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塩沼亮潤大阿闍梨から学ぶ「逆境に負けない、レジリエンスを高める生き方」(全3記事)

歴代の成功者はたった2人だけ、最難関の修行を達成した住職 塩沼亮潤大阿闍梨から学ぶ、不安や「とらわれ」との向き合い方

グロービス経営大学院が主催した「あすか会議2022」。本記事では、1,300年の歴史で成功者はたった2人、死と隣り合せと言われる「大峯千日回峰行」を達成した塩沼亮潤大阿闍梨から、逆境に負けないレジリエンスを高める生き方を学びます。聞き手は、 銀行員や経営コンサルタントを経て本願寺の代表役員執行長に就任した、安永雄彦氏が務めます。命がけの修行を成し遂げた塩沼亮潤大阿闍梨が、心の「とらわれ」から解放されるための考え方について語りました。

逆境に負けないための、レジリエンス力の高め方

安永雄彦氏(以下、安永):みなさま、おはようございます。朝早くからプログラムにご参加いただきまして、ありがとうございます。

今日は塩沼亮潤大阿闍梨から、「逆境に負けないレジリエンスを高める生き方」をいろんな切り口から学んでいきたいと思います。

「レジリエンス」という言葉は、かなり人口に膾炙(かいしゃ:広く知れ渡ること)するようになってきましたが、なかなか日本語に訳しにくいですよね。「復元力」とか「ストレスへの耐性」とか、まさに逆境に負けない力みたいな言い方をしますけれども。

私たちが生きていく上でのいろんな障害、不安、人間関係、事業。下りゆく環境悪化の中で、どんなかたちで、どんなことを考えて、平常心を保って進めていくのか。自分の人生を生きていくのか。

そんなことを、このセッションを通じてみなさんに1つでも持って帰っていただけたらと思います。

自己紹介をしないのがこのセッションの建前ですので、さっそく塩沼亮潤さんに千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の説明をしていただきます。みなさん、千日回峰行を知っている人はいますか? 

(会場挙手)

安永:多いですね。

塩沼亮潤氏(以下、塩沼):多いですね。知らない方もいらっしゃるんですよね?

安永:そういう修行があること自体、知らない人もけっこういます。

1,000日間かけて山道を歩く、命がけの修行

安永:簡単に、塩沼さんがやられた千日回峰行に触れていただいて、そこからどんなことを学ばれたのかを最初におうかがいしたいと思います。

塩沼:日本の仏教の長い歴史の中で、千日回峰行という行が日本にありました。日本だと、比叡山延暦寺と奈良県の吉野山金峯山寺という2ヶ所のお寺さんにあります。

修験道の発祥の地である奈良県吉野山金峯山寺というお寺で、1日48キロメートルの山道を1,000日間にわたって歩き通す修行があります。1,000日と言いましても、年間で4ヶ月しか歩けないので、9年かかるんですね。

毎年5月3日から9月3日まで、48キロメートル。出発時間が午前0時半、山頂到着が8時30分。その山小屋のお寺さんの宿坊でご飯をいただいて、また帰ってくると、夕方の15時30分になってしまいます。

となると15時30分ですから、そこから掃除・洗濯・お風呂に入って、ご飯を食べて、次の日の用意をすると、睡眠時間が4時間半ほどしかとれません。出発する0時半前の23時30分に起床して……という、同じようなルーティーンの中で修行をします。

ただ、48キロメートルの山道は距離も相当大変ですが、出発地点が標高二百数十メートルのところで、そこから標高1,719メートルの険しい山道を辿って下りてくる。1日16時間山を歩かないといけない。この時点で、労働基準法に違反しています。

(会場笑)

塩沼:今だったら山頂に行って、「あ、今日はこれで終わりですので。ここからは明日歩いてください」みたいな修行になるだろうと思います。本当に法令を遵守しない、非常にだめな修行を今までわからずにやってきました。

戒めのため、修行中は「短刀」を持参

塩沼:これは今の常識では考えられないんですが、だいたい30センチメートル(一尺)ぐらいの短刀を持って、万が一途中で断念をしないといけない場合は、それで腹を切って行を終えなければいけないという厳しい掟があります。

これは「自殺しなさい」という強制ではないんですね。たった1日でも行って帰ってくることが大変で、これを1,000日間続けるのは大変です。「命をかけるぐらい厳しい気持ちでないと、この修行に入ってはいけませんよ」という戒めのための短刀でもあります。

なのでもう時効ですが、労働基準法に違反し、また銃刀法違反をしながらそういう修行をしてしまった、ちょっと変わったお坊さんです。よろしくお願いします。

(会場拍手)

安永:すばらしいですよね。一般の人たちは、修行の世界というと「何かの道を究めると、その先に何かが見えるのではないか」と、なんとなく憧れるじゃないですか。塩沼さんは修行をして、始める前と始めた後では何がどう変わりましたか?

塩沼:象徴的に変わったところは、笑顔が多くなりました。

厳しい修行は、あくまでも笑顔で過ごすための手段

安永:それほど厳しい修行をされて笑顔が増えるというのは、どういうことですか?

塩沼:お坊さんになったとはいえ、私を含めて他の修行僧も全国各地から来ます。もちろんみなさん我が強いし、気持ちも安定していない。ですから人間関係が生まれると「なんでだろうな?」「どうしてだろうな?」と、思いどおりにならないことがあります。

みなさんもそうですよね。何か引っかかった感じというか、すっとしないというか。そうすると、笑顔もなかなか少ないですよね。お坊さんとはいえ悟った人のグループではないので、悟る以前の社会とぜんぜん変わらない。そういうところで修行が始まります。

でも、悟った人ばかりというか、優しくて思いやりがあって、嫌なことを言わない、意地悪しない人たちばっかりだったら、ぜんぜん修行にならないんです。

みなさんが修行をイメージすると、滝に打たれたり座禅をしたり、何か厳しいことをする。ただそれだけのように思うんですが、それはあくまでも、いつも笑って、穏やかな気持ちで安定している心になるためのアプローチの仕方の1つです。

座禅をしたり山を歩いたりするのは、究極のルーティーンの中で自分自身を見つめ直すために行うんです。

この究極のルーティンとは、2,500年前に釈尊(釈迦の尊称)が同じように、毎日精一杯同じことをルーティーン化することにより、毎日新しい気づきがあったわけです。「精一杯」というのがキーワードで、だらけていたらダメです。

ある時を境に、心の「とらわれ」から解放された

塩沼:この小さな気づきが、小さな悟りです。修行の中で「あ、こういうことか」と繰り返す中で、ある大きなとらわれ(引っかかっているもの)から、「あぁ、胸がすっきりした。こういうことだったんか!」と、パンと解放される実体験があると思うんです。それが一種の悟りの体験ですよね。

引っかかっているものからパンと解き放たれることを「解脱」と言いますが、解脱とはとらわれから解き放たれること。

これが悟りの状態であり、お坊さんはある一定の期間修行をして、みなさんの人生の先生にならないといけないから、負荷をかけてルーティーンをしてがんばるんですよね。

これができるようになって、みなさんに「こういうことだよ」と説くのがお坊さんの役目なので、お坊さんはなんぼ厳しい修行をしても、何をしてもそんなに偉くないんです。

私もある日突然、ぱっと解き放たれた時があって。そこからのビフォアアフター、修行する前と後の変化としては笑顔が多くなりました。

安永:なるほど。笑顔が増えたんですね。

塩沼:昔は作り笑顔で。

安永:作り笑顔で(笑)。

塩沼:嫌でも笑っていました。今は本当に、心から笑う。

「とらわれ」から解放されるための考え方

安永:やっぱり、とらわれから離れることはなかなかできないじゃないですか。でも、塩沼さんは千日回峰行という大変な修行を毎日毎日されながらも、非常にシンプルに、とらわれからの解放、そして「笑顔が増えました」と言い切れるのはすごいと思います。なんでそんなふうに言い切れるんですか?

塩沼:自分ができるようになったから言い切れるのであって、自分ができなければ私の言葉に力が宿らないんですよ。だから徹底的にしつこくやってやって、やり抜いて。でも、だめでした。なかなかできないですね。

安永:なかなかできなかった。

塩沼:できないですね。これが簡単にできたら「お坊さんは何をやっているんだ」って言われてしまう(笑)。

安永:何やってんだって(笑)。

塩沼:人間とは「人としての間」と書くじゃないですか。人としての間に、とらわれから解き放たれるために、人としての業をいただいてこの世に生まれてくると思うんですよ。

ただ、お坊さんは早めにそこをクリアしないといけないんです。まぁ、そこをやってもだめでしたね。人間ですから、ふとしたことでイラッとしたりムッとしたり。その瞬間の心のバロメーターでいうと、針が振れてイラッとしますよね。

「自分自身が悪い」とはなかなか思わないですから、「どうして」「なんで」と、針がだんだんと他人に向いてきますよね。それが恨みや憎しみになっていくんですが、どうしてもこっち(イラッとする)側にとらわれる。とらわれるから、「どう感謝に持っていこうか」という思考に持っていくことは、特に若いとなかなかできない。この戦いですよね。

実はこれが今日のテーマである「どうやって自分のマインドを高めていくか」というポイントだと思うんです。これをやらないで、お坊さんの修行をしてただ山を歩いていたり、自分を厳しい環境において体を痛めつけてもぜんぜん意味がないんですよね。

他責せず、ネガティブな気持ちにとことん向き合う

安永:なるほどね。自分の心のあり方に常に目がいっていると言いますか、第三者的な目線がある。「あぁ、俺マイナスに傾いているなぁ。いかんいかん」みたいな感じですか?

塩沼:そうですね、自分でよくわかりますので。ただ人間ですから、人の感情とか外的環境の影響を受けますよね。

経典に書いてあることはとてもシンプルです。仏教を一言で言うと、人生をよりよく生きていくためにある教えであり、生きている人がより豊かに人のことを思いやって、慈しみの心を持って生きていくのが究極の目標。頭ではわかっていますよね。

頭ではわかっているけれども、実際に嫌なことがあるとイラッとしたりムッとしたりする、そういう若いドロドロとした自分がいた。ただ、自分が「そこから脱却したい」という強い思いがありました。

1日の修行が終わると、1人でお堂に行きました。国宝なのでお堂の中には入れませんから、「なんでどうして」という悶々とした気持ちと、どうやったら自分が変わっていくかを外で考えていました。相手のせいにしたくないけど、どうしても顔がチラつく。

涙と鼻水とドロドロとしたものを流しながら、「自分自身が悪いんだろうな」と懺悔しながら、なるべく相手のせいにしない。そういう、若い頃の壮絶な葛藤がありましたね。

安永:「修行」と一口でさらっと言うけれども、自分のネガティブな気持ちとの本当の戦いですね。

塩沼:そうですね。

“遠くにある目標”のために、目の前の“崖”を乗り越える

塩沼:でも千日回峰行だと、1,000回山へ行って帰ってくると「達成者」という、誰が見てもわかる称号を与えられるじゃないですか。大切なのはその中身ですよね。中身がないのに1,000日やっているのとは、まったく異なる。

私たちの人生も、今ある悶々とした環境の中で、仕事や勉強とか人生を通してなるべく感謝に変えて、相手を恨まず淡々と生きていけるようになりたいなというイメージをまず持つことですよね。

安永:イメージをね。

塩沼:やっぱり、イメージを持つことから自分が変わっていきますね。

安永:塩沼さんはどんなイメージを持っていたんですか? 例えば色にしてみれば、青い空のイメージで平常心でいるのかとか、海のイメージなのかとかね。

塩沼:だんだんメルヘンチックな……。

安永:メルヘンチック(笑)。

塩沼:ちょうちょが飛んで?(笑)。

安永:ちょうちょが飛んでるのか、ハスの花なのかとかね。

塩沼:まずは、100人いたら100人みんなに平等に、自分が一番親しい親友と話すようにコミュニケーションを取りたいというイメージを持ちつつ、こっちの(離れた高い)ほうには「努力したらもしかしたら叶うのではないか」という、できるかできないかわからないぐらいの人生の夢を持っていましたね。

だから、こっち(高いほう)に向かっていくためには、今いる崖を登らなければ行けないよねという、わくわくした楽しい気持ちだった。

安永:自分の中で人生の高みを目指す。今はそのための修行みたいなステップですかね。

塩沼:そうですね。そういうイメージをしていましたね。

安永:なるほどね。

「人生の崖の登り方」を知る

塩沼:ついこの前、絵を描いても何をしても「塩沼さんは何でも上手にやりますよね」と言われて。その時にぱっと出た答えが「うん。人生の崖の登り方を知ってるからね」。

安永:なるほど。

塩沼:はじめから上手にはできないんですよ。崖にぶち当たった時に「ここを登ったらおもしろいな」と思うんですよね。

崖ですからなかなか登れないんだけれども、「ここがだめだったら、こういうルートがあるよね」「ここがだめなら、ここならどうかな」と、下手でもやっているうちに、ぱんっと登れることがあるんですよね。

たいがいの人は、わかってはいても崖だから自分はリスクを背負いたくない。「難しい」「面倒くさい」となってしまうんですが、私は崖を見ると登りたくなるんです。これが私の悪い癖ですね。

安永:いやいや。行を終えて平常心を獲得し、誰にでも感謝ができるお坊さまになられているんだけど、僕に言わせると「すごく野心家だな」と思います。

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