新規事業で顧客を定義することの負の側面

武井浩三氏(以下、武井):高弘さん自身が、「あなたはこういう人だ」みたいに定義されることが嫌だったりしましたか? 

山口高弘氏(以下、山口):嫌ですね。「あなたは要は……」と言われると「『要は』ってなんで?」みたいな。「要は」とかではないし、そうではない側面もある。あとすごく違和感があるのが、当時社会的な起業家みたいに言われて、「いい感じの事業とかやる人ですよね」と言われて、「いや、いい感じのことをやらない時もありますから」とか。

とにかく、人ってプラスのレッテルを貼りたがるじゃないですか。「この人は社会的な起業家である」みたいな。レッテルを貼るのは罪だと思っていて、レッテルを貼った瞬間にその人はそうではないことを言いにくくなる。なのでもうレッテルを貼るのはやめてくれ、と思います。「健康的ですね」と言われたら、すごくマックとかを食べてる姿を見せたくなってしまったりとか。

(一同笑)

新規事業の「顧客の定義」も考えものですよね。顧客を定義しますって、いや顧客はそんな一概に定義できんよ、と思ったりするので。

武井:そうですよね。世の中はダイバーシティや多様性と言っているくせに、顧客の定義っておかしくない? という話で(笑)。

山口:そうです。境界を決めて、ボーダーを決めて、自ら機会をなくしている感じがしますよね。例えばお客さまを「リラックスしたい人」と定義してしまうとすると、リラックスしたくないお客さまが見えなくなったりする。

「散髪屋はリラックスすべき場所だから、シャンプーとかをちゃんとやってあげます」みたいなことばっかりやってると、QBハウスは生まれない。こんな話がいっぱい起きていると思うんですよね。もったいない。

自分が無意識に貼っている「レッテル」を知るポイント

岡田佳奈美氏(以下、岡田):ボーダーや境界線をなくすほうがいいというお話だと思います。どうやったらボーダーをなくせるのか。また自分が境界線を引いたり、ボーダーを持っていることに、どういうタイミングで気づけるのか。山口さんが意識していらっしゃることがあったら知りたいです。

山口:ボーダーに気づけたら、すごいストレスだと思うんですよ。自分は「善人である」というレッテルを貼られ、なぜか自分でも貼った生き方をしている。それが見えないからいいけど、見えたら善人の札を剥がしたくなると思うんです。

これがけっこう大事で、自分の貼られているレッテルが見える化すると、誰もがそれを剥がしたくなるんですよ。貼られていることに気づかないから剥がそうとしないだけで、貼られていることに気づいたら確実に剥がしたくなると思います。

善人の瞬間だけではないし、なんだったらペットボトルとか、ぶっちゃけ道に置いてしまったことあるしとか。そんなこと誰だってあるじゃないですか。

なので自分にどういうレッテルが貼られているのかとか、他者にどういうレッテルを貼っているかを、常に優先順位を上げて把握することがすごく大事だと思いますね。

多様性の高い環境に身を置くと、「お前ってこういう考え方してんだよな」とか「俺とこう違うな」みたいに指摘されるじゃないですか。そういう場に身を置き続けるとか。

あと社会の断面に触れると、断面がリアクションとして自分の姿を映してくれるんですよ。例えば病気で顔の形が変わってしまった方の顔を見た瞬間、仮に「気持ち悪い」と思ったとする。そうすると「自分のことをきれいな顔だと思っている」というレッテルが見えてくる、みたいな話です。

すべて作用・反作用で見えてくるので、気味が悪いと思った瞬間に、自分のことを気味が悪くないと思っているとわかる。そういう、自分のリアクションを逃さないのが、すごく大事だと思います。

武井:なるほど、陰と陽が同時に存在するんですね。

山口:そうそう。今、武井さんがおっしゃった表と裏とか陰と陽は、コインの裏返しで必ず同時に生じるじゃないですか。ということは、何か他者に「おっ」と思った時は、自分はこうだなとか。例えば、ターバンを巻いてる人に「何あれ」と思うことで、自分がターバンを巻いていない側だとわかる。

でもそれってけっこう難しくて、なんで自分は今ターバンを巻いてる人に対して「おや?」と思ったんだろうと、一概にたどり着けない。日本の文化的な背景や教育のされ方をひもとかないと、リアクションの理由がわからないんですよね。

なので背景まで含めてレッテルを剥がさないといけない。ただ剥がすだけだと剥がれ切らないので、そこから先は情報が必要だと思うんですよね。

武井:なるほど、おもしろ(笑)。

ラベルを貼りたくなるという「癖」

山口:「社会システムデザイナー」って、境界がないじゃないですか。「何をしている人かわからないけど、なんでもしていそう」とか、あらゆることに関わっているし。かといってどこに関わっているかよくわからんみたいな、自己定義を緩めておくのはすごく大事ですよね。

武井:そうなんですよ。だから僕は企業理念を作らないことを10年やってきた(笑)。

山口:企業理念を作らない、確かに大事(笑)。

武井:企業理念がない。でも「俺らがやってることが理念だから」と言い張ってましたね。そうするとメディア受けが異常に悪いというね(笑)。

(一同笑)

最近印象的だったのが、元外資系金融機関のかなりお偉いさんだった方とお話しした時に、たぶん悪い人でもぜんぜんないんですけど、思考の癖として「ラベルが何なのか」を知りたがるんですよね。

だから「僕はどこどこの誰々さんと、どこどこの頭取と仲がいいよ」とか言って、そういう人の名刺の束を見せてくるんですよね。「こういう人と僕は知り合いだよ」とか。で、「武井さんがそういうことをやっている目的は、要は何なの?」みたいに。

山口:出た、「要は」(笑)。

武井:「なんでそういうことをやってるの?」と言われて、僕もまさにそういう質問に答えるのが嫌いなので、「なぜって言われても、止められないんですよ」と答えたんですね。「俺は俺であることを止められないんです」と答えたんです(笑)。でもその人はぜんぜんわからないまま帰っていきました。

山口:(笑)。なるほど。

武井:レッテルで素早く判断できるほうがおそらく、資本主義社会では「稼げる人」ですよね。そのへんの、ちょっと言い方悪いけど人間の劣化みたいなもの。ラベリングは思考しなくても扱えるようになるから便利でもありますけど、やはり頼りすぎると人間として劣化しますよね。

アダム・スミスも指摘した「共感」の大切さ

山口:ラベリングは思考のショートカットの典型ですよね。しかも自分の枠の中に入っているものを肯定的にとらえることにもつながるので、確証バイアスなどいろんなものにつながってしまうと思います。

武井:そうですね。「ジョハリの窓」(自己分析のための心理学モデルのひとつ)的に言うと、認知できないものをそのまま置きっぱなしにしてしまうというか。

今日たまたまアダム・スミス研究の日本の第一人者の、大阪大学の堂目(卓生)教授とイベントをやっていました。アダム・スミスの話がおもしろいんですけど、彼の言葉で一番有名なのは、まさに「神の見えざる手」じゃないですか。でも彼は『国富論』で神の見えざる手の話をする前に『道徳感情論』という本を書いてるんですよね。

山口:そうです、そこが忘れられているんですよ。

武井:この神の見えざる手、「みんなが利己的に振る舞うと自然といい塩梅になるよ」と言うんだけど、でもそれには条件があって。「そこにモラル、共感がないとおかしくなるよ」と言っていて、それがおかしくなった結果が経済学で言うところの「合成の誤謬」ですよね。

やはり共感が必要で、共感とは「アイデンティティの獲得である」という話がおもしろくて。これを「人間開発」とか「ヒューマンディベロップメント」と言っていました。

社会に貢献できない……例えばまだ能力が備わっていない方とか、もしくは体にハンデキャップがある方とかがいたとして、社会全体で彼らをどうやって社会に貢献できるような人に、サポートして持ち上げていくかがすごく重要。それがヒューマンディベロップメント。

で、ヒューマンディベロップメントは「その人の中にある、まだ使われていない・眠っているアイデンティティがありはしないか」という問いですよね。新しいアイデンティティを獲得していく。

だから、「ハンデキャップの人は何も作業できないじゃないか」と言ったとしても、例えば誰かに気づきを与えることができたらそれは価値であり、それに気づけるかどうかだと。「深ぇ……」と思いました(笑)。

経済とは道徳であり人間でありみたいな、そのへんが俺は整理しきれなかったんですけど(笑)。高弘さんがいつも言っていることとリンクするなと思いながら、聞いていましたね。

人のアイデンティティを開発する人に必要なこと

山口:めちゃめちゃ啓発される話ですね。『道徳感情論』もそうですけど、人間は「意味とか価値を探求しすぎである」と、僕は読み取っているんですね。「価値とは事実である」みたいな一説があるんですけど、「人を虐待してはならない」は、価値ではなくファクトじゃないですか。

人間にとって当たり前のことや疑い得ないものは、侵さないでおこうと。その上で利己的であろうという考え方。

だとすると、ファクトだったことを価値に変えすぎというか。例えば「虐待するかどうかは俺の考え方だから。お前はしてはいけないと思っているけど、俺はしていいと思う」みたいな。どんどん自分の考え方を表出しやすくなった結果、利己性がファクトまで侵食してきている。そういう経済はかなり危ないと思う。

「弾圧するのが私たちの国の文化である」と言ってしまったら終わりじゃないですか。弾圧してはダメというファクトがあって、そこは侵さないでおきたい。このファクトは共有だよねと、分かった上で経済活動をしないといけない。「利己的であれ」なんて誰が言ったんだ、みたいな。ベースでそこがあっての話だと思います。

なので社会価値とか倫理資本主義とか言っていますけど、『道徳感情論』に立ち返れという話だと常に思っていますね。

あと共感の話も「アイデンティティの獲得である」は、めちゃめちゃ大事かなと思っています。自分がアイデンティティを持つと、他者のアイデンティティの開発に携われないと思うんですよ。なぜかというと、自分を「いい人である」と言ったとするじゃないですか。「いい人」という枠に入っていると「いい人ではない人」のことが見えないので。

これも武井さんとよく話しますが、共感するためには、中空である必要があると思います。真ん中が空になっていない限り、人のアイデンティティは開発できないので。固定的なアイデンティティを持ってしまった瞬間に、相手のアイデンティティに気づけない。掘り起こすことができないなら、真ん中はやはり空(エンプティネス)である必要があると思います。

例えば「カラオケのタンバリンを叩くリズムがめちゃくちゃいい。以上」みたいな、営業成績は何もない社員がいたとするじゃないですか(笑)。じゃあクビかというと「いやいや、あのタンバリンがあるからこそみんなが和むよね」みたいな。

これがなくなってしまうと、アイデンティティの開発の逆というか、どんどん「このアイデンティティでないと認められない」みたいな社会に向かっていく。やはり余白を持って、真ん中は空にしておかないといけないと思いますね。だからこそビジョンや経営理念を決めちゃいかんのは確かにそうかもしれないですね。

武井:そうなんですよ。僕はエンプティネスというか、真ん中を空にしたくて。だから企業理念を……作らないというか、言語化したくなかったんですよね。

山口:すみません、めっちゃがんばって作ってました(笑)。ヤバい。

仏教における2つの因果関係

武井:それが西洋宗教じゃないですけど「契約」みたいになると、俺は嘘にしか思えなくて。契約しないと成立しないものは悪く言うと強制だから、「契約したからこれを正しいと信じる」のはおかしな話です。やはりそういうのを追求したら自然と仏教とか、そういう感じになっていく。

仏教は因果関係が、縁起と空の2つ。ゼロがある。「ない」がある、空がある。でもそれってコミュニケーションが取りにくいものなので(笑)。この抽象度が高く、圧縮されたものを解凍する鍵を持っていないと、お互いに解凍できないわけです。鍵を持っている人同士だったらここでやり取りは済むんですけど。

人生が鍵を手に入れていくゲームみたいなものだとしたら、RPGで言うとみんながいろんなステージにいるので。俺のそれを押しつけることもまた良くないな、と思ったりするのを行ったり来たりした12年でした(笑)。

山口:鍵の話はめちゃくちゃわかる。今、包装材がすごく進化していて、パンの包装材、パッケージがありますよね。だいたいパンは添加物とかを含めると、3日~1週間ぐらいで腐り始めるけど、腐らないフィルターができていますよね。空気すら通さない。アルミとは違う構造で、プラスチックだけど空気やいろんな物質を通さないものがある。こうして、どんどんフィルターが高精度になってくる。

本来は、その人の掲げている看板とか持っているアイデンティティとか主張していることに対して、こっち側から鍵を開けて中を覗いて、実は違うことを考えていたりとか、背景とか、自分との接点を見つけるみたいなことが、鍵穴を通してできるんです。

それがあまりにも高精度になると、鍵が開けられなくなる。「こういうタイプの場合はこの鍵で開く」と何個も鍵を持っている人でないと、開けられなくなっている感じがします。さっきの投資銀行の方とかも、開けにくい感じがすごくする(笑)。やはり鍵をどう手に入れて相互理解を図っていくかが、すごく問われますね。