部下からの信頼に自信を持っていた過去

司会者:続いての講義は、株式会社KAKEAI 代表取締役社長 兼 CEOの本田英貴さんです。順風満帆な会社員時代、部下から届いたある匿名のメッセージ。企業人としての大きな挫折を経て、日本の上司部下コミュニケーション問題の本質に挑みます。

本田英貴氏(以下、本田):みなさんこんにちは。株式会社KAKEAIの本田と申します。成田悠輔さんの(セッションの)後で「誰だ?」という感じもあるかもしれませんが。さっそくですが、今日ご視聴のみなさんの中には、リーダー、例えば上司、先輩というお立場で仕事をされている方も多いと思います。

みなさんは後輩や部下から信頼されるリーダー、先輩、上司であると自信を持って言えますか? そんな私は、自信を持って胸を張って「イエス」と答えていた時代があります。その当時、メンバー、部下から匿名でもらったコメントがこれです。「あなたには、誰もついていきたくないって知ってます?」。こんな言葉をもらったわけです。

今回は勘違い上司だった私のライフストーリーをご紹介しながら、上司と部下の関係を変える株式会社KAKEAIの生い立ち、それから現在についてご紹介していきたいと思います。今、リーダー、先輩、上司として活躍をされているみなさんや、これからそうなっていく若手のみなさんのヒントになれば幸いです。

実家のコンビニ経営が傾き、父親が蒸発

本田:私は熊本県で育ちました。これは当時の実家の前の、今の写真です。めちゃくちゃ田舎ですが、何不自由ない小学生生活でした。

実家は農業と酒屋をやっていましたが、私が中学生の頃、その酒屋をコンビニに変えることになりました。当時父親は東京でサラリーマン生活をしていましたが、家を継ぐために帰ってきて、力を試すいい機会だったんだと思います。町で初めてのコンビニになりました。ぴかぴかの店内は本当に誇らしかった。そういうことを覚えています。

ただ、私が高校生の頃、経営が傾き始めます。近くにコンビニが2つできたんですね。競合店ができたことが原因です。店の支払いが滞り始めて、店に商品が入ってこなくなってきました。当然人も寄りつかなくなります。

父親は朝から酒を飲み、両親はけんかが絶えなくなってきました。借金取りらしい人が家に来ている。大人の聞きたくない、そういう話が耳に入ってきます。私は部屋で耳を塞いでいましたが、それでも「親父が近所からお金を借りているらしい」とか、「保証人になってもらっているらしい」という話が聞こえてきます。思春期の私にとってはとても苦しくて、重くて、それから怖い、そういう期間でした。

そんな高校生のある時、父親が蒸発します。それから父親には今まで一度も会っていません。当時私と兄弟、それから母親は逃げるように母親の実家に引っ越しました。引っ越したとはいえ、悲惨な状況は続きます。

心を支えた恩師の言葉

本田:そんな時に支えてくれたのが高校の先生でした。そういう状況を知ってか知らずか、先生はよく声を掛けてくれました。「大丈夫! 本田のように一生懸命やれるなら、なんとかなるけん」。そういう言葉に救われました。常に心が折れる寸前の私をつないでくれた。「将来は私も教師になりたい」。そう思うようになっていきました。

確かに一生懸命やる力だけは培われていたようです。私はボロボロの家庭のことを忘れるように、「人との競争に勝つ」とスポーツに自分を安心させる場を見いだしていました。中学生の頃に陸上の県大会で優勝したことをきっかけに、スポーツ推薦で高校に進めたんですね。

ただ、高校はめちゃくちゃ荒れていました。廊下を原付が走ったりとか、授業中に先生に向けて生徒がいすを投げる。ちょっと考えられないと思いますが、そういう高校です。私も勉強はまったくしていません。1時間目から6時間目まで寝ていたのを覚えています。

なので、「先生になりたい」と思っても大学受験ができるような状態ではありません。そこで、経済的にものすごくきつい状況の中で、母親に「お金はできるだけ迷惑を掛けないようにするから」と。1年間だけ、行くにしても国立だけ、落ちたらすぐに働き始めるということで1浪させてもらうことを決めました。

とにかく人との競争に勝つことで安心する。これはすごくエネルギーにもなりました。結局受験はほぼ満点で大学に合格できて、大学では授業料が免除になるような成績を維持することもできて。

とはいえそれでもお金がなかったので、白ご飯に卵を割ってニラをちぎって食べる。そんな生活をしながら、非常に強豪校でしたが、インカレで活躍できるような機会もいただけました。「やる時には徹底的にやり切る」。こういう自信ができていった時でもあります。

就職活動時の悩み

本田:大学を卒業する手前、就職活動の時期になると周りが活動し始めるわけです。「私は果たしてこのまま教員でいいのかな?」。そんなことを思い始めます。その時に「なんで自分は教員になりたかったんだろう」と考えた時に、当時の自分に関わってくれた先生の言葉や行動だと。「自分は人の人生に関わっていく。支えていく。そういう仕事がしたいんだ」と気づきます。

「それであれば、教員じゃなくとも一般の企業にもあるかもしれない」。そう思って就職活動をし始めます。例えばメーカーの説明会に行ってみる。例えば商社の説明会に行ってみる。ただ、人の人生を支えていくということに対しては、当時の自分にはどうしても距離があるように思えたわけです。

そんな中で出会ったのがリクルートという会社でした。リクルートという会社は、例えば就職や進学、あるいは結婚や家を買うタイミング。そういうライフステージで、「こっちがいいかもしれない。あっちがいいかもしれない」という選択肢を情報として提供することで人の人生を支えて、変えていくきっかけを作る。そういう会社でした。ここだったら自分が「人の人生を支える」ことができそうだ。

そう思って、他の会社は1つも受けずに1社だけ就職活動を進めていって内定をしたわけです。「人生を懸けてやっていけそうだ」。そう申し上げました。ただ、今振り返れば正しくは「『人の人生を支える』ということにやりがいを感じながら、『人との競争』を拠り所にして思い切ってやっていける」。そう感じたんだと思います。

順調な出世につながった、人との競争意識

本田:入社後、最初の配属は福岡でした。2年目に広島に異動になります。広島での仕事は『タウンワーク』という求人情報誌の営業です。飲食店を中心に、朝から晩まで数十件飛び込みながらアルバイトの求人広告を頂戴する仕事です。肉体的にも精神的にもかなりハードです。

ただ、自分がこの会社を選んだ時の気持ちのままで、自分のこの仕事の先には、例えばその求人情報を見て子どもに何か買ってあげる。そういう人生が変わるようなきっかけがあるかもしれない。そういう母親がいるかもしれない。アルバイトをすることで学校に行き続けられる人がいるかもしれない。そういうことを思いながら、その仕事に熱中できました。

さらに人との競争ですね。これによってとにかく成果が出続けます。入社4年目で営業から商品企画に移り、東京に異動になります。初めての東京での勤務です。

「自分がやってきたことが認められたんだな。これはすごくいいサラリーマン生活のスタートになっているぞ」という20代中盤ですね。ここから一気に20代後半に向けて調子に乗っていきます。写真はちょうど20代後半。なぜかロン毛です(笑)。仕事にとても熱中します。

30歳の時にグループ全体の新規事業を生み出す部門に異動になります。「ザ・本社」という感じですね。リクルートは新規事業を創発するのがすごく得意な会社で、花形の部門です。

31歳の時には、大手広告代理店とリクルートのジョイントベンチャーが当時あり、ここの経営企画室の室長という仕事を任されます。ここからが私の上司という仕事の始まりでもありました。

そして33歳の時にリクルートホールディングスの人事部門に異動になります。「ザ・本社」のど真ん中。本当にそういう感じです。誰が見ても順風満帆、自分でもめちゃくちゃ調子に乗っています。大好きな会社。どんどん大きな仕事をここでしていきたい。

「とにかく自分の考え方とか生き方、やり方が正しいんだ。だからこそ認められてきたんだ。仕事でもらう評価が自分という人間の価値だ」。仕事をすればするほどそんな思いが膨らみ続けます。どんどん自分が大きくなっていく高揚感。責任が増していくということ。これによってさらにエネルギーが増していく。とにかく上をめがけて仕事をしました。

「360度評価」で部下から匿名で届いた言葉

本田:そんなある時、「360度評価」というものが実施されます。上司や部下からコメントをもらうんですね。繰り返しますが、当時私がいたのは人事です。しかも、人事の中でも私が担当していたのは「現場のミドルマネジメント力の強化・改善」だったり、それから「メンバーの成長支援を推進する」という仕事です。

自分の部下に対する関わり方なんて自信満々です。何よりチームの雰囲気もとてもいいです。「メンバーを支援しながら組織をリードしている」。そういう強い手応えを感じながら仕事をしていました。

そんな中での「360度評価」の実施ですから、「とにかく早く実施してほしい。自分にはものすごくいい点数が付くぞ。きっとメンバーからもらうコメントには、『本田さん、本当にいつもありがとうございます。本田さんのおかげでものすごく人生が活き活きしてます』。そういう感謝の言葉が来るに違いない。だから早く実施してほしい。そしたらまた出世するから」と。こんなことを思っていたわけです。

結果を楽しみにしていた私が、メンバーから匿名で届けられたコメントがこれです。「あなたには、誰もついていきたくないって、知ってます??」。

見た瞬間、本当に周りの音が聞こえなくなりました。目まいがしてぐらっと視界がゆがむ。「自分宛てのコメントじゃない。絶対間違って来たんだ」。何度も何度も確認します。

「重度のうつ」の診断を受けて休職

本田:私が本当の気づきにたどり着くのはここから数ヶ月も後で、とにかく最初は焦ります。「上司もこの結果を見ている。なんて言われるんだろう? なんて言い訳しよう? とにかく挽回しなきゃ。しかし怖い。どうやって部下に関わればいいかわからない。ただ、とにかく自分が正しいと思ってやってきたことがぜんぜん違ったんだということだけは確かだ。そうは言っても組織としてする仕事が減るわけじゃない。メンバーにどう思われるか怖い。仕事を依頼できない」。

こうして私は自分で仕事を背負い込むようになっていきました。深夜まで働き続けます。とにかく混乱しています。マネージャーとしての役割なんて微塵も果たせていません。数ヶ月過ぎて完全に行き詰まりました。思考がとにかく鈍くなります。時折刺すような頭痛にも襲われるようになりました。極限まで疲れているにもかかわらず、夜も眠れなくなります。

行くのが怖かったんですが、病院に行きました。そうしたら「重度のうつです」という診断を受けます。新卒で入社した会社です。人との競争に勝って安心することだけで自分を支えてきた自分にとって、この出来事はショックです。結局休職をしなくてはいけなくなりました。

すべてが終わってしまった。虚しさ。大きな不安。会社で誰かが笑いながら「本田は終わったね」と言う声が聞こえてくる。「いやいや、特別だったんだ。自分の仕事が難しかったんだ。そもそも組織として大変な仕事を背負わされていたんだ。自分は悪くないんだ」。そんなことを思いながら、朝から酒を飲んでごまかします。今思えば子どもの頃、自分が見て嫌だった父親の姿と同じです。

医師からのアドバイスを振り切るように、1日でも早く復職しようとします。しかしいざリアルに職場に行った時のことを考えると、自分が休職をする前のことと思考のパターンも考え方も怖さも何もかも一切変わっていない。そういう自分に気づかされます。「これではまた休職することになってしまう。繰り返したら本当に終わる。もっと地獄に落ちていく」。鬱々とした日々が続きます。

同じ部署への復職を可能にした、怖じ気や恥を上回った感情

本田:休職の後半1ヶ月ぐらいです。少しずつ自分と向き合えるようになってきました。誰が書いたかわからないこの言葉。「いったいこれは何なんだ? いや、コミュニケーションはしっかり取っていたし、アドバイスをしたらみんな役に立っているような顔をしていた」。

とにかく自分の経験や見てきた職場、自分が先輩からされた良かったこと。こういうものをフルに活かしながら、神経を研ぎ澄まして良かれと思って真剣にやっていた。それは確かなんです。

ここでようやく思考が回り始めます。「メンバーにとって良かれと思って?」。

「いったい誰にとってなんだろう? 本当にメンバーか? いや、自分か? いや、それぞれのメンバーのことを考えはしていた。ただ、少なくとも自分は自分が見た世界を都合良く解釈していた。メンバーのことを思ってはいたけど、自分が経験してきたことを土台にして、自分の知る範囲の引き出し・知識で部下に関わっていたに過ぎない。相手のためになどなっていなかった」。

「結局は独りよがりの勘違い上司。何かの縁で自分の部下という立場になったメンバー一人ひとりの人生を、自分は無自覚にこの手で傷つけていたんだ。人の人生を支えたいと思って会社に入って、ぜんぜん逆、まったく逆。メンバーには申し訳ない。恥ずかしい。このまま消えてしまいたい」。こういう恥ずかしさが溢れてきます。

しかし、そういう恥ずかしさをかき消すに足る「申し訳ない」という気持ち。そして、あらためて「ここなんだ。ここで現実に向き合うんだ」。そう決めて、まったく同じ部署に復職をさせてもらうことにしました。