CLOSE

出資本主義社会 〜カリスマ起業家からの自己変容ストーリー〜(全6記事)

出家した元投資家・連続起業家が資金調達は「不要」と説くわけ これからの日本市場で数字のインパクトを追うことの負の側面

まだあなたが気づいていない「未知なる可能性に気づく体験(Transformative Experience)」を提供するプラットフォーム、ヒューマンポテンシャルラボが開催するウェビナーに、ジモティーやグルーポンなどの創業を率いた元投資家兼シリアルアントレプレナーで、インドで出家した小野龍光氏が登壇。「幸せの定義」への違和感や、人から「ありがとう」と言われることが喜び・幸せになる事例を語りました。

「幸せの定義」への違和感

山下悠一氏(以下、山下)先ほど「薬中」とおっしゃっていましたが、ドーパミンによって突き動かされていることに気づくだけでも、資本主義の中で少し変わることができますよね。

小野龍光氏(以下、小野):おっしゃるとおりです。人間の脳は機械に冒されていますからね。TikTokを見続ける。YouTubeを見続ける。ドーパミンの仕組みをハックされて、機械にコントロールされている我々がいる(笑)。こういったことも1つかもしれません。

山下:逆に言うと、そういうことを前世(得度の前)では研究されていたんですか。

小野:そうですね。いかにそれをするか、そういうAIを確かに会社でもやっていました。

山下:アテンションキャピタリズムなんて言われていますもんね。どうやってずっと注意を引き続けるか。ある意味中毒にさせるというか、そういう研究に対して警鐘を鳴らしていくのは、確かにあるなと思いました。

一方でこれもまたおもしろいテーマかなと思うのは、やはり物理学とか、そういったところにもともと関心がある。あるいはテクノロジー。テクノロジーが人の幸せを解決できるかに関しては、どう思っていらっしゃいますか。

小野:幸せの定義で言うと、でき得る可能性は将来においても秘めていますが、特にテクノロジーがなくても幸せは生み得る。これは、2日前に行ったインドでも体験しています。小さな村にコンピューターが2つ来て、プリンターも来て、みんなが大喜びして、そのための法要に参ったんです。

その村は本当にボロボロです。でも、みんなすごくピュアな目をして、幸せそうでした。東京では、何かに追われているように、亡霊に取り憑かれているように、目が腐ってる人たちが多いんですけど(笑)、その村の人たちはとても幸せそうでした。

幸せは自分の心持ち次第で、別にモノのあるなし、テクノロジーのあるなしは関係ないというのが本来の姿だと思います。テクノロジーの発達が正義、もしくはモノが増える豊かさが幸せの定義とされているのは、個人的には少し違和感があります。

「悟る」とは何か?

山下:とはいえ、今のAIもそうですけど、テクノロジーを追い求めてしまう人の性も否定できない。それも、「欲望」とか「成長」の1つの現れですかね。

小野:僕のような何者でもない、まだ出家して半年の人間が言えるセリフではないですが、おそらく「悟り」なんて、あってないようなものです。チェックマークが入って「悟りました」「バッジがつきました」ではなくて、悟る瞬間があったり遠ざかったりという、波のようなものだと思うんですよね。

幸いにして人間は知恵を生み出せる生き物です。猿や動物たちのように欲求のままだけではなくて、知恵でコントロールができると思うんですよね。しかも、すでに2,400年前に、ブッダに限らず孔子やソクラテス等が、自分の膨らみ続けるもの(欲求)をどう処せばいいかを教えてくれているんですよね。

残念なことに2,400年前と今とで、人類がやっていることは何も変わっていないですし、脳みそも1ミリも進化していないと思います(笑)。そういった知恵をもう少し磨くことで、人類が自ら滅びそうな道に進むのか、ちょっと待てよとブレーキをかけられるのか。未だに戦争が続いているので、まだしばらくはかかりそうですけれども。

脳みそを変えていける可能性は持っていると思うんですけど、性としてはやはり動物なので。ホモサピエンスごときだとそんなレベルなのかなと思いますね。

90歳近くで風呂なし、バケツがトイレという生活

山下:そんな中で佐々井さんに出会ったことが変容のきっかけという話でしたが、佐々井さんのどんなところに影響を受けたのでしょうか。みなさんにとっても参考になるところがあったら教えていただきたいです。

小野:数日前まで毎日、ほぼ1日中ご一緒していました。インドは今暑いんですね。日中44度ぐらいになります。そんな中でも90歳近いおじいちゃんが法要などで、下手をすると1日中外にいて、とにかく人さまのためになるのであればと毎日命を削って生きていらっしゃる。

自分の部屋にはバケツがトイレとしてあるだけです。シャワーもバスもありません。とにかく自分のことなんてどうでもよく、命すらどうでもいい。人さまのために貫くんだと。それを55年間、日々してらっしゃるわけですよね。この重みは、簡単に言葉にできるようなものではないです。自分自身もその道を少しずつ、一歩ずつ進ませていただこうとしておりますけれども。

「自分が、自分が」という今の世の中。新自由主義経済は、「自由」を良しとしすぎていると僕は思うんです。本来は集団でしか生き残れないのが我々の性です。「自分が」から、少しは「他人にも」という気持ちが生まれ得るのが、佐々井さんから学べることでもあります。

日常の生活の中でもゴミを拾う、人に道を譲る、席を譲る、あいさつをちゃんとする。できることってたくさんあると思うんですよね。もちろん急に佐々井さんのような方になれるわけもないんですけど、できることはたくさんあるのかなと思っています。

人から「ありがとう」と言われることが喜び・幸せになる事例

山下:一方で、あまり自分に対して満足できていない人が、急に「利他で」としてしまうと、自己犠牲的なマインドになってしまう。それもなかなか続かないと思うんですが、龍光さんご自身はどうでしょうか。

自分を愛することと、他者に尽くすことのをバランスをとろうとしているのか。あるいは自分はいったん捨てて、利他にいこうとされているのか。

小野:もう亡くなった方ですが、仏教徒でもあり、キリスト教の造詣も深い、西田天香さんという方がいらっしゃって、その方が書いた『懺悔の生活』という本があります。

西田天香さんは、本当に1銭も持たずに生活していた方です。お金に行き詰まって路上生活をするほかにない方に出会って、突然「助けてくれ」と言われてどうしたかというエピソードがあります。

西田さんはその方に「あなたが持っているそのなけなしのお金を、もっとお金を持っていなそうな人に全部渡してしまいなさい。一文無しになりなさい」「そして僕があげるこの竹ぼうきを持って、3日間ひたすら掃除だけをしなさい」と言われたんですね。

その人はびっくりしたんですね。ただでさえお金に行き詰まって路上生活をしているのに、残りわずかなお金をすべて誰かにあげて、ひたすら掃除をする(笑)。

種を明かすと西田さんは1つだけ仕組みを用意していました。近くのうどん屋さんの店長に「あいつが昼過ぎまでちゃんと竹ぼうきで掃除してたら、うどんを1杯だけごちそうしてやってくれ」と。

その路上生活の人は言われたとおりになけなしのお金をあげた。でも、あげた瞬間に喜ばれたことで気づきがあったんですね。自分のような、どうしようもないと思っている人間でも、こだわっていたお金を捨てて、人に渡したことで喜ばれるんだ。「自分は人さまのためになることができるんだ」と、1つ自信を得ました。

そのあと、よくわからないけどひたすら掃除していたら、突然うどん屋のおじさんが「お前がんばっているから飯でも食っていけ」と言って、飯を食わせてもらった。これは仕込まれていたんですけれども、それで感動したんですね。

「自分でも役に立てるんだ、もっとがんばろう」と3日間やっていたら、結果的にいろんな人からご飯をご馳走になったり、もしくは軒先を貸してもらって、雨露をしのげる場所を提供してもらったりして、3日間で生まれ変わったエピソードがあります。

これは僕が語るよりも、すべてを表しているのではないかと思います。つまり経済的にどん底と思われる人でも、人さまのために立つ、そして「ありがとう」と言われるのは、その人の自信にもなり喜びにもなり、幸せにもなるという事例だと思っています。

「ただのさまよう坊主」と名乗るわけ

小野:これは戯れ言として聞いていただければと思うんですが、実際「ミラー効果」という言葉があります。自分がしてもらったらうれしいことを誰かにしてあげることで、お礼を言われなくてもオキシトシン系の幸せホルモンを得ることができる、という論文も存在します。

おそらくこれが答えで、つまり「誰かのためにする」と言うと、何か高尚なことを求めるような気がするんですが、単純にそれは「自分の幸せ」という気持ちよさに変わるんですね。

おそらく聞いていらっしゃる方で、電車で席を譲ったことがあって、その時になんとなくいいことをして気持ちよくなった体験のある方もいらっしゃるんじゃないかと思います。元気にあいさつをすると、返事が返ってこなくてもいい気持ちになるんです。

こういったかたちで、我々は生き物として、誰かのために為すことで自分自身を愛す……までいかなくても、自分自身のハッピーにつながる仕組みを持つ生き物ではないかと思っています。

山下:ありがとうございます。1時間が経ちましたので、ここからはQ&Aに入りたいと思います。みなさん出家すると言った時に、1人になることもあると思うんです。龍光さんの場合は奥さまとの関係性とかはいかがでしょうか。

小野:日本においては妻帯、つまり奥さんを持っても出家は一般的ですが、インドにおいては妻帯は基本的には許されません。「半僧半俗」みたいな言い方をしますが、僕も出家したと言っても、出家していないのも同じ。

ですので最近は「ただのさまよう坊主です」と名乗るようにして、仏教僧と名乗ることすら捨てました。ですので、嫁の世話になって生き長らえているのが事実です。

一方でこの10日間もずっとインドに行っていましたし、また6月の1ヶ月は佐々井さんが数年ぶりに日本にいらっしゃるんですが、1ヶ月ほど随身させていただくので、嫁とも別行動です。7月、8月、9月はお遍路、四国を2ヶ月ほど歩きで回ろうと思っているので、これも嫁を置いていきます(笑)。

(1年の)半分以上の時間を嫁と過ごしているわけではないんですよね。ですので、それを許してもらえている意味で、本当に神のような方に巡り合えて感謝しています。

極端な話、いつ捨てられてもそれは仕方がないことだと思います。家では毎日お掃除させてもらって、何かしらいさせてもらえる理由を作っています(笑)。役に立つと思われれば家にいさせてもらえるし、思われなければ捨てられて、いよいよもって本格的な出家になる。そのぐらいの心持ちで、ただ感謝をしております(笑)。

山下:なるほど(笑)。ありがとうございます。

我欲を抑えるために必要なこと

山下:続いての質問ですが、「仏教者ですら怠惰な状態を抑えきれない状況をどう思いますか」。

小野:自分のような何者でもない人間が伝えられることではないですが、僕も「ソフトクリームを食べたい」という欲望に、正直ちょいちょい負けるような怠惰な人間です。佐々井さんは非常に日本の仏教界を危惧していて、もう「滅びる」という話をしています。

山下:へぇー、そうなんですね。

小野:僕も今いろいろな日本の仏教の寺を回ったり、人にも会いますけれども、若い人ほど非常に危惧しています。わかりやすく言うと、どんどんサブスクライバー、つまり檀家さんという収益源が減っているんですね。

みなさんもそう感じているかもしれませんが、仏教離れがある。もともと葬式の時にしか縁がなかったものが、葬式ですら今は業者に頼む。だからもう坊さんなんて別にいなくていいじゃないか。若いお坊さんたちの中にも、そう感じ始めている人がいます。

これは僕の考え方ですが、別に仏教に限らずあらゆるものは、本当に必要であるならば、一度ダメになりかかった時に、必ず寄り戻しが生まれると思います。実際に日本の仏教界でも、若手の中で「なんとかこれを変えていこう」と必死に動いてらっしゃる方がいらっしゃるので。

また仏教がみなさんに求められる時代がくるかもしれませんし、インドがそうだったように、日本においても仏教がほぼ滅びていくかもしれません。もうこれはなるようにしかならないのかなと思います。

そして「現在の日本社会において、個人の我欲を抑えさせることが可能なのか」。いろいろな講演会で一番申し上げたいことはこれです。別に宗教である必要はないですが、自分自身の信念を磨くことがすごく重要だと思っています。

日本はこの数十年、成長がすべて、成長こそが是という時間が長かったがゆえに、これから先没落せざるを得ない。何も道筋を見させてもらえておらず、我々も正直どこに行けばいいのかわからない。

その中で、何かしら信念があれば少しはさまよいにくくなると思うんですが、これが日本においては特にない。実はヨーロッパでも無宗教が広がっていて、自殺の問題も含めてみんなが迷い始めている。

繰り返しになりますが、宗教でなくてもいいんです。哲学でもいいですし、自分なりの信念でもいい。そういったものがあることで、少しでも「自分が、自分が」という我欲をコントロールでき得るのではないかと考えています。その中において仏教はとても合理的で、良いツールでもあると思っています。お答えになっていれば幸いです。

これからの日本市場における「人さまのためになる」考え方

山下:次の質問ですが、「社会課題を解決したいという利他的な気持ちで起業する人が今すごく増えていると思うんですよね。現世にいることも、よほど修行となるのではと感じるところもあると思いますが、龍光さんは関わる対象を大きくシフトされたということでしょうか」。

確かにビジネスや経営を、ある意味修行ととらえられるかなとも思うんですけどね。これはどうでしょうか。

小野:今、僕はビジネスをしていませんが、その選択ももちろんあると思います。若い方、経営者の方に相談をいただく機会は多いんですけれども、ビジネスは売上ですとか時価総額といった数字で評価されるものです。まずそれをちゃんと理解した上で行うことをみなさんにお伝えしています。

自分もそうでしたが、どうしても若い時はインパクトを求めてしまいがちです。インパクトと言うと規模、数字の大きさになるんですね。そうすると、あえて言うと魂も何もない、ただ数字を求めるビジネスパーソンになりがちです。そして、他人を蹴落として前に出ていく、もしくは搾取をする。

特に日本というマーケットはこれから先、残念ながら搾取しないと数字を伸ばせません。そういったことを是として、「俺は数字を上げているからいいんだよ」と言いながら、裏でたくさんの人を蹴落とす人間になり得る。

ですので、まずインパクトありきとなりがちなのを抑える。人さまのためになることをやり続けていれば、のちにインパクトになります。もしくは偉いと呼ばれる人になり得ます。必ずなるとは限らないですが。こういったことに気をつける。

常に「数字、数字」となって「資金調達をしないと、大きいお金を集めないとダメじゃないか」と思いがちですが、資金調達をする必要はないです。まず人さまのために行えば、結果として人さまのためになったものが売上として入ってくる。その順番を間違えない。インパクトありきにならないことが大事かなと思ってます。

個人的には将来ビジネスの世界に戻る可能性があるかはわかりませんが、今はひたすら勉強したり、いろいろな国を巡ったり。どこでどういう人が困っているのか、日本も含めて巡る中から、自分が本当に時間を費やすべき社会課題を見定めようとしている段階です。

山下:「インパクト投資」なんて言葉で、何か違うものに置き換わったようで、実は同じかもしれないという。

小野:インパクト投資とは、「お金でお金をもっと増やしたいです投資」と言っているのと何の変わりもないんですよ(笑)。

山下:なるほど(笑)。

小野:お金の亡霊の塊みたいな。欲の塊みたいなものともとらえることができるのかなと思います。

続きを読むには会員登録
(無料)が必要です。

会員登録していただくと、すべての記事が制限なく閲覧でき、
著者フォローや記事の保存機能など、便利な機能がご利用いただけます。

無料会員登録

会員の方はこちら

関連タグ:

この記事のスピーカー

同じログの記事

コミュニティ情報

Brand Topics

Brand Topics

人気の記事

新着イベント

ログミーBusinessに
記事掲載しませんか?

イベント・インタビュー・対談 etc.

“編集しない編集”で、
スピーカーの「意図をそのまま」お届け!