2024.10.21
お互い疑心暗鬼になりがちな、経営企画と事業部の壁 組織に「分断」が生まれる要因と打開策
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辻信一氏:さて、話は少し飛びます。第8章には、さっき言いましたリジェネラティブ(再生)とか、ローカリゼーション(地域化)という僕の活動のテーマが出てきます。これらはナマケモノ倶楽部のテーマでもあります。
8章のタイトルは「答えはすぐ足もとの土にある」ですが、これは大きな意識の転換を示す表現なんです。僕たちは土を役に立たない、ムダなものとして、文字通り「見下して」いた。そして答えを上にばかり求めていた。
江戸時代、豊後の国(今の大分県)に生きた三浦梅園という人は農民であり、哲学者であり、お医者さんでもありました。その人がこう言っている。「枯れた木に花が咲くのに驚くより、生きている木に花が咲くのに驚きなさい」って。
同じようなことを、去年亡くなったばかりのティク・ナット・ハンという偉大な仏教指導者も言っています。
キリストが水の上を歩いたのが奇跡なのではなく、日々、われわれが土の上を歩いていることこそが奇跡なんだ、と。本当に、そうだと思うんです。こうして土に支えられて、木々も、建物も立っている。そしてその土に育てられる植物たちのおかげで刻々息をして、土からくる食べ物を食べて生きている。このことこそが奇跡なんだと。
この本にはジェーン・グドールの『希望の教室』という本のことも出てきます。グドールはチンパンジーの研究で有名な霊長類学者ですが、同時に僕らにとっては尊敬するアクティビストの大先輩。社会運動、平和運動、そして環境運動のアクティビストです。
世界中から人気者のグドールのところにいろんな人が会いに来る。そしてみんなが「人類の未来に希望があると、あなたは本当に信じているんですか」と尋ねるんだって。
そのたびに彼女は答える。「答えはイエスです。心からそう言えます」。僕もそう言える人になりたいなと思っています。
科学は、絶望も希望も語りません。だけど、グドールは、「自分は科学者(サイエンティスト)である前に、自然主義者(ナチュラリスト)だと言いたい」と。
ナチュラリストとしての自分なら希望を語れると。「人類史100万年を通じて、人類はゆっくりと、しかし、着実に思いやりと共感の力を身につけてきた。だから、私は希望を語りたい」と。
「不正や蛮行は後を絶たないが、それが間違ってることは、ほとんどの人が知ってる」。今現在も世界で、いろんな不正や蛮行がひっきりなしに起こってますよね。でも、それが「嫌だな」、「おかしいぞ」、「間違ってる」と僕らが感じているのはもちろん、やってる本人もわかってるんじゃないか。希望があるとすれば、そこにあるんだってグドールは言うんです。
「科学とスピリチュアリティは矛盾しない」と、グドールは考えてるんですね。そして、こう言うんですよ。「自然も人間が動き出すのを待ってる。自然には並外れた回復力がある。それに忘れないで、自然は人間よりも遥かに優れた判断力を持っているわ」。僕もそこに希望があると思うんですね。
先ほどの言葉で言えば、この地球生態系ではすべてのものが絡み合って、ある壮大な調和をつくっているわけです。その意味では、ムダなものがない。でも、人間だけがそこからはみ出してしまって、「あれがムダだ、これがムダだ」って区別しては、ムダなものを切り捨てようとして、逆に膨大なムダをつくり出している。
そして何かが「役に立つ」となれば、それをどんどんとり尽くし、掘り尽くし、消費し尽くす。
しかし、とグドールは言うわけです。自然界は「人間はその程度じゃない」と知ってる。そして人間が動き出すのを待ってるんだって。
そして、人間が壊してきた自然には、僕たちがこれまで想像できなかったような回復力があるんだと。グドールは「それに賭けよう」と言っているような気がします。
僕の大好きな長田弘さんの詩の一部です。「目立たない虫、目には見えないような虫、とるにたらない虫、つまらない虫、みにくい虫、いやしい虫、くだらない虫・・・」つまり、ムダな虫ですよね。
「ファーブルさんは、小さな虫たちを愛した。生きるように生きる小さな虫たちを愛した。虫たちは、精一杯、いま、ここを生きて、力をつくして、じぶんの務めをなしとげる。じぶんのでない生き方なんかけっしてしない。」(長田弘『ファーブルさん』)。
さて、この辺で、一番最後の章に入っていきましょう。タイトルは「愛とは時間をムダにすること」です。
「自分のでない生き方なんかやめようぜ」っていうのが、ナマケモノのメッセージかな。ナマケモノの生き方は、「スロー・スモール・シンプル」3つのSで始まる形容詞で表される生き方なんですね。それが自分ならではの生き方なんです。
「食事の時間だから、今は食事をしよう。私は、私自身の人生の邪魔をしたくない。なぜ、我々は自分のでない人生を忙しく生きなければならないのか。ゆっくりと生きなくてはいけない。空が言った。木が言った。風も言った。」(長田弘「人生の短さとゆたかさ」/『世界は一冊の本』)
これも長田弘さんの詩です。考えてみると、本当に節目節目で長田弘さんの詩に救われてきたような気がしますね。
終章でこの詩を引用したあと、僕は「そろそろ、気がつくべきだろう」と言っています。「投げられた石のように」、「自分のでない人生を忙しく生きている」のは、どうやら僕たち自身のことらしいと。
終章のテーマは時間です。時間について、ちょっと考えてみましょう。そもそも、時間に対する僕たちの態度に大きな問題があるんですね。所有物としての時間、使用価値としての時間、交換価値としての時間、つまり「モノ」として時間をとらえているんです。資源としての時間、材料としての時間、手段としての時間......、そしてしまいにはタイム・イズ・マネー、つまり、時間とお金をイコールで結んじゃったわけですよ。
全部これらは、「○○としての時間」という考え方なんです。その土台になってるのは、時間が手段であって「役に立つ」「役に立てなければならない」ものだという思い込みです。
だいたい、時間を所有物だと考えること自体が変ですよね。そういう不思議なことを僕らはやってきた。そして今もやってるわけです。
さて、『ムダのてつがく』の最後を飾るのは、『星の王子さま』です。サン・テグジュペリというフランスの作家の作品で、世界中で読まれてきた名著ですね。この本の日本語訳が十数種類あるそうです。
主人公の王子さまは、小さな星からやってきた。王子さまの他にはバラの花しかいないという小さな星なんですね。そこから旅に出た王子さまが、いろんな星を巡るというお話です。
最後に地球にやってきます。地球に降り立って王子さまが歩いてたら、5,000本ほどのバラが咲いている庭があったんですよ。それで、王子さまは悲しくなっちゃって、草の上に突っ伏して泣いちゃった。
なんでかっていうと、自分の星に残してきたバラの花のことを思い出したんです。あのバラの花が、この5,000ものバラを見たらどう思うだろう。本当に悲しくなっちゃうだろうな。そして、恥ずかしくてね、もう、誰にも顔が向けられなくなるんじゃないかと。
なぜなら、バラの花はいつも威張っていたから。「私はこの世界でたった1つのバラの花なのよ、きれいでしょ」って。
だから、バラなんて世界にはいくらでもあるんだ。自分はいくらでもあるバラの花の、たった一つの平凡な花に過ぎないってことがわかったら、彼女は本当に悲しむだろうなぁ。王子さまはそれを思って悲しくなっちゃったんです。
そうこうしてると、そこにキツネが現れるんですね。このキツネとの対話が始まります。キツネが現れて「友だちになろうよ」って言う。
でも、王子さまは乗り気じゃない。友だちになっていったい何になるの? 友だちになると、別れる時に悲しくなるだけじゃない。だったら、友だちになんかならないほうがいい。王子さまはそんなことを言うんです。とても悲しい言葉でしょ。
そうするとキツネがなんだかんだ言って、結局、2人は仲良しになるんですよ。
2人は友だちになる。フランス語では「手なずけ合う」という意味の言葉が使われている。つまり双方がお互いに慣れ親しんでいく。友だちになるとはそういうことですよね。そして、すべての関係がそうであるように、やがてこのふたりの友人たちにも別れの時が近づきます。
キツネが言いました。「あぁ、きっと俺泣いちゃうよ」。王子さま、「それは君のせいだろ。君は僕に仲良しにしてもらいたがったんじゃないか、友だちになろうって君が言ったんじゃない」「そりゃそうだ」とキツネが言いました。「でも、君はやっぱり泣いちゃうのかい」「そりゃそうだ」とキツネが言いました。
「じゃあ、何にもいいことなかったじゃない」。つまり、友だちになったのはムダで無意味だったんじゃないかって、王子さまは言うわけです。「いや、そんなことはない、いいことはあるよ」キツネは答えるんですね。「麦畑の色があるからね」、だからムダじゃなかったと。
これは、ちょっと説明が必要です。実はこの場面のもっと前、王子さまと友だちになろうとするキツネがこう言っていたんです。君と別れても、君がいなくなったとしても、僕には麦畑が残ると。
つまり、小麦を食べないキツネにとって、何の意味もなかった、無用で無価値だった小麦畑を見るたびに、金髪の王子さまを思い出す。小麦畑を渡る風を聞くのが好きになるって言うんですね。キツネは哲学者であるだけじゃなく、詩人なんですね。
そして別れのまぎわに、キツネはこう付け加えるんです。
「さぁ、これから大切な秘密を君に教えてあげよう。君が、君のバラの花をとても大切に思ってるのはね、そのバラの花のために、時間をムダにしたからだよ」
ここにはどんな教えがあるでしょう。こういうことだと思うんです。「時間をムダにする」とは、効率性、生産性、合理性、合目的性とかいう、いろんな要請の中で僕らは生きてるんだけど、そういう要請から自由に、自分自身の時間を生きることなんだと。そして、愛とは、それが何の役に立つとか、何の得になるとかにかかわらず、相手のために惜しげなく時間を使うこと。つまり、「時間をムダにすること」だと。
さっき「麦畑の色」が出てきましたね。キツネにとって何の意味もなかった麦畑が、色をもつようになる。つまり、この世界の風景が変わったんです。無意味な景色が意味をもつようになる。それが、どうせ別れ別れになる相手とムダに友だちになって遊ぶ。そういう一見ムダな時間の過ごし方によって世界は意味ある場所、生きがいのある場所になるというわけです。
時間をムダにするんだから、愛というものはスローで時間がかかる。だから、時々面倒くさいこともある。でも、だからこそ、愛は愛なんじゃないでしょうか。
僕はよく講演の最後に言うんですよ。「それでもわからない大人は、こう自問してみるといい。あなたは効率的に愛されたいですか?」
もう1つ、僕にとっても多くの人にとっても、とても大切な本、『モモ』という物語があります。主人公のモモという少女は、別になんか特別な能力があるわけではないんですね。正モモは、ただただ耳を傾けることができる子なんです。傾聴することができるんですね。
「モモは犬にも猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や、木々にざわめく風にまで、耳をかたむけました。するとどんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。」(ミヒャエル・エンデ『モモ』)
大事なのは、どうやら、単によく聞くことができる技術的な能力や才能ではなく、とにかく聞くことに時間をかけることなんじゃないか。そして、相手に惜しげもなく、自分の時間をシェアすることなんじゃないか。
今、生きてるこの時間から自分を切り離すことはできないでしょう。ある意味では、人生は、今のこの時間そのものです。その自分が生きている時間を、他者に与えることはできないんです。自分の時間だからって、「じゃあ、ちょっと僕の時間を切り取って、君にギフトとしてあげるよ」とはいかないわけだ。
でも、できることはある。共に時間を過ごすことはできるんです。時間をシェアすることはできるんです。
どうやら、スローライフとは、大切なモノやコトやヒトと時間を共に過ごすことのようですね。また、「スローライフとは共に時間をムダにすること」という言い方もできるんじゃないかな。
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