変化の激しい現代で「従来の方法」はまったく通用しないのか

音部大輔氏(以下、音部):八塩先生、ご紹介ありがとうございます。みなさん、こんにちは。先ほどは日本マーケティング本大賞をいただきまして、あらためましてありがとうございます。

さて、今回は小林哲先生から「ニューノーマル時代を切り拓くマーケター」について話題提供をせよ、というお題をいただきました。小林先生ありがとうございます。そこで「現在に転生した葛飾北斎は、時代遅れの役立たずか、希代のアーティストか」というテーマでお話ししたいと思います。

最近、コンサルテーションとか、ビジネスに関連する報告とか、あるいはベテランの論説などに、こんなことをよく見聞きします。「社会環境や購買行動の変化が激しいので、今まで積み重ねてきた経験はもはや役に立たない」とか。「デジタル化が進み、従来のマーケティングフレームは、もはやまったく時代遅れになってしまった」とか。

Z世代の消費者はもちろん、(その次の)α世代はもっと、今までの消費者とはまったく異なるので、従来の方法はもう通用しない。だから最前線で仕事をするなら、今までの経験値を捨てねばならない。こうした議論を聞いたり、読まれたりされたことがあるかもしれません。

さらにこれを、相応の経験を持たれた方がおっしゃったりして、それに対して同様に経験を持たれてる方々が同調される、なんていう機会も目にされるかもしれません。たぶん、一理はあるかもと思います。問題意識の捉え方とか、あるいは課題設定は正しいかもしれません。

孫武が現代に転生してきたら、腕利きコンサルタントになれるのか

とはいえ、全部時代遅れというのは、間違いなくちょっと乱暴です。課題は相応に正しく捉えられていたとしても、その解決法がいささか短絡的であると思われます。せっかく積み重ねた経験値を全部捨てたところで、若返るものでもありません。

そこで、ちょっと思考実験として、極端な時代遅れを考えてみました。例えば『孫子の兵法』を書いた孫武です。

もし、孫武がタイムスリップをして現代に転生してきたら、彼は兵法を経営に使って、高名なコンサルタントになるか。もちろん、こんなのはとってもファンタジーな思考実験なので、正解かどうか測る手段はございませんが、一応聞いてみます。

もし孫武がタイムスリップしてきたら、腕利きのコンサルタントになるのではなかろうかと思われる方、どうぞ挙手してください。

(会場挙手)

けっこう多いですね。8割方。ありがとうございます。いや、それはないだろうと思われる方は、手を挙げてください。......ありがとうございます。2割ぐらいですね。

続きます。ちょっと毛色を変えて、彼は那須与一といいます。『平家物語』は中学か高校の古文で出てきましたね。沖の小船の上に掲げられた的を、ひゃうと鏑矢をよっぴいて当てた男です。

では那須与一は、得意な大弓をライフルに持ち替え、一流の狙撃手になるか。いけるだろうと思われる方、どのぐらいいらっしゃいますか。......さっきよりだいぶ減りました。2割ぐらいですね。

無理だろうという方。……ありがとうございます。8割ぐらいが無理だろうと思われてます。

「経験値」の2つの捉え方

ちょっと業種を変えます。葛飾北斎。彼は版画をCGに変え、希代のアーティストになり得るか。なりそうな人。......8割ぐらいですね。無理だろうという人。......これは2割ぐらいです。ありがとうございます。

これは何の実験をしていたかというと、質問の意図は、それぞれ歴史的に高名な方々の「経験値」はどういうことだったのかを、この場にいらっしゃる皆さんがどう捉えてるかを聞いてみました。

「特定の道具に精通していると理解する」か、あるいは「道具を超えた本質を習得している」と考えるか。

孫子については中国春秋時代の軍事思想なので、もうだいぶ古いですね。当時の軍事思想の専門家であるのか、それとも戦略の基礎を構築した人なのか。那須与一は平安時代の大弓の名手なのか、それとも遠くに物を当てるという狙撃の心得を獲得した人なのか。

北斎については、江戸時代の版画家で、もはや我々は日常的に版画を見るなんていう習慣は完全に途絶えていますけれど、そうではなくて、視覚表現の技法を習得しているので、なんならプロジェクションマッピングぐらいまではいけるんじゃないか、という可能性もなくはないです。

どっちが正解とかいうわけではないんですけれども、前者が時代に応じて変化し、後者は普遍的に機能する技能を習得している。今日の皆さんの傾向は、どっちかっていうと、「那須与一は弓に立脚していて、銃は無理じゃないか」という感じではありました。

「一次体験」「二次体験」から学ぶ内容の違い

私、実は大学時代に射撃部に所属していました。大の仲良しに弓道部がいて、もう1人アーチェリー部も仲良かった。遠くから物を当てるのを好きな人たちが集まってたんです。意外にも、そのコツなどを話していると、まあまあ似てたりするんですね。同じかというともちろん違うんですけれど、似ているかっていたら、まあ似ているところがある。

具体的な技術か、あるいは普遍的な本質か。両方とも経験値なんですけども、「経験から学んでいる内容」がちょっと違うのかもしれません。

経験値について、少しお話ししたいと思います。自分の直接的な経験を「一次体験」と言います。誰か他の人の経験、すなわち成功事例とか失敗事例から学ぶことは「二次体験」です。両方とも経験値になるのですが、その整理にも役立つかもしれません。

成功事例は成功譚としてエンターテインメント性が高かったりするので、もちろん読んで楽しいんですけど、あれをたくさん読んでも、はたして本当にビジネスが上手になるかマーケティングが上手になるか。

事例を大量に読んだからマーケティング上手になった人は、私は見たことがありません。それはプロ野球の中継をめちゃめちゃたくさん見たから野球上手になったという人があまりいないのと似ているのかもしれないです。

じゃあ、成功事例はどうでもいいのかといったら、どうでも良いわけではなくて。多くの野球選手は、昨日の試合の結果とか、有名な試合の結果を子細に知っていることでしょう。ではその事例を読んで何を学ぶかというのが、さきほどの「那須与一は何者だ、葛飾北斎は何者か」という論にも通じるのではないかなと思うんです。

成功事例から考える「仕組み」と「働きかけ方」の違い

ホームランを打ちましたよという成功事例があった時に、そのホームランがどう打たれたかという経緯を知るところで事例研究が終わることがある。これはいささか残念です。

加えて、その「仕組み」を理解する。例えばホームランを打ちましたよということであれば、なぜ球が飛んでいくんだ。どのぐらいの速度で、どの角度でどう当たると、どう飛ぶのか。こういうことは、物理の諸法則に支配されている道理なので、私が振ったバットであれ、大谷選手が振ったバットであれ、球の飛び方は一緒です。

対して、バットのどこらへんを握って、どの角度でどうやって振るんですよ、なんていうのは「働きかけ方」、すなわちとっても個別的で人によります。私が大谷選手と同じ振り方をしても、同じことができるわけもありません。せいぜい筋肉を痛める結果に終わるのは、持っているものが違うからです。

「仕組み」か「働きかけ方」か。往々にして事例のように人目につく経験というのは、目立つところ、すなわち「働きかけ方」に特化しがちです。なんとなくモノマネをしたくなったりすることがあるかもしれません。座席に立って、左手で右の袖をちょいちょいと引っ張っても、イチローみたいに打てるわけではないんですよね。

でも、他のブランドが成功した時、「TikTokで売れたらしいぜ」「じゃあ俺たちもTikTokやろうぜ」なんていう、事例のダイレクトで表層的な適用が頻発していることもあるかもしれません。

先ほどの「特定の道具に精通するか」あるいは「道具を超えた本質を修得するか」で分けると、もうすでにおわかりのように、前者が「働きかけ方」ですね。球が飛んでいく道理ではなく、どうやってバットを振るか。これはマーケティングでいうと、どういうSNSを使いますかとか、どういうタイミングで配信しますかといった、具体的な活動論です。

それに対して後者は「仕組み」の部分ですが、それは消費者のパーセプションの変化の仕方や、流通が取り扱いブランドを扱うときのアルゴリズムといったものが相当するのではないかなと思います。

捨てていい経験値と、捨ててはいけない経験値

もう1つ。では変化の時代に、マーケターは何に着目すべきか。捨てていい経験値と捨てちゃだめな経験値は、これで占えるのではないかなと思います。

経験値を残しておけるんだったら全部残しておけばいいと思いますが、もし入れ替えたいんだとしたら、それはきっと「特定の道具に立脚した部分の経験値」を優先的にアップデートされるのが有益だろうと思います。

ただ同時に、「道具を超えた本質の部分の経験値」をせっかく持っていながら、古いやつは全部悪だから全部捨てちゃえなんていうことになると、もったいない。せっかく溜めた汎用性の高い経験値を全部捨ててしまっては、特にベテランは徒手空拳で若者たちと対峙することになって、それこそ本格的な役立たずになってしまいます。

この後半部分、「道具を超えた本質の部分の経験値」をうまく利用することが、貢献を維持するのに重要であろうと考えます。

トップマーケターが考える、マーケティング教育の課題

もう1つ、マーケターの話つまり人材をテーマに、ということだったので、マーケティング教育の課題について言及しておきたいかなと思います。

また質問です。来年みなさんの職場で、学校でもいいですし、会社でもいいですが、チーム対抗アイスホッケー大会をやることにしました。各自準備しておいてください。アイスホッケーをされていたことのある方は? いらっしゃらないですよね。

(会場、1人挙手)

おわーっ、いた! 大概はいらっしゃらないんですけど、いらっしゃいましたね。すいません。この方以外はアイスホッケーはあまりやったことがないし、なんなら試合を見たこともないかもしれません。せいぜいオリンピックのニュースで、ちらっと映像を見るぐらいかも。

でありながら、来年アイスホッケー大会をやるという時に、どんな準備をしてこなきゃいけないかというのは、なんとなくわかります。きっとスケートの練習をしなきゃいけないし、当たりが強そうなので筋肉があったほうがいいかもしれないし、チーム戦だからチームワークが取れるような練習をしてといたほうがいいかもしれないし。やったことがないのに、なんとなくわかるんですよね。

では、さらに続いて質問です。来年異動して、ブランドマネージャーをやります。アカデミアの方は、1回ぐらいビジネスをやってみるかということで、参画企業がブランドマネージャーポジションを用意してくれました。来年までに準備しておいてください。どんな準備をすればいいでしょうか。

さっきは、アイスホッケーなんてやったこともないのに、なんとなく準備がわかったんですが、我々はみんなマーケティングをやっているのに、「来年ブランドマネージャーやるから準備しといてね」って言われて「はて、何の準備をしたらいいんだろう」と。

「業界研究?」っていう人もいますけど、業界研究なんて別にブランドマネージャーに限らず、みんなやらなきゃいけません。ブランドマネージャー固有のものではないかもしれないですね。ブランドマネジメントのプロフェッションって何? あるいは必要不可欠なスキルって何? こんなことも、意外にわからなかったりします。

日本における「マーケティング」の定義

これはなぜかというと、アイスホッケーよりも、マーケティングやブランディングが「何をしているのか」が、ちょっとわかりにくいからですよね。領域が広いということもあります。

そこで、じゃあマーケティングは定義はないのかと。こんな概念的な、しかも複雑怪奇なものを、定義もなしでなんとなくでやっていたら、わかりにくくなっちゃうと思うんです。

定義はあります。いろいろ探してみましたけど、この定義が良さそうです。「マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら公正な競争を通じて行う、市場創造のための総合的活動である」。

これはどこの定義かというと、日本マーケティング協会が唱道しているやつで、まあまあ風雪を経てるんですけれど、私の記憶が確かだったら数年前のマーケティング学会のWebサイトには、これが掲げられてたような印象があります。勘違いかもしれませんけど。

ちっちゃい字で書いてあるところは、いろいろな理由で正確性を担保するために付与されているのであろうと想像がつきますが、骨子を抜くとたぶんこんな感じだと思います。「マーケティングとは、市場創造の総合的活動である」。総合的活動というのは、広告作るだけとか、新商品開発するだけじゃないですよっていうことでしょうね。

アメリカの「マーケティング」の定義との比較

マーケティングの定義といえば、マーケティングはそもそも英語で、アメリカから出てきてるものなのだ。とするならば、アメリカマーケティング協会の定義というのも立派なものであるはずです。

私の翻訳がおかしいかもしれないんですけど、これが見つけてきたやつです。「マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである」。

とっても立派に見えます。もちろん立派ですし、ケチをつけるつもりなんかさらさらないんですが、ちょっと試してみましょう。

2行目の左から3つ目に「依頼人」とあります。先ほど私が壇上に上がった時に、小林先生にお礼を申し上げました。なぜなら「依頼人」なので、(私からのお礼など)大した価値はありゃしませんが、一応ちょっとだけ価値をこめてお礼を伝達したんですね。

この(アメリカマーケティング協会の)定義にのっとれば、先ほど私が小林先生に、「小林先生、ありがとうございます」と申し上げたのはマーケティング活動なんです。この定義もダメじゃないですよ、もちろん。だけど、あれもマーケティング活動になってしまう。

言い方を変えると、この定義に適合しない社会生活があまり見当たらないんです。「マーケティングも社会生活だろう」って言われれば、もちろん間違いなく社会生活の1つなんですけど、マーケティングを定義するのに社会生活を定義するような文言では、ちょっと広すぎるかもしれないですね。

間違いではないです。これは猫を定義するのに哺乳類の定義を使っている感じです。猫が哺乳類である以上間違いではないんだけれども、猫をよりよく理解するのには、最適ではないかもしれないです。

対して、日本がなにがしか唱道しているこの定義は、実にマーケティングが機能として、部門として、あるいは活動としてやらなきゃいけないことをうまく抽出しているのではないかなと思います。

マーケティングは「市場創造」である

なんとなく日本がちょっと残念な印象になってきていることもあるかもしれませんけれども、マーケティングとは、基本的には市場創造である、という定義を掲げているのは、素晴らしいことだと思います。

先ほど(この講演の前に説明されていた)「日本マーケティング学会が目指すべき3つのミッション」という話の3つめに、「国内外でのマーケティングの地位の向上」がありました。これこそが、停滞した環境下で、我々がこれから望んでいることではないかなとも思います。

こうした定義をもって、日本の先達がしてきたことを振り返ってみると、確かに「市場創造」がなされていると思います。自動車を初めて作ったのは日本人ではないかもしれませんが、一定期間、「いい自動車」の定義を唱道し、市場の主導的な地位を取ったのは、たぶん日本の会社であっただろうし。

さかのぼれば、1969年に初めてクォーツ時計が世に生まれた時に、「いい時計」の定義を変えたのも、日本のイノベーションだったように思います。

「これからどう市場創造していくのか」考え、マーケティングという概念をさらに発展させていく上で、実にうまく的を射た定義を、我々はいただいているのだろうと思います。以上、話題提供でした。ご清聴いただき、ありがとうございました。

『The Art of Marketing マーケティングの技法:パーセプションフロー・モデル全解説』