住職が悩む「仏教の本質」と「ビジネス」の両立

川野泰周氏(以下、川野):我々住職も、いろいろと現実的な課題を抱えています。宗教者の立場というのは、本来コンパッションを地でいけるはずのものです。ところが、日本は檀家制度が確立してきましたから、住職には「お寺を護持する」「お寺を中心とした組織を守る」という、もう一つの役割が課されている面があるんです。

そうなると、本来純然たる宗教者であるはずの住職ですら、お寺の経営を考えないといけない。「お寺の運営で食べていくにはどうしたらいいか」と、どうしてもビジネスの視点が出てきます。「いくら仏教を学んでも、実際の自分は仏教の本質を体現できていない」と悩む和尚さんもおられるんです。

確かに多くの住職は、そうしたビジネス的視点を持つのは、これからの時代では当たり前だと思っておられるはずです。でも中には、仏教の崇高な精神性を尊ぶご住職もいて、そういった葛藤をされています。

「檀家さんから墓地の清掃費を集めなきゃ」「お布施もきちんといただかなきゃ」「管理している駐車場の料金はちゃんと振り込まれているかな」と、お金のことに気を配るので精一杯になってしまい、「仏教の本質である慈悲が十分に実践できていない」と悩んでしまうのです。

駒野宏人氏(以下、駒野):そうなんですか。

川野:その中で、今の若杉さんの話にはすごく説得力があると思いました。結局、慈悲をベースにしてやっていくと、必ず結果はついてくるんですね。

マインドフルネスにおいて、「瞑想」と「コンパッション」は非常に密接に関わっています。いわば、鍵と扉の関係だと思うんですね。瞑想をやっていても、「瞑想に集中しよう」「瞑想をうまくやろう」と思うとうまくいかないんですよね。

でも、あるがままの呼吸を観察していると、呼吸瞑想がどんどんできるようになっていきます。そして、結果として脳に良い影響が出てくることがわかっているんです。「追いかけると逃げていくのに、追いかけないと手に入る」という。非常に禅問答的ですよね(笑)。

駒野:なるほどね。それは次の話で深めたいと思います。

安心安全な土壌ができれば、人は自動的に遊び始める

駒野:組織に関して僕が思ったことは、相手との競争の中では、人の気持ちがわかってしまうコンパッションは邪魔者になるんですね。

今、社会が変わってきています。みんなと相互作用を起こして、新しいものを創造していく時代に入っていて、キーワードは「安心安全」です。だから、「相手の気持ちを無視して戦え」じゃなくて、受け入れてあげることによって安心安全の土壌ができる。そうすると、人は自動的に遊び始めるんですよね。

その中で、創造的、プロダクティブになっていく。僕自身の中では、そう思っています。言っていることは(みなさんと)同じですよね。それで、結果的に儲かるということですよね。

もう1つ「教育」の話をしたいと思いますが、教育に関しても慈悲の心があるとダメですよね。「この点を取らないと次の学年に進級できない」という時に、慈悲の心を持って甘い点数にしてしまったら、他の先生に叱られるわけです。

ある基準点より上の人は進級し、それより下の人は落第するということを明確にしないといけない。こういう判断にも葛藤が生じると思いますが、どう思いますか? 先ほどのビジネスの話でも「大きく見れば儲けにつながる」という話がありましたが、「判断する」「成績をつける」ということにおいて、教育にもそういうところがありますよね。

若杉忠弘氏(以下、若杉):ありますね。

駒野:だけど、私は「そんなことよりも、本質的な大切なことを指導してあげたい」って思ってしまいますが(笑)。

若杉:現実問題、そういうことがありますよね。

「慈悲深く行うリストラ」とは?

若杉:僕はこう考えています。例えばアメリカのIT企業だと、リストラは意思決定としてしなきゃいけない。その時に、「慈悲深く」リストラを行う方法もあるんじゃないかと。要は、仮に痛みを伴う意思決定をするとしても、単に冷徹な意思決定を行うのか、コンパッショネイトなやり方で行うのかで、大きな差が出てくると思うんですよね。

成績に関しても、例えば「D」をつけなきゃいけないとします。もちろん、制度を変えられたらいいのですが、今はできないと。でも、「D」や「F」の成績をつけないといけない時にコンパッショネイトなやり方を用いるんです。

例えば、フィードバックを丁寧にやる。成長を願ってあげる。それをするとしないのでは差が出てくるので、それが、コンパッションを持つ教育者としての役割なんじゃないかなと思います。

駒野:すばらしい。僕もそうだと思います。これは脳科学というか、心理学的にも、「行動する時に何が紐づいているか、どんな感情や思いがひもづいているか」なんですよね。同じ行動でも、苦しみ、悲しみ、あるいは喜びが紐づいている場合もある。慈悲の心が紐づいた時は、そのアウトカムは変わってきますよね。

若杉:そうですよね。

駒野:たとえ「D」をつけたとしても、そこに教育者の「成長を願う気持ち」や「思いやり」が入れば、その後のフォローの仕方も変わってきますよね。それは大事なポイントです。

成績をつける時にしっかり判断するのですが、本当に悩むんですよ。「これでこの人は1年間棒に振るんだな」とか。今は学費も安くないので、それを1年間払う親の大変さとかね。そう考えた時に、「この点数をつけていいのか」と思ってしまいますが、仕方ないんですよね。1点差でも落第するわけですよ。

でも、そこに慈悲の心を持って、そういうアクションを取る。慈悲の心が紐づいた場合、必ず行動が変わってくる。これはとっても良い考えだと思いますね。

禅の修行で方を叩く時、実は「叩く側もとってもつらい」

若杉:また、本当の慈悲の心を持つと、「単に優しくすることだけが慈悲ではない」ということにも気づきますよね。「この人の場合、厳しくフィードバックしたほうがいい」ということもある。

外から見ているだけだと、まったくもって慈悲深くないんだけど、本質的には慈悲深い行為もありますよね。明確に「いや、それはダメだ」と言い切ることもそうだと思います。今、なかなかそうは言えないじゃないですか。それを適切な信頼関係の中で、「ダメだ」というフィードバックをする。これもある種、慈悲の表現かなと思いますね。

川野:まさにそれは禅の修行なんですね。若杉さんがおっしゃったことを、何百年も実践し続けてきたのが禅の道場(僧堂)です。最近それすらも「パワハラだ」なんて言われる時代になってきましたが。

(一同笑)

川野:しかしながら、あれはやっぱり教外別伝の世界ですから。お師匠さんは弟子へと、鉄槌をもって継承していくわけです。実際には警策(坐禅を行う時に、修行者の肩や背中を打つ棒)でバシバシ叩くわけです。あれ、実は叩く側もとってもつらいんですね。誰だっていつも生活を共にしている後輩を痛めつけるようなことはしたくない。

だから悲しい気持ちで叩いているんですが、お互いに正しい道を進んでいく修行の過程においては、後輩の心から離れない妄想を払ってあげないといけない。修行道場においては、何か適切でないことや規律違反をした人は打ち据えるのがルールなんです。

でも、そこにあるのは、やはり愛情なんです。それは「慈悲の伝達である」と、禅の世界では考えられています。中には心根のゆがんだ人もいて、恨みを込めて、より痛みを与えようと警策を縦にして叩く人がいますが、それはどう考えても良くないことです。縦にしたらチョップが入るわけですから、ものすごく痛い。

つまり単に痛みを与えることが目的になっているのですから、そんなことは修行でもなんでもない、ただの暴力です。私はそのようなことは一度もしませんでしたが。

相手の立場に立った上で、ある程度「言うべきことを言う」ということも思いやりですよね。でも、今若杉先生がおっしゃったことを実現するためには、共感力が必要かもしれません。共感なきところには、多様性への理解も生まれないからです。そこをどうしていくか、ということだと思います。

相手も自分も疲れてしまう「同情疲労」とは

駒野:そうなんですよね。では、これからその話題に入っていきましょう。「慈悲心を育てる」というところですね。「共感力」の前に、「慈悲の心の落とし穴」も併せてお話ししていきましょう。川野先生はいかがですか?

川野:心理学に「共感疲労」という言葉がありますが、正確には「同情疲労」のほうが的を射ているという指摘もあります。というのも、カウンセリングの分野では、「正しい共感ができていれば、そう簡単には疲労しない」という前提があるからなんです。

つまり、相手の立場になって理解することはできているけど、自分の感情までもが完全に相手と同化しているわけではないんです。あくまで相手の感情を客観的に観察できているので、冷静さを保ちつつ、その方にとって最良の傾聴や助言を行うことができるんです。

感情的に、その方の悲しみや怒りの中に没入してしまうと、逆にその方のネガティブな感情をエスカレートさせてしまうんですね。自分も相手も、一緒になって感情をさらに高揚させてしまって、助けにならないという現象が生まれます。こうした関わり方を心理学的には「同情的な関わり」と表現したりします。

それだけではなく、傾聴しているこちら側も疲れてしまって、共感疲労が起きてしまう。場合によっては、「援助者のバーンアウト」という現象につながっていきます。どうしたら共感疲労、正確には「同情疲労」をしないよう、本当の共感ができるのか。これは非常にキーポイントになってくると思います。

「自分の慈悲行為に酔う」ことは危険

駒野:僕もここがポイントだと思います。若杉先生がおっしゃっている「落とし穴」とは、どういうことを言うのでしょうか?

若杉:1つは、まさにおっしゃるとおり共感疲労、同情疲労ですよね。もう1つは、「自分の慈悲行為に酔う」ということです。

駒野:慈悲行為に酔う(笑)。

若杉:「なんか俺、良いことやってるよな」みたいな。(誰しも)あると思うんですよね。「今日慈悲が良いと習った。よし! 明日寄付しよう」とか、「慈善活動をしている自分は、なんて良い人なんだ」と思うと、その次に悪いことをするものなんですよね。

駒野:そうなんですか?

若杉:良いことをした後は悪いことをするんですよ。僕らは心の中で、“良いことクレジット”という銀行預金みたいなものを持っているんです。例えば、運動をした後、ジムに行った後、「甘いものを食べてもいいかな」って思いませんか?

駒野:まあ、一般的にはそうですよね。それはやっぱり修行が足りない人の行動なんですよね(笑)。

若杉:そう、一般的なんです。これが実際に、企業・組織でも起きてくる行為なんですね。例えば、ある年に企業がCSR活動をたくさんやると、翌年スキャンダルや不正にまみれる確率が高まるんです。

駒野:それはデータとして出ているんですか?

若杉:データとして出ています。要は良いことをすると、会社にゆるみが出るんですよね。「我々は良いことをしているよね。だから、ちょっとくらい悪いことをしてもいいよね」と。その現象が、スキャンダル、会計不正、事故、リコールとして出てくるわけです。統計的にも、そういう周期がみられるんですね。

「自分が良いことをしている」ということに酔ってしまうことも、1つの落とし穴になると思いますね。それは回避すべきことだと思います。

自分自身の「良い行い」に酔わない人の特徴

駒野:「慈悲的な行動をしていることに酔わない」ということですね。それから同情してしまうと「共感疲労」が起きてしまう。さて、これを起こさないためにはどうしたらいいんでしょうか?

川野:若杉さんがおっしゃったことと、私が申し上げたことは、表裏一体で、同じ理屈に沿っていると思いました。

結局「自我の安定性」ですよね。しっかりと自己肯定できているか。自分の存在を受容できているか。ここで大きく分かれてくると思います。自分の根底にある自我の部分が安定していて、自分はこういう存在であると認め、自分の人生をきちんと重んじている人。

このように自己を肯定できている人は、自分が慈悲行をしたことに酔わないんです。慈悲行をしようがしまいが、利他行をしようがしまいが、自分の価値をちゃんと担保できている。だから、してあげたことに対して、ことさら心が高揚することもありませんし、自分に酔うこともありません。これは実際に、心理学的にも指摘されているところです。

自己肯定がしっかりできている人は、たとえ困っている人に何か助け舟を出してあげたとしても、その人の感情に取り込まれることもありません。なぜかといえば、自分の存在をすでに肯定しているので、困っている人に対して客観的に「何をしてあげたらいいのか」だけを考えることができるからなんです。

つまり自利と利他とは表裏一体だと思うんですね。そのためには自利の心を育み、自我を安定させること。つまり、「自分で自分の存在を肯定できる」心のあり方をどう育んでいくのか。これが大切だと感じています。

「与える」ではなく、自分の慈悲の心を「シェア」する

駒野:表裏一体、よくわかりますね。与えるのではなく、自分の中の慈悲の心をシェアする、共感するという感じじゃないと。良い言葉で言うと、「自分の溢れる愛を人に放っている」という感じ。そうじゃないと無理ですよね。「慈悲を与えた」と慢心してしまう。

人間は、心も体もバランスを取るんですよね。ずっと手を挙げて胸を張ったバンザイをやっていると疲れるので、次は悲しむポーズ、背中を曲げた姿勢になっていくわけですよ。

川野:反動がありますよね。

駒野:反動がくる。だから、あることをやっていると、裏の反動が起こってくる。つまり、別の部分を抑制しているんですよね。心の底に本当に慈悲の心が溢れていれば、それは単に分かちあうだけですからね。そのまま共有しているというのか。

川野:駒野先生がおっしゃる「溢れる」というのが、すごく的を射ていると思いました。そのためにできることが、「セルフコンパッション」なんですよね。

駒野:そうなんです。僕もこの話をそこに導きたかったんです。

川野:さすがです。

駒野:では、よろしくお願いします(笑)。

川野:今世界的に、特にアメリカで研究が進んでいるんですが、自分に優しさを向ける心、「セルフ・コンパッション」が大事なんです。いよいよマインドフルネスは、次の段階、3rdステージにきていて。

駒野:そうなんですか。

川野:今まではマインドフルネスって「瞑想をする」「集中力を高める」といったところに注目が集まっていましたが、今はそこからさらに一歩進めて、「自らの存在を認めてあげるために瞑想するんだ」ということに多くの方が気づき始めているんです。

慈悲心を養うポイントは「セルフ・コンパッション」

川野:でも、まだそこで終わりではありません。自らの存在が受容できるようになるセルフ・コンパッションが高まってくると、自然と愛情や優しさが溢れてくるようになるんです。だからこそ、それを他の人たちにお裾分けしたくなってくるんですね。

自然に利他的行動をとって、それだけで満足できるわけです。このように、セルフ・コンパッションを高めると見返りを求めない利他的行動がとれるようになるということが、テキサス大学の研究などでわかってきているんですよ。

駒野:ちょっと質問いいですか? マインドフルネスが次の段階というのは、どういう意味ですか?

川野:正確には認知療法の技法を世代別に論じたものなんですが、第2世代が「認知行動療法」なんですね。さらにさかのぼって第1世代が「行動療法」です。例えば、パニック障害の患者さんが「不安で電車に乗れない」という場合に、その人を少しの時間から段々と電車に乗せていって、ゆっくりと慣らしていく。これが行動療法です。

次が、認知行動療法で「心の癖に気づきましょう」というもの。これを第2世代といいました。そして第3世代が、マインドフルネスの考え方や瞑想の実践を取り入れた認知療法です。

そしてこれは私が考えていることですが、次の世代、第4世代の認知療法は、このマインドフルネスにセルフ・コンパッションの要素を取り入れて、学びと実践を続けながら取り組んでいくものになってゆくと思います。

駒野:だから、「どうやって慈悲心を養うのか」というと、ポイントは「セルフ・コンパッション」だと思うんですよね。

だから、私が一番最初に言ったキリスト教の「自分を愛するがごとく人を愛する」ということができない人は「自分を愛すること」知らないんですよね。同じように、自分にコンパッションを持てない人は、相手にもコンパッションが持てないんじゃないかと。

だから、コンパッションを鍛えるのはまさにセルフ・コンパッションで、その根底はマインドフルネスですよね。

川野:そのとおりだと思います。