真山仁氏が小説で伝えたいこと

真山仁氏(以下、真山):ご紹介にあずかりました、真山です。よろしくお願いします。私は立ったままで長時間話していると、つい加速して早口になりすぎるクセがあります。座ると落ち着いて話しやすいので、本日も失礼して、座ってお話をさせていただきます。

また、突然水を飲んだり、急に黙り込んでも、頭が真っ白になったわけではありません。私の中で「加速して早口になってしまっている」と感じるとブレーキをかけます。急に静かになりますが、ご安心ください。

本日は起業を目指すファイナリストの方々によるプレゼンテーションが行われたと聞いています。ビジネスのアドバイザーでもコンサルタントでもないのに、「なぜ小説家の真山が基調講演を?」と思われる方も多いと思います。

小説家と言っても、私の場合は机に座って、ひとりで自問自答して、人間の内面や心理を追求するというよりは、世の中で起きていること、問題になっていることを見つけ、いろんな角度から疑って、社会に警鐘を鳴らしたり、選択肢を提案したいと思っています。

なので、取材したり、たくさんの人に会ったり、いろんな人に手伝っていただきながら、物を書いています。

さらに、小説ですから、読者の予想とは異なる展開で物語を進めて、意外性を持って楽しんでいただかなきゃいけない。そのためには、人とは違う物の見方が必要です。

また、「ああ、こういう考え方をするのか」と気付いてほしいので、次から次へと出てくる問題を解決しながら、渦に巻き込まれながら、読む人が小説の中で人生を疑似体験できるようにと考えています。さらに、読み終わった時に、おもしろかったと思ってもらうのに加えて、仕事や人生の中で、何か考えるヒントを得てもらいたい。

そのために、どんな発想の仕方をしているのか、情報と向き合っているのかについてお話ししたいと思います。

「常識を疑え」から「正しいを疑え」へ

今日のタイトルにもありますけど、「正しい」とか「常識」を疑うことを私はすごく大事にして小説を書いています。『ハゲタカ』でデビューした時から、座右の銘を書いてほしいと言われると、ずっと「常識を疑え」と書いていました。

東日本大震災の頃から、SNSで「正しい」を振りかざす人が増えてきて、それが気になってきたので、今は常識より「正しい」を疑うことの大事さを訴えています。

今日はそういうことを前提にしつつ、お題にいただいた「55歳からの挑戦」についてもお話ししたいと思います。

本日ファイナリストの方々が、新しい事業について提案して、みなさんに説得をして、それが結果として東京都が背中を押してくれるチャンスにつながるかもしれない。大変素晴らしい「挑戦」をされていると思います。

小説を書くことは、おそらく誰でもできる挑戦です。でも、大変ハイリスクで、決しておすすめはしません。生活の不安は、みなさんが想像していらっしゃるのとは桁違いに大変です。

その一方で、簡単に言うと、ペンと紙があれば誰でもできます。少し減りましたけど、登竜門もたくさんあります。昔と違って、編集部に「読んでください」と原稿を送りつけてもなかなか応じてくれませんが、ほぼすべての小説を扱っている雑誌には新人賞があります。

短編は原稿用紙で50枚未満、純文だとたぶん30枚未満ぐらいだと思います。長編では600枚ぐらい書ける物もあります。日本語で書くことくらいしか制限はないです。

パソコンで打ち込んだテキストデータがなければダメですが、今それができない人はだいぶ減っているし、入力だけ、他の人にやってもらっていらっしゃる作家の先生もいるので、そんなに高いハードルではないと思います。

ただ、誰でもできるからこそ、大変です。なぜなら、書いた物でしか勝負ができず、プレゼンの場もないからです。作品がプレゼンそのものなので、そういう意味では、誰でもできるけどハイリスクであり、おそらく挑戦して結果が出れば、人生の高揚感はかなり高いほうだと思います。

『白い巨塔』で知った小説の持つ力

自分自身の体験をご披露することが、たぶんみなさんの挑戦のヒントになると思います。最初はテーマから真逆のことを言いますが、そこはちょっと我慢して聞いてください。

私が最初に小説を書いたのは10歳ぐらいです。小学校の壁新聞を、班に分かれて書いたときに、いつも小説を書いていました。

当時、少年少女向けの児童書をたくさん出していたポプラ社が、怪盗ルパンシリーズを出していて、私はそれが大変好きだったので、ルパンが主人公の小説を書いていました。壁新聞に書く量ですから、文字数はそれほど多くない。

「続く」で終わるんですけど、班が変わるとまた新しい物語を書くのを繰り返していましたが、そのうち、自分は小説家になるために生まれてきたのではないかという勘違いが始まります。

なんで勘違いが起きるかというと、小説が好きな人は、読んでいて、たまたま犯人が当たったり、トリックを当てたりすると、「これなら自分でも書けるのでは」と思い始める。人生、勘違いから成功する可能性はたくさんあるので、大事なことではあるんですね。

自分自身が、世の中のことを小説で学んできたので、中学生ぐらいになると、無関心な人に何かを伝えるには、小説で、エンタメでおもしろくして、社会の問題点を明らかにするほうがいいんじゃないかと偉そうに考え始めていました。

親に言うと、身のほどを知りなさいと。絶対ありえないと言われて、人にはその頃から言わなくなりましたが、高校時代には本気で小説家になろうと思っていました。いま、小説家に至る話をしているのは、自分の夢を実現していくプロセスを知っていただきたいからです。

高校時代に、社会的にいろんな意見を言いたいと思い始めました。きっかけは社会派の小説や、イギリスやアメリカのスパイ小説や謀略小説を読んでいたこと。小説の持つ力について、あらためて考えた。

例えば、山崎豊子さんの『白い巨塔』を読んで、「医者ってこんなにダメなのか」「こんなに人間って欲望に負けてしまうのか」と思う一方で、医学の尊さもちゃんと読者に伝えている。

私は一時期医者になりたかったけれど、理科系があまり得意じゃないので断念したのですが、こういうやり方もあるのかと。医学に対する誤解や偏見を正すだけではなく、もっと医学を真剣に考えることもできる。小説っていいなと思い始めました。

小説家になるために繰り返した「なぜ」

イギリスやアメリカの謀略小説を読んでいると、ニュースで出てくる話の裏で、いろんな交渉や根回し、暗躍や、時には違法行為を含めて、命懸けの人たちが戦って成立しているのがわかる。日本ではあまり知られていないけど、もっと伝えられるべきじゃないのかなという気持ちが強くなりました。

だったら自分が書こうと思い始めたんです。それで、高校生ながらに分析しました。自分の好きな小説はどういう人が書いているんだろうと。

すると、先ほど申し上げた山崎豊子さんは文化部ですけど毎日新聞の記者ですし、松本清張さんは、どちらかというと広告とかのコピーを書いていた人ですけど、朝日新聞にもいた。

さらに、私が敬愛する『ジャッカルの日』の作者フレデリック・フォーサイスや、『消されかけた男』のブライアン・フリーマントルなど、みんなジャーナリスト出身でした。

ジャーナリストの書く小説が好きなのはなぜだろうと考えた時に、まず取材力だろうなと。さらに、小説の内容は意表をつくものだったとしても、わかりやすい文章を書いて、人に伝えることをものすごく重視している。

練りに練った美しい文章を書くよりも、新聞記事と似ていて、誤解のないように、どう伝えられるかが大事なんだろうなと。

さらに、新聞記者が小説を書く理由を考えると、おそらく記事にはできない、いろんな事情があって、その知識を小説に変えることによって伝えてきたんだろうと。それで、自分は記者の修行を10年やって、そのあと小説家デビューをしようと考えました。

ですから、(就職時に)新聞社にたくさん入っている大学・学部ばかりを受験しました。私の場合は、55歳からの挑戦どころか15歳から挑戦を始めて、デビューしたのは41歳でした。つまり、苦節26年です。

新たな挑戦をする人にとっての「先人の経験」の重要性

ここまで来て、ようやくなぜ今この話をしているのかに、近づいてきます。

ファイナリストのみなさんは、プレゼンの準備で、先人の人の経験談を読まれたり、今まで経験してきた中で成功したプレゼンや、うまくいかなかったプレゼン、いろいろ考えられたと思います。たぶん、結局は自分のオリジナリティも大事だけど、先人の経験を大事にしようと思われたのではないでしょうか。

私も10代、20代の頃に、成功した小説家のエッセイやインタビューをたくさん読みました。その中に、何人かの小説家が、小説家にとって一番大事なのは人生経験を積むことだと書いていました。

その頃は若造でしたから理解できず、「才能がないからそんなことを言うんだ」と、偉そうに思っていました。中学生ぐらいから大人の小説を読んでいますから、「大人の考えることなんかみんなわかるから大丈夫」と。15歳からずっと江戸川乱歩賞とかいろんな賞に投稿しましたけど、ぜんぜん相手にされませんでした。

結果的に、そこから苦節が始まるわけですけど、今になってすごくよく分かる。小説って、単にノウハウ本として何かを伝えるわけではないし、登場人物は自分の思いどおりに動くピースでもありません。

講演でよくみなさんに小説を読みましょうと言います。なぜなら、感情移入をして、小説の登場人物たちと一緒に物語の世界の中でいろんなことを経験すると、結果的に、自分とは別の人生を経験できるのです。

若い人がエンターテイメント小説を書きづらいわけ

ということは、出てくる登場人物は「人間」でなければいけないのです。年齢やキャリアがどうであるとか、あるいは、男性か女性か、性格はおっとりしているのかキツいのか、そういうものではないんです。

どういった家庭環境の中で生まれて、こういう経験をして、ここで挫折して、ここでうまくいって、ここでまた対立してと1人の人生を作っておかないといけない。

ケースバイケースですけど、おそらく、ちゃんと人を丁寧にお書きになっていらっしゃる小説家は、生年月日から人生を設定されています。

私も主要人物に関しては、ものすごく気を遣いながら、何回も直しながら書いています。たぶん、人生経験が浅いと、数冊書いたら同じイメージのキャラクターしか書けなくなるはずですよ。

まがりなりにも、18年ぐらい書いていると、性格が近い人は出てきますけど、常に違う人を書かなきゃいけないと試行錯誤しています。特に、苦手なのが、若い人を書くことです。

若い人の挫折って受験か恋愛、兄弟の葛藤ぐらいしかない。どうしてもパターンが決まってしまうので、兄弟を殺すか、親に離婚させることになる。

これだと読み手が先回りし、「自分のほうが不幸だ」と思われるかもしれない。読み手が登場人物に違和感を持つときは、人生を描けていないことが多い。

やっぱり人生経験を重ねて、自分の周りにいるいろんな人たちのこともどんどん吸収するのが重要。もちろん、いろんな人が書いた小説を読むことも、自分の人生と照らし合わせるとさらにふくらむ。そう考えると、若い人が小説を書くのは難しい。

そうやって人間に対する洞察力がついていく。これは、私が若い頃に読んだ、大先輩の作家が書かれたエッセイでも、おっしゃっている。若い頃は「そんなもの必要ない」と思っていたけど、年を追うにつれて、意味がわかってきた。もちろん20代、30代で天折した天才作家もいますが、そういう方は純文学系の人が多いですね。

内面の葛藤を描く純文では、ひどい言い方ですけど、大人として、社会人として、最低限の佇まいをベースに物語を回す必要性があまりない。読んでいる人が最初から、清い、純粋な物として、人間の生き方、人間のありようみたいなことに深く深く入っていきたいという純文なら、若さが活きるケースもある。

一方、エンターテイメント小説は波瀾万丈な面白さや、潔癖な人が人に迷惑をかけるような意外性も必要だからこそ、人生経験が多いほどいい。

実際、私は41歳でデビューしましたけど、まだまだそこは足りていなかったんじゃないかと、最近すごく感じるようになりました。