現役引退を決めた2つの理由

一ノ瀬メイ氏(以下、一ノ瀬):最初は水泳は自分を守るための武器みたいなものだったんです。いろいろと嫌なことを言われても、「いや、でもお前より速く泳げるし」とシンプルに言えることが自信になり、自分を守ってくれていた。

でも、その自分を守るための水泳はわりと早い段階で目的を達成した。13歳で日本代表にもなって、日本記録も更新して。日本記録を持っていたら「まあナメられることはない」となった時に、「じゃあ次は何のために水泳をやるんだろう?」と考えたんです。

自分はもう平気かもしれないけど、でもまだまだ社会には障害者への思い込み、偏見がたくさんある。「自分の思いを伝えるためには、自分がメディアに出る必要があるな」とその時に思って。でも、何かで結果を残さないと知ってもらえないし、メディアには出られない。「じゃあ水泳で結果を残して出よう」というのが、水泳を続ける目的になった。

でも2020年、結局2021年になったけど、東京オリンピック・パラリンピックでは、オリンピックと並んでパラリンピックが報道されるようになったし、オリンピックとセットで「パラリンピック」というワードをみんなが知ってくれる状況になった。

引退の理由は「プールの中でできることはやり切ったんじゃないかな」という思いが湧いてきたのが1つ。あとは、めっちゃしんどかったんですよ(笑)。

湯川カナ氏(以下、湯川):ああ、わかる(笑)。

一ノ瀬:私はアスリートとして、水泳が好きで好きでやっているタイプではなくて、目的や目標があって、そのための手段としてどれだけきつくても水泳を選んでやるタイプだったから。パンデミックが起きて、それぞれみんな、自分の生活を振り返るタイミングをもらったと思うんですけど、その時に「私にとって水泳は本当に手段なんだな」ということを感じた。

「ただ泳ぐのが好きでやっているわけではない。本当に手段として選んでやっていたんだな」と再確認した時に、「もっと自分が楽しんでやれる手段を見つけてもいいんじゃないかな」と思ったりもした。

自分の理想とのギャップ

一ノ瀬:ごめん、まだまだあるんですけど、最後に1個いいですか?

湯川:うん、聞くで。 

一ノ瀬:最後の1個は、自分が障害者やハーフ、最近はヴィーガンという選択をしているからヴィーガンとか。いろいろあるカテゴリーじゃなくて、「もっと人を個人個人、個々として見られるようになったらいいのに」とちっちゃい時からずっと思っていたんです。

「障害者」と一括りにするんじゃなくて、「一ノ瀬メイはどれぐらい泳げるんだろう」ともっと個人として見てもらいたいという思いがずっとあって。それを発信するために今までやってきたけど、パラリンピックという世界でどれだけ活躍して、メディアに出ても「パラリンピックの人」でしかないから、絶対にイコール「障害のある人」なんですよ。だって、障害がないとパラリンピックには出られないから。

つまり、自分の発信をするための「パラスイマー」という手段では、実は自分の理想にはたどり着けない。どれだけパラリンピックというプラットフォームで声を上げ続けても、一生「パラスイマー、一ノ瀬メイ」という肩書から抜け出すことができない。

「それってなんか自分の思っている理想と違うな」とすごく感じて。だから、いろんな肩書を置いて、ただの「一ノ瀬メイ」として発信をしてみたかった。そういうのもいろいろ含めてプールから出ようと思いました(笑)。

湯川:生物が進化するみたいに、海から、水の中から出て陸に上がろうかって。

一ノ瀬:「ちょっと陸に上がろうかな」と思いました(笑)。

湯川:でも、自分を支えてきた「これだったら他の人には負けない」という軸を手放すというのは……。変な話さ、カテゴリーは守ってくれるところもあって。

一ノ瀬:あるある。

湯川:「障害者の一ノ瀬メイです」と言ったら、向こうも何も言えなくなる。私ね、自分もシングルマザーなので、「シングルマザー、貧乏、借金を背負っている」と言うたびに、ジョーカーを出すような感じで相手が黙っていく。「もうこれで何にも言われへんやろ」みたいなね。

一ノ瀬:守られている感じ。

湯川:そうそう。言っちゃあれだけど「便利だよな」というところもあるのね。今だったら女性というのもわりとマイノリティで、「何? 私、女性という弱者なのにそう言うわけ?」と言うとさ、相手は黙らざるを得ないところもあるじゃない。

「パラスイマー」の肩書を手放す怖さ

湯川:そういう意味で水泳や障害のように自分を守ってくれているものを手放す、肩書をなくすと、何も守られない状態になるのかなと。勇気が要るし、相当不安だったんじゃないかなと思うんだけど、実際はどうだったんですか?

一ノ瀬:いや、やっぱりめっちゃ怖かったです。だって、13歳から10年間言ってきた肩書、寝ていても言えるぐらいずっと言ってきた「パラスイマー、一ノ瀬メイです」「パラ水泳日本代表の一ノ瀬メイです」を手放すのはすごく怖かった。

ましてや、もともと水泳が人生だと思っていた人間なので、「水泳以外の自分の価値は何なんだろう?」「水泳がなくなったら私、得意なことや特別なことなんて何もないんじゃないか」とも思った。

あとは本当にシンプルに泳ぐことが仕事だったので、「どうやってこれから食べていくんだろう」という。水泳を辞めるタイミングでスポンサー契約も全部終わるし、所属していたところも同時に辞める選択をしていたので、経済的にゼロスタートというのは怖かったですね。

湯川:でもやっちゃった。

一ノ瀬:本当に泳げなかったんです。いろんな人に「辞めるのが怖かったんだったら、なんで続けなかったの?」と言われるんですけど、辞める怖さ以上に、本当にやり切ったし続けることができなかった。

だいたいアスリートは試合が終わった時に、試合の結果が良かったらもちろん喜ぶし、悪かったら「もっとこうしておけばよかったな」「もっとこういう練習をすればよかった」「もっとこういうマインドセットで臨めばよかった」と絶対に自分の中でわかっている伸びしろがあるんですよ。

でも、最後のレースはそれが1個もなかった。もうホンマに全部やったし、今までの練習を振り返っても「自分に文句を言えないな」「本当にやり切ったんだな」と思えた。だから、コーチや監督に「引退します」と伝えた時も、「ホンマにやり切ったんやな?」と聞かれて、「いや、本当にあと1センチも泳げないです」と言ったのを覚えている。

湯川:『あしたのジョー』が引退した時真っ白になったのと同じ。やっぱりそういうことなんよね。

一ノ瀬:『あしたのジョー』はわからない(笑)。

湯川:わかる。ごめん(笑)。そうやな。あとでググっておいて。

一ノ瀬:ググります。

湯川:昭和の世代は、そんな感じ(笑)。いや、本当に真っ白になるんだね。

「他人のために」はがんばりやすい

湯川:今日、この話をしていただいているのは、全3回の自由人博覧会のうち、(1回目の)武井浩三さんから「ダイバーシティを組織としてどう考えるのか」というお話を聞いて、「それは自然と比べた時にも、やはり関係性を更新していくエコシステムの話だよ」というのを(2回目の)長谷川(英祐)先生に聞いたりしてきたんです。

今日は圧倒的な当事者として、メイちゃんが捉えるダイバーシティというのを聞いていこうと思います。メイちゃんはそれまでパラスイマーであることが自分自身の軸でもあった。プラス、途中から障害者を代表して話していこうと思うようになった。「他人のために」ってがんばりやすいじゃないですか。

私も子どもを持って助かったことは、「子どものために」「未来のために」と言うとみんなが突っ込めなくなっちゃう、やましさがなくなる。「障害者のために」というミッションを掲げていたほうが、自分自身にも直面せずに済んで楽だと思うんですよね。それを手放さざるを得なかったとしても、本当に全部手放したんだなと。あれから今2年近く経った?

一ノ瀬:いや、まだ1年ちょっとです。

湯川:1年ちょっとか。今、肩書がなくなった「一ノ瀬メイ」はどうですか?

一ノ瀬:どうかなあ。でも、めっちゃ山あり谷ありだったし、今カナさんが言ってくれはったみたいに、主語が「障害者」や「社会」じゃなくて「一ノ瀬メイ」になった時、自分とすごく向き合わないといけなかったし、自分をよく知らないといけなかった。

今までは、わかりやすく「パラリンピックに出る」「パラリンピックでメダルを取る」というのを掲げていて、それを物差しに生きてきたけど、それがなくなった時に全部私が基準になった。「私の価値観」「私が大事にしているもの」「私が優先したいもの」「私が欲しいもの」「私の幸せって何だろう?」と、めちゃめちゃ自分に問いかけましたね。

最初はぜんぜんわからなくて、「みんなは何を基準に生きているんやろう?」とすごく思った。「みんなは何のために明日起きるのが楽しみで、何を物差しに人生の選択をして、何が自分にとっての幸せなのか」というのが、ホンマに街の人ら全員に聞いて歩きたいぐらいわからへんかったから(笑)。

だから、仲がいい友だちに「なんでこの仕事を選んだん?」「この仕事を通して何を実現したいと思っているの?」とかいろいろ質問していました。

湯川:「何のために生まれて、何のために生きてるの」という、アンパンマンみたいにね。

一ノ瀬:(笑)。「何をして生きるのか」。

湯川:「わからないまま終わるなんて嫌だ」と。

一ノ瀬:ホンマにそんな感じです。

立場ではなく「自分」を主語にすることの難しさ

湯川:実は私、先週の自由人博覧会は急病で倒れ救急車で運ばれて欠席をし、代わりに大福(聡平)さんに司会進行をしていただいたんです。ちょっと死にかけ……。ぜんぜん大丈夫だったんだけど、勝手に「もう死ぬかも」と思っちゃったんですね。

「死ぬかも」と思った時に、本当に「私って何だろう?」というのを考えたんですよ。例えばSNSではリベルタ学舎の代表として発信しているので文章を書けるの。兵庫県広報官や兵庫県の広報アドバイザーとしても書けます。シングルマザーとしても書けます。

「~として」があると、べらべら言葉が出てくるんですよ。たぶんね、障害者としてハーフとして、立場を語るのはすごく簡単。「自分」じゃなくて「立場」が主語で、そこに「ちなみに、現場からのレポートでは」みたいな感じで文を入れるのはすごく簡単なんだけど。

でもそれがなくなった時に、「私は何もしゃべりたいこともないかもしれないし、SNSで発信したいことすらないかもしれない」と、この1週間前に思ったばかりだったんですね。

一ノ瀬:すごくタイムリー。

湯川:そうなのよね。私、今、アンパンマンに聞かれたら「もうすぐ50になるけどわかんないよ」と絶句していたと思う(笑)。

一ノ瀬:(笑)。

湯川:ただ、例えば合理的配慮も含めて「ダイバーシティ・マネジメント」と言う時、メイちゃんも行く先で「障害者だから」と肩書や立場でいろいろな配慮を受けたりするじゃないですか。それは当事者的にはどんな感じなんやろう?

ごめんなさい、うまく言えるかな。私は女性起業家と言われていて、今、日本では起業家支援がすごく多いけど、女性やシニア、学生だと助成金がいっぱい出やすいというのがある。

やはり成人男性たちからしたら、「それ、ずるいな」と思っているだろうし、「実力で勝負しろよ」と言われている感じもする。こっちも「こっちだって実力で勝負したいけど、制度があるなら使うかも」と。マイノリティとして支援をされる時は、自己肯定感も低くなるしすごく複雑になるんですよ。

「5個の日本記録保持」でもスポーツ推薦をもらえなかった現実

湯川:きっとそういう場面が多く、意識しながら生きてきたメイちゃんにとっては、マイノリティとして支援を受けるのはどんな感じなんやろう? 

一ノ瀬:どんな感じなんですかね。でも、わりとそういう支援やサポートが足りないと思いながら生きてきたタイプかもしれない。例えば大学に入る時、すでに5個の日本記録を持っていたのに、スポーツ推薦がもらえない。それは大学のスポーツではインカレ(インターカレッジ)という、大学の総合得点を競う大会がすごく大事とされていて、そこにパラアスリートがまだ出られないから。

だから、「あなたを大学に入れたとしても大学の総合得点に貢献できないから、パラアスリートにあげる推薦枠はありません」と言われたりもして。ちっちゃい時はスイミングに入れてもらえなかったり。だから何やろう、そもそも受けられなかったので、サポートを受け取る難しさはあんまり感じたことがないかもしれない。

湯川:今聞いて思ったけど、私は小学校の時から「女性初のなんとか」と付くことが多くて「女性初の生徒会長」「女性初の麻雀のメンバー」とか。なんかレベルがオリンピアンとぜんぜん違って申し訳ないんだけど(笑)。

今回も兵庫県で女性初の広報官、しかも民間初も付いている。「初」という立場にたまたまいるけど、それまでいなかったわけで「これじゃダメだ。女性との差別がない社会を作るねん」と男性社会の中に入って「うおお」という感じでやってきた。

弱い人たちを集めて、下手したら相手や制度を責めながら、たくさん敵を作ってなんとかやっていく、そうなりがちだったなと今の話を聞きながら思っていました。たぶんメイちゃんが「障害者のために泳いでいた」というのもそういうのが……。

一ノ瀬:いや、めっちゃわかります。やっぱりもうね、ずっとファイトしていました。

湯川:ファイトしているよね(笑)。

リオ・パラリンピックのスタート台で悟ったこと

一ノ瀬:だから、最近私を知った人にはすごく穏やかな印象があると思うんですけど、現役の時の仲間に話を聞くと、自分でもびっくりするぐらい気が強くて。

湯川:(笑)。

一ノ瀬:本当にずっと怒っていたんですよ。周りに対しても社会の制度に対しても怒っていたし、「理解してもらえない」「評価してもらえない」と外に対してすごく怒っていて。その怒りをエネルギーにして戦ってきたな。たぶんカナさんも一緒やけど、ずっと戦ってた。

湯川:本当に戦っているよね。じゃないと、50前でゲバラのTシャツばっか着てないよ。

一ノ瀬:先週のカナさんと似たような気づきを、私はリオのパラリンピックの時に経験していて。それまでは「社会に対してどうやったら発信できるんだろう」「こう発信したら人はどう思うんだろう? どう受け取るんだろう?」「こんな練習をしたらコーチはどう思うかな?」「コーチに怒られないように、こうやって練習しよう」とか、なんかすごく外向きにいろんなことを考えていたんですよ。

でも、リオのパラリンピックのスタート台に立った時にすごく大きな発見があった。それが「最後は一人なんやな」と思ったんですね。「どれだけ今まで人のことを気にして行動していても、このレースを他の人が泳いでくれるわけでもないし、泳ぐのは私一人しかいない。結果がどうであれ、全責任を負うのは自分なんだな」と悟ったんですね。

その時に「あ、人生も同じや」と思って。だから、どれだけ周りを気にしたり、周りのためにと思って行動しても、最後は一人なら、もっと自分に矢印を向けて、自分がやりたいことや自分がどういう人間かを知りたいと思った。