お金を「どう使うか」という教育は、まだまだ足りていない

藤野英人氏(以下、藤野):(お金の使い道について)「貯蓄から投資へ」と言った時に、今までずっと政府サイドや金融サイドは「投資の良さ」や「お金を増やすこと」の意味を言っていたんだけれども、実はキャッシュを適切な配分で消費や投資に回すためには、ウェルビーイングとかメンタルへのアプローチがめちゃくちゃ大事だと思っていて。そうじゃないと、投資が促進されない。

だから、「投資をすることによってお金を増やしますよ」とか言ったって、そもそも日本人はけっこうお金をたくさん持っているので。お金はもちろん大事なんだけれども、いったいそのお金を未来のためにどう使って、どう幸せになっていくのかにフォーカスしていかないと、お金の問題は難しいなと思うんですが、石川さんはどう思っていますか?

石川善樹氏(以下、石川):最近は「ファイナンシャル・ウェルビーイング」と言われるようにもなってきているんですけれども。お金というか、もっと広く捉えると金融資産ですよね。金融資産をどう形成するのかっていうのが、最近は学校教育でも始まっています。

藤野:始まりましたね。

石川:それをどう使ったらいいのかっていう教育は……。

藤野:そう。そういう教育はない。

石川:実はないんですよ。時間の使い方とかお金の使い方は、ぜんぜん教育がなくて。

藤野:足りてないですよね。

石川:足りてないんですよね。恐らく学校教育だけじゃなくて、身近な大人から学ぶ機会も少ないんじゃないかなと思うんですよね。

藤野:確かに。

石川:例えば、昔アメリカには(ジョン・)ロックフェラーという石油王がいて。実は彼が「お金はどう使うのか」というのを最初に範を示した人なんですね。それがロックフェラー財団というものです。

ものすごい資産を手にした人っていうのは、自分が手にしたんじゃなくて、たまたま集まっちゃったんだと。これをどう社会に還元するのかという責任があるので、それを財団法人を作って運営した。ロックフェラーがやったのは、まさにウェルビーイングですね。

ビル・ゲイツも30代前半に巨額の資産を手にして、周りから「それをどう使うんだ!」ってすごく責められたんですよ。真っ先に相談に行ったのが、ロックフェラー家なんですね。

藤野:そうなんですね。

石川:実はロックフェラー家は、金融資産を手にした人の良き相談者としてずっと振る舞ってきているんですね。

日本の「チャリティー文化」は、昭和後期から薄れている?

石川:実は日本も、よくよく歴史をひもとくとそういう事例はいっぱいあるんですよ。

藤野:いっぱいありますよね。

石川:「どう使ってきたのか」というのはいっぱいあるんです。ただ、みんな都会に住むようになっちゃった。都会だと「お金がないと回らない」という強迫観念がどうしても出てくるので、そうするとどんどん貯める思考になっていっているんだろうなと思いますね。

藤野:ロックフェラー財団と、それからビル・ゲイツの関係は知らなかったんですけど、確かに今はビル・ゲイツの財団もありますね。

石川:ビル&メリンダ・ゲイツ財団。

藤野:今、世界最大規模のチャリティーの1つになっていますよね。日本って、昔はチャリティーの文化がすごくあったわけですね。江戸時代であったり、明治、大正、昭和初期くらいまではすごくあった。でも昭和になってから、特に昭和の後期、平成から非常に減ったんじゃないかなと思うんです。

逆に最近思うのが、30代、40代の若い起業家や経営者が、少し昔の起業家のマインドに回帰しつつあるなと思っているところもあって。それは何なんだろうな、と。

若い世代に根付いている「ウェルビーイング志向」

藤野:ちょうど自分たちの世代より上ぐらいの20年間ぐらいだと、(お金を持っていても)ほぼ寄付しない金持ちみたいな人たちがいて。

でも、僕の下ぐらいの世代から、日本であったり、世界の標準のところに戻りつつある。学校を作ったり、地域のために巨額なお金を投資して貢献するとか、具体的な例が見え始めてきたのはけっこうおもしろいなと思うのと同時に、比較的若い世代にウェルビーイング志向が根付いてきているんじゃないかなと思うんですよね。

だからこれは、日本がすごく良いようにこれからも変わっていくチャンスじゃないかと個人的には思っているんですが、そこらへんはどんな意識がありますか?

石川:「どうしてそんなに寛大にお金を使えるのか」「なんでそんなに寄付できるのか」という問いの答えは明確で、それは「自分とは何か」という「自分」の定義が広いんですよ。ここにいる自分を自分だと思ってないんですよね。もっと広いんですよ。

藤野:そうですね。

石川:だから寄付できるっていうのもあるんです。ちょっと歴史をひもとくと、来年大河が始まりますが、徳川家康はやっぱりすごかったというか、変な人だったというか。

日本各地のお祭りの多くは「300年前」から始まっている

石川:僕が一番変だなと思うのは、信長、秀吉、家康との合戦で、鉄砲で勝ったんですよ。そのままいくと、「じゃあ鉄砲をもっと作ろう」ってなるはずなんですよね。でも、天下を取ったあとに「鉄砲はやめ」と言って、刀に戻したっていう(笑)。

藤野:逆イノベーション。

石川:なんかもう、そういう謎すぎることをやったりとか。あと、もともと戦国時代は武士が共同体を仕切っていたんですが、仕切っていた武士たちをみんな江戸とかに引き揚げさせたんですね。だから、全国各地の地域が農民・漁民だけになったんですよ。

じゃあ、どうやって私たちでこの地域を回していくのか? ということで、みんな知恵を絞ったのが1600年代なんです。だから、ちょうど300年ぐらい前に全国各地でいろんなお祭りが始まっているんですよ。お金の使い先の1つとして、お祭りというのがあって。

藤野:なるほど。

石川:富山で言うと、風と盆の。

藤野:おわら。

石川:おわらの祭りっていうのがあるんですが、あれも300年前に始まったり。東北だと青森のねぶた祭りも300年前に始まっていて、お祭りの歴史を見ると、300年ぐらい前に始まっているものがけっこう多いんですよね。

明治政府が徹底したのは「共同体の破壊」

石川:武士がいなくなって、自分たちでどうやって生き延びていくのかという時に、時間とお金の使い方の1つとして祭りをする。ただ、これが都会に来ると、共同体がないから「自分」の範囲がすごく狭くなっちゃうんです。

藤野:確かに。

石川:今は歴史の話をしていますけど、少なくとも徳川幕府の時代は全国にいろんな豊かなコミュニティができたんです。ただ、明治政府は何をしたかと言うと、共同体の崩壊をしたんですよね。

藤野:集約化させましたね。

石川:そうなんです。そして教育のツールとして使ったのが「歌」ですね。小学校の歌は、基本的に「ふるさとを捨てようぜ」っていう歌ばっかりなんですよ。

藤野:そうですね。

石川:ふるさとを捨てて、都会に来て、立身出世しようと。故郷には錦を飾るためにたまに帰るんだと。ふるさとは遠くにありて……。

藤野:思うものだ。

石川:思うものだっていう(笑)。例えば、昔は「富山の人なんだ」「加賀藩の人なんだ」「長州藩の人なんだ」というふうに思っていたんですよ。でも、明治になって欧米列強に伍していくためには、それじゃ困るんですよね。「日本人だ」という自覚を持ってほしかったんです。

そのためには共同体を崩壊させることが実は極めて重要で、崩壊させて「みなさんは個人です。日本人なんです」という個人主義をすごく徹底したのが明治政府です。

藤野:徹底しましたね。だから、ある種明治政府に天才がいたんですよね。

石川:そう。だから、そのへんの歴史を見ているとめちゃくちゃおもしろいんです。

藤野:おもしろいですね。

日本人は極めて「個人主義度」が高い

石川:この流れを変えようとしたのが、竹下登さんなんですね。

藤野:ふるさと創生。

石川:1億円を全国の市町村にばらまいた、ふるさと創生ですね。このふるさと創生をベースにして、今は地方創生が行われています。個人回帰、個人を作るというところから、もう1回「私」を広げて共同体として生きていこうじゃないかという、揺り戻しがまた来ているのかなとは思いますね。

藤野:釈迦に説法だと思うんですが、日本人って世界でも個人主義度が極端すぎるんですよね。例えば、「知らない人がこっちに来て、その人のことを信じられるか」というアンケートをとると、世界の中で日本が最低で、「知らない人は敵である」という考え方が強くて。「知らない人は友だちだ」と思ったのは、だいたい20パーセントぐらいです。

中南米とかだと、「知らない人は友だちだ」というのは80パーセントぐらいいて、ぜんぜん日本と違う。日本はお金の勘定も個人アカウント主義で、最近は家族という単位も崩壊してしまった。

なので本当におっしゃる通りだと思うんですが、社会と自分がつながっていたら、1万円を社会に寄付したとしても、社会とつながっているから(広義だと)お金は自分で保持しているんですよね。

石川:社会も自分だと。

藤野:社会も自分。

株の投資に対する、日本と諸外国の感覚の違い

藤野:禅の用語で「一如」という言葉があって、要は「自分もあなたも一緒だ。だから、人の痛みも自分の痛みも一緒だ」という考え方なんだけど、それを英語に直すと「oneness」。この「oneness」の概念は、けっこうシリコンバレーとかでも学びにきています。

自己の拡張、個人主義の拡張で、自分は無限に広がってみんな同じような仲間であると。だから、ある寄付団体にお金を1万円入れても、財布がつながっているから、別に自分の懐は痛んでいないと。

株の投資もこの面があるんですが、「100万円トヨタの株を買います」といった時に、多くの人の考える投資像は、100万円の自分の虎の子が株式市場に合戦に行ったという感じなんですよ。100万円が自分のところからいなくなってしまって、100万円が戦場に向かったというイメージなんです。

石川:なるほど(笑)。

藤野:戦場で戦うわけですから、100万円が80万円に傷ついたら戻したくなるわけですよ。「戻ってきなさい」と戻すんですが、100万円が120万円になっても「増えたらからこれ以上減らないように戻ってきなさい」って言うんです。

他の国はどう思っているかと言うと、株式という資産が手元にあると思っているんです。だから喪失感がないんですよ。株式というものに肉体性があるから、株式を手元に保有しているので、別に心に穴は空いてない。

だけど日本人は株式の肉体性がないために、100万円とか200万円がいなくなって、心に穴が空いている状態になる。だからすごく現金主義で、お金が心の穴を埋めるし、お金がなくなると心の穴ができちゃうところがある。

「お金が戦場に行っている」という感覚を持つ人は多い

藤野:だから、共同体の関係をどうするかと同時に、お金と自分の関係であったり、投資であったり、所有することの意味を深く考えないと実は投資って広がらないんだけど、この話を日銀さんや東証とかに言うと、ぽかんとしているわけですよ。

というのは、彼らもそう思っているから。大蔵省、金融庁の人とかも、株式投資は100万円とか200万円のお金が戦場に行っている、みたいな概念を持っているので。

だから投資教育は、「まずは自己責任の原則と分散投資のところから教えましょう」と言うんです。FPの教科書とかも、そこから書いてあるんですよ。でも、本当は働くことの意味とか、共同体の意味とか、投資で回すことの意味とか、株券を保有することを教えないと。

分散投資とか自己責任は、株式を二次流通させて転々とする時にどういうふうにリスク管理をするかの原則なので、リスク管理の話はするんだけれども、そもそも論の本質とは何かっていうところを今の教育では教えない。

さらに、「じゃあ幸せとは何だろう」とか、仕事と幸せを教えることは、たぶんほとんどない。これはどうしたものかな、というのがあって。今回、ウェルビーイングをテーマにして石川さんをお呼びしたのも、そういう日本の在り方をどういう切り口でどうやって変えるといいのかな、という思いがすごく強かったんですね。

「自分探し」をする若者と、「関係性探し」をする若者

石川:ウェルビーイングって、「何が価値なのか」というところとすごく結びついてるんですね。これも本当に人それぞれでいいんですが、少なくとも明治以来、「ふるさとを捨てて、みんな個人として生きよう」「個人として都会という合戦場に出てきて、金と地位を手に入れようぜ」というのが価値とされてきたんですよね。

じゃあ、どうやって金と地位を手に入れるのかってことなんですが、多くの場合は「やりたいこと探し」になるんですよ。できたら好きなこと、やりたいことを見つけて、ついでにそれでお金も地位も手に入ればいいというのが、個人主義の典型的な考え方なんですね。

ただ、もともとはどうだったのかというと、コトありきじゃなかったんですよ。やりたいこと・好きなことありきじゃなくて、関係性ありきだったので、関係を結ぶことが一番の価値だったんです。

田舎では関係を結ぶと、自然と役割が発生するんですよ。その役割は、自分が好きなのか、やりたいのか・やりたくないのかはどうでもよくて。役割ですから、あとはそれを果たすだけなんですね。関係を結ぶことに価値があるとするのか、個人としてお金や地位を手に入れて、ついでにやりたいこと・好きなことをするのかは、ぜんぜん違う価値観です。

最近若い人と話してると、ここが分かれている気がするんですよ。「やりたいことが見つからないんです」「好きなことがわからないんです」と自分探しをしてる若者か、「どういう人たちと関係を結びたいのかがわからない」という関係性探しをしている若者か、けっこう極端に分かれ始めてるなっていうのが、僕の感覚ですね。