SNSをやめた理由

山下悠一氏(以下、山下):次の質問はおもしろいですね。「人間としての進化とは何だと思われますか」と。

小野龍光氏(以下、小野):おもしろいですね(笑)。進化ってあとから見ると「進化」と言えるんですけれども、自然の成り行きですね。雨が降れば水たまりができて、高いところから低いところへ流れて、熱があればそれが蒸発してまた雲になる。要は物理法則みたいなもので進化が生まれていると、自分自身はとらえております。

人間さまが何を考えようが、そんなのは関係なしに地球も宇宙も動いていくので(笑)。その中において「進化圧」という言い方をしますが、生き物は勝手に進化を遂げていくと思います。

ですので人間が自分たちの知恵によって、もう少し地球やほかの生き物に対して邪な気持ちが薄まれば、絶滅せずに、ほかの生物種に淘汰されにくくなるかもしれません。いずれにしても、もうすでにいるとは思いますが、ホモサピエンスの次なるものに置き換わるのは必然ではないかと僕は思っています。

山下:僕は龍光さんのSNSの投稿を拝見していたんですけど、残念ながらやめてしまったそうです。僕はやめられる直前に連絡をして、こうしてご縁をいただけたんですけど。再開する見込みは、今のところはないのでしょうか。

小野:今はないですが、「龍光ポスト」というものを作らせていただいたので、検索すると出てくるかと思います。宣伝になってごめんなさい、ちょっとだけ画面を見せます。シンプルなフォームです。「何かお困りがあればここにどうぞ」と。あとはお知らせのところに「今どこにいますよ」という情報を常にアップデートしています。

発信の場としてポッドキャストだけで、それ以外は今のところ考えていません。SNSをやめた理由も話すと長くなりますが、あれもやはり「お金をいかに増やすか」という金融資本主義の中の1つとして生まれた。

そのためにAIが育てられて、そのために我々の時間が奪われる仕組みが生まれたと思っています。そうならないようなかたちで発信や、求められる人に対して自分ができることを作っていくということです。

ですので、もし今日何かお答えができなかったものがあれば、この龍光ポストを。基本的には役に立つと思うものは、100パーセントお答えさせていただいているので、ご活用いただければと思います。SNSは、今のところ考えておりません。

必然ではなく、「たまたまこうなった」という考え方

山下:「絶望の反対は豊かさではなく『足るを知る』だと思っています。一方でインドの佐々井さんは『お金が足りない』と言われていると言われていましたが、それと龍光さんとの違いは何でしょうか」。

小野:佐々井さんは、養老院や学校、病院などさまざまなものを作っていますので、やはりお金は足りないと思います。大事なことは「お金でお金を求める」ことになってないということです。佐々井さんも、なければないでしょうがないと「ある中でやっていく考え方」でいらっしゃいます。

ただ、目の前でたくさんの方が困っていて、困っている以上に今の日本人が考えられないような壮絶な差別も受けているんですよね。その人たちに尽くしていくためには、病院や学校が必要で、そのためになんとかしたいという意味での「お金がない」。

「自分のお金がもっと欲しい」という、我欲によって膨らんでいくお金の存在とは、まったく違うものだととらえています。

山下:「宇宙、遺伝子、仮想世界、仏教と小野さんの興味が変化しているように見えますが、仏教に通じることがあるように感じました。今思うと、仏教に至ったのは必然と思われますか?」という質問が来ています。

小野:まだご覧になっていなければ、スティーブ・ジョブズの「Connecting the dots」という有名な演説があります。振り返るから過去にあったことが必然と感じるだけであって、やっている最中はそれが必然とも、将来どうなるとも考えることはないという考え方。

ですので、たまたま仏教だった、たまたまこうなった、がお答えになります(笑)。Ifの話は存在しないので。ぜひ「スティーブ・ジョブズ Connecting the dots」で検索すると、私なんかよりはるかに価値のある、すばらしい演説が聞けると思います。

感謝を感じにくい環境と感謝が生まれる環境

小野:この(画面の)背景は毎朝見ている(オーストラリア)ゴールドコーストの浜辺の朝です。日の出の1時間前から瞑想を始めて、毎朝朝日を浴びています。自然に触れる機会は、都会にいるとなかなか得にくいんですけれども、ホモサピエンスのほとんどの時間は本来自然の中で暮らしていたわけです。

自然の中で生活すると「寒い、暑い」「雨に打たれる」「飯がなかなか食べられない」とか、当たり前のことが起きるんですね。こういう機会が実はすごく重要で、その機会がなく、さもすべてが満たされていると勘違いを起こすような都会にいると、感謝はやはり感じにくいです。ボタンを押せば食べ物が出てきて、それを当たり前だと思っている。

ですが、自然の中にいると、自分が口にするすべてのものが自然から、太陽から、水から生まれているという当たり前のことに気がつきやすくなるんですね。そうすると必然的に感謝は生まれます。誰かの命をいただいて自分は生きていられるんだという当たり前の事実を、都会で化合物ばかり食べていると感じにくい。

自然に触れるだけでなくてもいいと思うんです。当たり前だと思っていることはあまりにも失われやすいんだと少し意識するだけでも。

例えば今、必ずそうしていますけど、トイレでお掃除している方に必ず「ありがとうございます」と頭を下げるようにしているんです。きれいにしてくれている方、掃除してくれている方に対して、それも当たり前なんかじゃないと。

誰かがそうしてくれているから我々は快適に過ごせているんだという、当たり前の事実を常に意識する。こういったことから、感謝にあふれた日々は生まれてくるかなと思っています。

「ドーパミン系の欲求」を刺激する仕掛けとの向き合い方

山下:「生存したい、成長したいという人間の本能や欲求を、どのようにあきらめればいいのでしょうか。生物学や遺伝子を専攻されてきた観点からもうかがいたいです」と。

小野:「涅槃(ねはん)」「悟り」という言われ方をしますが、死ぬ瞬間だと思います(笑)。つまり死ぬ瞬間まで欲はなくならない。それが生きている証拠だと思います。なぜならば我々は、飯を食わないと、もしくは息をしないとすぐ死にますよね。なので息もしたい、飯も食いたい。それは欲求で、別に欲求が悪いわけではない。

ドーパミン系の欲求。もっと強い刺激を求める、脳の報酬系という仕組みがありますが、現代はこれをハックしている。SNSもそうですし、ギャンブルもそうですし、ドラッグもそうです。ハックしてこれらをビジネスにする人たちが、たくさん世の中にいる。我々は簡単にそれにはまりやすい。この仕組みを客観的に知れるか知れないかで、ずいぶん変わってくると思います。

まず欲求があるのは仕方がない。欲求に対してどう向き合うかという意味では、世の中の仕組みを知るのは時間がかかりますが、仏教で言っていることをすごくシンプルに言うと「自分の心を眺めなさい。そのためには呼吸を見るといいですよ」ということです。

なぜならば、自分の感情が波打つ時には必ず呼吸に変化が生まれるので。わかりやすく言うと「全集中の呼吸・常中状態を目指しましょう」です(笑)。

難しいんですが、こうやってしゃべっている時も含めて、僕自身も常に呼吸を意識する訓練を日々修行としてやっています。そうすると「ソフトクリームを食いたい」とか、いろいろな欲求が生まれてきた時に、自分の心を眺めて「どうせこれはまた波のように、雲のように消えていく。あぁ、いつものやつだ」と気がつく。そうすると、あまり苦しまなくなります。

欲求は死ぬまでなくならないと思うんですが、心を見つめる・呼吸を見つめることによって、それをなくし得るということは学べる。もしくは世の中にハックする仕組みがあることを知ると、少し対処しやすいかなと思います。

歩く時もトイレ掃除も、すべて修行になり得る

山下:今、朝の瞑想の話がありましたが、「日々どんな修行をされていますか」という質問についても、ぜひ教えていただけたらと思います。

小野:一呼吸一呼吸が修行になります。何をしゃべるかという、この一言もそうです。朝の瞑想もそうですが、どういう瞑想をするのかもそうです。

歩く時も瞑想しながら歩いていますが、一歩一歩をどう踏み出すのか。もしくは帰って、例えばトイレ掃除とかをする時に、どういう心持ちでするのか。こういったことはすべて修行になり得るという考え方です。

実際に体験したことはないですが、いろいろな仏教の道場に行って話を聞いたり、本を読んだりしていると、自分が今言ったようなことは、いわゆるお寺の修行道場においても近しいことがやられているようです。

山下:日々修行ですよね。

小野:実際に「行住坐臥」と言って、起きても立っても、座っている時も歩いている時も、すべてにおいて意味づけを考えながら行動するという仏教の言葉もあります。ですので歯を磨く時も頭を剃る時もすべて自分なりに決まったことを考えながら、修行としてやっています。

例えば頭を剃る時は「今日も1日慌てずにいきましょう、慌てるとケガをしますよ」ですね(笑)。そんなことを考えて言い聞かせながら剃る。これを修行と言うと「ふざけるな」と怒られる方もいらっしゃるかもしれませんが、これを自分なりの修行と呼んでいます。