年を取れば、いずれ人は認知症になる

高木俊介氏:みなさんはきっと30代ぐらいだから、30年後の話かもしれませんけど、必ず認知症になります。今、50歳、60歳ぐらいの方、私と同じぐらいの方は「私は認知症にならないために脳トレしてるわよ」と言うでしょう。脳みそは筋肉ちゃいますから、トレーニングしてもダメ。歳を取れば認知症になります。

いろいろな薬が出ているけど、あんなもんは全部効きません。高いだけ。製薬会社が儲かるだけで、効かないのに副作用も多い。なのに、みんな飲まされちゃう。今は、薬を飲んでかえって悪くなって、精神病院に行ったりしている人が多いですね。

脳トレをしたってムダ。認知症を防ぐには、認知症になる前に死ぬだけです。予防法はただそれだけ。でもやはり、みんな「長生きしたい」って言うから、認知症になっても暮らせる世の中を作らなきゃダメなんです。そうしない限り、今、認知症は精神科病院が狙っているんですね。

今言ったように、精神科病院はどんどん患者数が減ってきている。20年、30年、40年入院している人が、病院の中で亡くなっています。今は精神科病院のベッド数が32万床で、日本にある全病院のベッドが160万床。だから、実は5つに1つが精神病のベッドなんですね。そこが空いているので、認知症の人で埋めようとしているんです。

「認知症になったら家族は大変でしょう。地域も大変でしょう。だから、認知症になったら精神科病院が預かりますよ」と、堂々と言っています。みなさんにも、こういうしっぺ返しが来るんです。

心の病気を持つ人にとって、日本は非常に暮らしづらい

このまま放っておいたら、精神科病院は私たち自身の問題になる。「こういう課題をなんとかしなきゃいけない」ということが、わかっていただけると思います。でも、「じゃあ、そのまま地域を出ればいいでしょう」「退院すればいいでしょう」と言っても、地域には支えるものがないんです。

精神科の病気は、歳を取るとともに穏やかになる方が多いんですが、ずっと精神科病院の施設の中にいると生活ができなくなってきます。地域に生活を支える仕組みがないと、退院しても暮らせません。

また、家族も「何か困ったことがあって、地域でちょっとした騒ぎになっても困るよな」と考えてしまう。世界で唯一日本だけ、今もコロナがこれだけ騒ぎになっているように、日本人はすごくトラブルを嫌います。「身の回りに迷惑がかからないように」しか考えない。

だから日本という国は、精神科の病気、心の病気を持っている人にとっては、ちょっと混乱した時でも非常に暮らしにくいところなんです。「ああいう奴らは精神科病院に入れとけ」と、未だに言われています。そうならないための支えが必要なんですね。それが次の課題として見えてきます。

施設とは「施設の都合に合わせた生活」をさせるところ

身体障害の人は、「自分たちの人生が施設でどれだけムダにされるか」ということを知り、施設を壊してきました。

知的障害の人は、親が気づいた時の年齢が若くて、社会的な運動ができた。そして作業所や地域にある施設を作って、自分たちの息子を迎え入れてきました。そうしてだんだん、知的障害者も地域で暮らせるようになってきたんですね。

でも、精神障害の人だけは施設から抜けられず、そこで暮らさないといけない。こういう知的障害者、身体障害者がたくさんいるというのが、今の日本の普通なんです。

「施設で暮らす」と言っていますが、この「施設」とはどういうものか。これをなくさない限り、障害を持っていて社会にうまく適応できない人の人権も保証されなければ、人生自体も保証されない。施設というのは、施設の都合に合わせた生活をその人にさせるところなんです。

最近、神奈川でやまゆり園の事件がありましたよね。植松(聖)さんという人が、「お前たちは社会や国の負担になっているだけだ。だからお前たちを殺すのが正しいんだ」と言って、十何人の障害者を殺してしまう事件がありました。これは大変な事件です。

「そんな人がいるなんて信じられない」と思うでしょう。植松という人は、もともと施設で働いていたんです。最初は「かわいそうな人たち。自分が助けてあげないといけない人たちのために仕事がしたい」という気持ちだったようです。それで、施設でがんばろうとした。

でも、最初に植松さんがショックを受けたのは、先輩たちから「お前のそんな気持ちなんてすぐなくなるよ」と言われたことでした。

施設で働いてわかった、自分自身の「変化」

そして今、そういった施設には重症な人が集められているんですね。それを少ない職員で対応するから、その人(本人)が大変なのか、そういう施設に重症な人を閉じ込めておくからお世話が大変になっちゃうのか、そんなこともだんだんわからなくなってきてしまうんです。

そんな状況で悩む中、植松さんは施設の仕事を辞めてしまいます。辞めた後も悩み続けた。そして「障害者がいることがあかんのだ」という結論に達しちゃうんですね。

実際に植松さんの人生を聞いたり、いろんな記録を読んでみたりすると、「私たちであっても、施設というところで働けばどこかで変わってしまうものだ」ということがわかると思います。

私は精神科病院で10年、大学病院でも10年働きました。これらは病院ですが、そういうところで働いていると、施設に入居している人たち、そこで働く人たち、それから私たち自身がどんどん変わってくるのを実感するんですね。

今考えると、私もかなり施設では暴力的なことをやっていました。私は看護師の暴力をたくさん見てきたんですね。そして、暴力がやむなしという場面には、看護師に暴力を働かせないために、医者自身、私自身が先頭に立ったんです。

だから、いつの間にか自分が暴力的になっているんです。それは後から気づくんだけど、その時は自分では「良いことをしている」と思っているんですね。人間はそういうふうに変わっていきます。

日本にはない医療制度を実現するためのチャレンジ

大きな障害を抱えた人をたくさん集めた施設で働くと、必ず変わる。そして、それに気づけなくなります。いろんなところから感謝されるので、本当に「良いことをやっている」と思ってしまうんです。

なので、地域でちゃんと障害者を支える施設を作って、こういう施設は少しでもなくしていく必要がある。そうしない限り、施設内でも「障害者は施設でしか暮らせない」という人たちがどんどん増えてきて、地域でも「施設があるんだから入れればいいじゃないか」という世界が変わらないんです。

それで私は2004年に、ご紹介にもあった「ACT」というものを始めます。ACTというのは何かというと、職種のチームで生活の現場に出向いて往診をすること。「アウトリーチ」というやつですね。生活の現場に出向いて、危機の状態、クライシスも含めて、24時間365日その利用者を支える制度です。

そんな制度は日本にはありません。「できるわけないだろう」とか、いろんなところで言われました。ちょうどその頃、2000年に介護保険ができて「一般医療の中で、これからは在宅医療が大事だ」と言われ始めていたんですね。それで、訪問看護ステーションがどんどんできた。

病院では、医者の働きによって看護師もみんな食べていく仕組みですが、訪問看護ステーションでは、看護師の人たちが自分たちで働けば、その分は自分たちの収入になるという道があったんですね。

僕は「こういう制度をうまく組み合わせたら、精神医療にも使えるだろう」と思いました。いろいろなところに行っても「そんなもんできるわけないだろう」と言われてしまうんだけど、呼びかけることを続けていました。

ACTを始めて約2年、ようやく安定の兆しが見えてきた

また、「精神科病院の中で良い看護をしたいけど、自分はもう病院の中でそういうことをするのは疲れた」と言う看護師がいました。最初にそう言いに来たある看護師は、一生懸命患者さんを退院させていたんですね。

自分が夜勤のない日に、患者さんをこっそり病棟から連れ出して、食事会をしたりしていました。そうするうちに患者さんが生き生きしてきて、「1人暮らしもいいな」と言い出す。こうやって退院させてきたんですね。

最初のうち、病院は「うちの病院は良いことをやっているな。お前、がんばれよ」と言っていました。それで、その看護師さんは一生懸命がんばって、1年で5人を退院させたところ、「お前ええ加減にしとけよ。これ以上退院されたら経営が困るんや」と言われて、もう嫌になっちゃったんだと。

そういう人たちが集まってくれて、最初はなかなか給料が出なかったんだけど、始めることができたんですね。始めてみたら、「これからは在宅医療の世の中だ」というのが、どんどん老人のほうで行われるようになってきた。在宅支援が中心の、つまり往診や訪問を中心にしている診療所には、ずいぶん加算がつくようになったんです。

始めてからの2年間は本当に苦しくて、私はその時期小遣い稼ぎにFXを覚えちゃって、その後のリーマンショックの時にとんでもない大損をしちゃうんですけどね。経済は厳しいです(笑)。それでも(ACTを始めて)2年後ぐらいから、制度としてお金も十分に下りるようになってきたんです。

「サービスが先。お金は後からついてくる」

精神科では重症な人は、それこそ保護室・隔離室にずっと入れられていて、家族が「このままじゃかわいそうだ」と言って退院させる。でも、家では大暴れしちゃう。病院にも連れていけないし、「どうしたらいいんだ」という方がけっこういるんですね。地域で暮らそうと思っても、相談の場所すらないわけですよ。

そういう方々の支援をするうちに、支援のやり方も整ってきました。それに、最初に集まってくれたメンバーがものすごく熱心でした。その時に私が作った標語は「サービスが先。お金は後からついてくる」です。

「入院してしまったら、訪問の私らにはお金は入ってこないけど、入院させずに支えたら、その分後からお金はちゃんと出てくるよ」と。実はこれは、クロネコヤマトのパクリなんですけどね(笑)。

そういうことでやっていたら、患者さんが急性期の時、つまり興奮状態になったり混乱してなかなか平常心でいられない時は、みんな泊まり込みで支援をしてくれるようになったんですね。

泊まり込みの費用も計算したら、やはり赤字なわけですよ。みんなから「大丈夫ですか?」って聞かれるんですけど、大丈夫と。「入院させたら3ヶ月はお金が入らないけど、あと3ヶ月もすれば赤字を埋められる分ぐらいはちゃんとできるよ」と。

このようにビジネスとしての計算もしながら、今までできなかった支援ができるようになったんですね。これは本当にうれしかったです。NHKも2006年か2008年ぐらいに、BSで1時間の番組にしてくれました。

閉じこもっていた重症の患者を変えたのは「仕事」

重症で保護室でじっとしていた人が、家で暮らしているうちに笑顔が戻ってきたり、家族でランニングしている映像があったりしてうれしかったです。それに「やっぱりこういうことができるんだ」ということで、日本中の同じような志を持った人たちが集まってきてくれました。

ACTはもともとアメリカの仕組みですが、それが日本でもできることになった。今は全国で20ぐらいのチームが同じようにやってくれています。みんなそれぞれ苦労はしていますけど、やっていますね。

そして、「ACT全国ネットワーク」という交流会を作りました。さらに今は「一般社団法人コミュニティ・メンタルヘルス・アウトリーチ協会」というものもあります。興味のある方はホームページを見てみてください。

そうやっているうちに、こんなことが出てきます。例えば、本当に重症で閉じこもっていてご飯も食べられなかった人が、ちょっと良くなる。その時に、普通だったらできないけど、支援者と一緒だったらドライブに出られるようになる。

一緒にドライブしているうちに、「じゃあ、一緒に行った先のアパートにポスティングしようか」ということになって、僕らはポスティングに付き添って、お金が出る。もし患者さん本人がほとんどポスティングができなくて、実際にはこちらがやったとしても、バイト代は本人に渡すんですね。それは「自分で初めて稼いだお金」なんです。

そして、それまでは家族のトラブルが絶えなかったお母さんに(稼いだお金で)プレゼントしてあげたりと、そういうことができるようになっちゃった。仕事というのはすごいなと思います。