G1最年長覇者、武豊氏が登壇

立川周氏(以下、立川):では、お座りになってください。よろしくお願いします。

武豊氏(以下、武):よろしくお願いします。

(会場拍手)

立川:すごい数の方々ですね。

:緊張しますね。

立川:(笑)。レースに出る時は緊張されますか?

:レースは(緊張)しなくなりました。

立川:でもやはりこういうトークイベントは緊張されるものですか?

:はい、慣れないんで。お手柔らかにお願いします。

立川:のちほどみなさんからの質疑応答もありますので、ぜひ最後までお聞きいただければと思います。テレビ東京アナウンサーの立川周です。テレビ東京で土曜日に放送しています『ウィニング競馬』という番組で、実況など担当しており、武さんにお話をうかがうということになりました。ぜひよろしくお願いいたします。

:よろしくお願いします。

立川:先ほど武さんのご紹介がありましたけれども、今年は今月(2023年4月)大阪杯勝利ということで、JRA G1最年長記録を更新されました。おめでとうございます。

:ありがとうございます。

(会場拍手)

立川:まさに日本競馬が誇るトップジョッキーですけれども。

:最近は「最年長」というフレーズがすっかり多くなって、ちょっと恥ずかしい感じもしますね。

立川:(笑)。

:昔は「最年少」とか「最速」ばかりだったんですけど、しょうがないなという感じです。

立川:(笑)。でもそれほど長く活躍されているということですよね。まさにね。

:ありがたいですね。

「自分の手首を持っただけで、その日の体重がわかる」のは本当?

立川:そんな武騎手ですけれども、伝説的なエピソードがいくつかありますので、その真偽を確かめてから、本題に入っていきたいと思います。まず「自分の手首を持っただけで、その日の体重がわかる」という話を聞くんですけれども、こちらは本当ですか?

:そうですね。そんなに上下しないので。

立川:ふだんから?

:はい、ふだんから。でも「ちょっと重いな」とか「今日は軽めだな」というのはなんとなくわかります。

立川:中央だけでも2万4千回騎乗されている武さんですけれども、武さんはこれまで乗ってきた馬だったり、レースの内容だったりというのを、すべて覚えていると言われていますけれども。

:うーん、馬名と何月何日、競馬場とか言ってもらったら、そのレースのことは全部出てくると思いますね。

立川:こういう走りして、こういうレース展開で......。

:そうですね。何が勝って、その前でどういうことが起きてたというのは思い出せます。

立川:本当ですか。本当にトップジョッキーならではのお話ですね。

騎手になったことを実感した、コース上から見たスタンドの景色

立川:そんな武さんですけれども、今回は時系列順にお話をうかがっていきたいなと思います。武さんは1984年にJRAの競馬学校に入学。それから3年間過ごされましたけれども、やはり競馬学校は厳しかったですか?

:そうですね。千葉県にある競馬学校に行かないとJRAのジョッキーになれなくて、中学卒業してから(入学試験を)受けられるんですけど、僕はもう中学3年の時に受けました。そこから3年間だったので厳しいと言えば厳しいですけど、騎手になるにはそれしかないので。ただ「早く卒業したいな」という感じでやってきました。

立川:競馬学校入学はご自身で決められたんですか?

:そうですね。

立川:騎手になると前から(決めていたんですね)。

:僕は子どもの頃から「競馬の騎手になりたい」というのがすごくあって。僕の父親がジョッキーをやっていたので、自然と憧れて、よく見に行ったりもしていたので。騎手以外(の進路)はほぼ考えたことなかったですね。

立川:その競馬学校を卒業して、晴れてプロの騎手としてデビューされたわけですけれども、実際、いかがでしたか。

:そうですね。まずは子どもの頃からの夢が1つ叶ったのですごくうれしかったですね。今まで一番感じたのが、競馬を見に行ってスタンドから見ていた景色の逆を見れた時ですね。馬に乗ってコースに入った時に、スタンドを見て、本当に初めてその景色が逆だったので、「あ、騎手になったんだ」と思いましたね。

立川:その時実感した。

:そうですね。

競馬ブームの中での“二世”としてのプレッシャー

立川:そこから1年目、デビューイヤーに当時の新人最多勝記録樹立という活躍でしたけれども、馬に乗っていて緊張だったりプレッシャーみたいなのはありましたか?

:そうですね。父親がジョッキーをやっていて、二世という感じでわりとマスコミにも取り上げてもらったりしていたんですけど、それなりに結果を出さないと親にも悪いなとか、そういうことはあったと思いますね。

立川:当時はオグリキャップなんかもいて、本当に競馬ブームだったわけですけれども、その中でも当然武さんにも注目が集まっていたと思います。

:どうでしたかね。競馬自体が新しく変わっていくタイミングだったんです。日本中央競馬会という名称からJRAに変わって、ちょうどその年に僕も騎手デビューして、お客さんもどんどん新しく、若い方が来る感じになったタイミングでしたね。

立川:当時の映像では、武さんにキャーキャー声援が集まっていたのもよく見ますけれども。

:昔ですけれどもね(笑)。

2010年の落馬事故、乗り越えるために大切にしたこと

立川:そんな武さんですけれども、そこからキャリアを重ねまして、1つ、2010年の落馬事故は、武さんの中でも大きかったんじゃないですか?

:そうですね。レース中の事故だったんですけど、左肩を大きく怪我してしまって。最初は自分も「すぐ治るだろうな」とわりと軽く考えていたら、なかなか治らなくて、復帰してもなかなか前のような結果が出せなくて。ちょっと大丈夫かなと心配になりましたね。

立川:当時、乗り越えないといけない時期だったと思うんですけど、そこを乗り越えるために大切にしていたものってどういうことだったんでしょうか。

:そうですね。デビューしてからずっと順調に成績も残せて、あまりつまづいたりとかなかったんですけど、思うようにいかない時期が続いたのが初めてだったので、けっこうきつかったです。「このあとどうなるのかな」と、ちょっと弱気になったり。

ただ、騎手を辞めたいとか、もういいかなということはまったく思わなかった。この状況を変えなきゃいけないというのはもちろんあって。騎手というのは「自分の馬」っていないんですよ。馬主さんが馬を持っていて、調教師さんに預けて、何月何日のどのレースにどのジョッキーを乗せるかという感じで、ジョッキーは依頼待ちなんですよ。

結局頼まれないとレースに出られないですし、同じレースに18頭、18人しかレースに出られないですから、なかなかそこで声が掛からないとか。その中でも強い馬、勝つ可能性がある馬には、当然成績のいいジョッキーに依頼がいくので、成績が落ちているとなかなかいい馬が回ってこない。そうすると余計レースも勝ちにくくなって、悪循環になってしまった時があったんです。

いっぺんに状況を変えるのは難しいだろうなと思っていたので、できることからしっかりと、新人の頃のような感じで、「もう一度地味なことからしっかりとやるしかないのかな、少しずつ状況を変えていくしかないかな」という感じでやってました。

そこからなんとなく、少しずつですけど成績が出てきたり、状況も良くなってきたりという感じでしたね。

落馬事故に遭った同じレースに出場、ネガティブを払拭

立川:当時、武さんが41歳というところで、自分を変えるのはけっこう勇気がいると思うんですけれども、どうですか?

:でも競馬の騎手ですから、馬に乗るしかないし、騎手という職業が大好きですからね。だからそんなにつらいという感じではなくて、「レースに出るためにじゃあどうしたらいいのかな」「今乗るためにはどうしたらいいのかな」と考えるので。そこが第一優先でしした。

立川:自分の中では、冷静に物事を見てという感じですかね。

:そうですね。厳しい世界だなと気づいたり、逆に応援してくれる人を再確認できたり、ありがたいこととかをあらためて感じたり、でも厳しさも感じたり、いい勉強になった時期だったと思いますね。

立川:その後、2013年にキズナで日本ダービー制覇。この時はまた違った感情だったんじゃないですか?

:そうですね。2010年に怪我して、怪我だけが原因ではないですけど、2010年、2011年、2012年と本当に成績がどんどん下がって、ジョッキー生活の中で一番きつい時期でしたから、そこでダービーというレースにキズナで挑める。勝てたというのは本当に大きかったと思いますね。

立川:キズナはダービーを制する前に毎日杯に出走していて、武さんが落馬事故に遭ったのが毎日杯ということで。

:そうですね。同じレースでしたね。

立川:その時は何か感じるものはありましたか?

:なんとなくやはりレースに何も問題はないんですけど、「ああ、怪我したレースだな」というのは思うところはあったんですけど、そういう終わったことというか過ぎたことを、いつまでも思っていてもしょうがないなというのもあったので、逆にキズナという馬で毎日杯に出るという時には、「よし、これで勝って、ネガティブなところを消したいな」という気持ちはありましたね。

デビュー3年目で海外で初騎乗

立川:なるほど。そして武さんといいますと、「海外挑戦」というのが1つテーマになると思うんですけれども。デビュー3年目で海外で初騎乗ということで、これはご自身で考えられたことなんですか?

:そうですね。騎手になる前から海外の競馬にすごく興味があって。僕がデビューした頃は、本当に日本の競馬関係者が海外に出ること、日本の馬が出ることはほとんどなかったですし、ジョッキーが海外で乗ることもほぼほぼなかったんで、難しいなと思っていたんですけど、騎手になったら絶対海外でも乗ってみたいなずっと憧れで思っていたので。だったら早くやりたいなと思って。

立川:海外に行って騎乗するジョッキーは、今は多くなったと思うんですけれども、(当時)そのあたりの周りの声はいかがですか。

:20歳くらいでまだ若かったですから、いろんな声はありましたよ。全部がプラスの声ではなかったし、「何しに行くんだ」とか「海外かぶれしているんじゃないか」とか、そういう声もありました。でも絶対やりたいと自分で決めていたことですし、まだ逆に若いから、今のうちにやりたいなという感じでやっていましたね。

立川:自分の意思、信念を貫く感じだったわけですかね。

:せっかく騎手になったんで、できるだけやりたいなと思っていました。

立川:2000年になってアメリカ、そしてフランスに拠点を置いて、しっかり海外で騎乗するというのも武さんは経験されましたけれども、実際に行かれていかがでしたか?

:仕事的にはなかなか難しいところもありました。もちろんレースは勝ったり負けたり、難しかったり厳しい面もありましたけど、すごくいい経験になりましたね。

立川:どういったところが?

:いろいろ鍛えられましたよ。1人でポンと行って、向こうの関係者の中に入って、通訳とかもいなかったですから(笑)。わかりやすく言うと、日本ではチヤホヤされていましたけど……。

立川:(笑)。

:まったく向こうでは「誰?」という感じで対応されていましたし。

立川:そうですか。

あらためて感じた「競馬おもしろいな」

:でも、その中であらためて競馬おもしろいなと思いましたし、その時に余計に例えば凱旋門賞とかフランスで大きいレースがあるんですけど、このレースだけは絶対勝ちたいなとなおさら強い気持ちになったり、もちろん技術的にもいろんなことを勉強できましたし、本当にいい経験させてもらったなと思いますね。

立川:競馬に限らずですけれども、他の職業でも本当にワールドワイドになっていますけれども、実際に海外に行って言語だったり、あるいは習慣だったりも違う中で、なかなか大変だとは思うんですけれども。

:大変でしたね。僕、英語もろくにしゃべれないんで(笑)、まだ仕事場のほうが楽でしたね。

立川:ああ、そうですか。

:仕事場だとなんとなく仕事の用語で行けたんですけど、仕事以外のいわゆる生活が、特にフランスはもう何言っているかさっぱりわからないし。

立川:(笑)。

:道に迷ったら本当に迷子になるしね。いろんなことがちょっとしたことが、家借りていたんですけど、例えば水が出ないとかそれはどうしたらいいんだという話だし、教えてもらった番号に掛けても約束してもぜんぜん来ないとか、そういうのばかりでしたから、いろいろと鍛えられましたね。

立川:それでも海外に行った経験というのは大きかったわけですね。

:今思えば本当に楽しかったですしね。うまくいかないことはたくさんあったけど、やはり楽しかったし、やりたいことをやれたのはよかったかなと思います。