「元ダンスインストラクター」の小説家・今村翔吾氏が登壇

今村翔吾氏(以下、今村):みなさんこんにちは。小説家の今村翔吾です。小説を生業にさせてもらっています。僕の身なりや風貌を見て「40歳?」「50歳手前?」とおっしゃる方がいますが、現在37歳です。実はみなさんが思っているより若いんです。

(会場笑)

今村:僕の小説を手に取っていただいた時にみなさん驚かれるのが、著者紹介のところなんですね。「ナントカ賞受賞」とか書いてあるところに、「元ダンスインストラクター」と書いてあるんですよ。今、デビューして6年目なんですけれど、未だに出版社が消さない。キャッチーなのが好きなんで消してくれないんですね。という感じで元ダンスインストラクターです。

僕は京都府の南側、ほぼ奈良みたいな場所で生まれて、もともとダンスは正直好きじゃなかったんですよ。どっちかというと、小学校の時は家に籠って本を読むような子で。小学校5年生の時に池波正太郎先生の本に出会って、歴史小説の良さを知りました。そして、中学、高校とずっとカバンに単行本、文庫本を忍ばせながら少年時代、青年時代を送りました。

ただ父親、というか家がダンス教室を生業にしていて。中小企業で、言うたってその長男でもありますし、後を継いでほしいと。実際問題、人手も足りひんという流れで、好きではなかったんですけどダンスの先生になりました。でも、子どもたちに教えるのはすごく好きやったんですけど、僕自身、ダンスが好きじゃなかった……。「どんだけ言うねん!」という感じやけど。

どっちかというと、将来は大学の歴史の先生とか、今のような歴史の小説家になりたいという思いがすごく強かったんですね。でも、小、中、高くらいの子どもたちにずっとダンスを教えていると、やっぱり離れがたい。子どもたちの成長を見ていると、それはそれで楽しい思いもある。それで僕は7年間、30歳になるまでダンスインストラクターをやっていました。

「翔吾くんはいつか歴史小説家になる!」

出欠を取った後、練習が始まるまでの5分ぐらい、目の前にずらーっと並んだ生徒たちと雑談する時間があったんですよ。その時、子どもたちに「いつか小説家になりたい」と言っていました。

(30歳で)「いつか」というのも嘘じゃなくて。みなさんあまりご存知ないと思うんですけど、小説家、特に歴史小説家のデビューの平均年齢って、50歳前後が多いんですよ。先達の先生たちも「歴史小説家というのは特に、人間の機微、良さ、心の動きを知るために経験を積まなければならない」とおっしゃっていて。他の先生方も、「40歳でデビューなんて早いぐらいだよ」みたいなことは対談などでよくおっしゃっています。

だから僕自身、40、50歳になった時に、歴史作家という将来の夢を叶えようと思っていて。子どもたちには「翔吾くんにはそういう夢があるんだよ」と話していました。僕は「翔吾くん」と呼ばれていたんですね。「翔吾くんはいつか歴史小説家になる!」と。

「もしも俺が書いたものが本になったらどうする?」「もしも直木賞取ったらどうする?」「映画化されて女優さんと会えたりして」「いやいやいや」「はいはい」。ダンス教室で7年間、いつも子どもたちに「いつか、いつか」と、こんな冗談を言っていましたね。

本当に歴史が好きで、もともとそういう勉強もしていました。子どもたちをどこか遠足に連れて行く時でも、「ほら、見てみ。ナントカ城やで」と言って、バーッと歴史のことをしゃべりだす。すると、子どもたちはみんなスーンと無になるんですよね。

けど、新人さんとかあまり知らん子が「へえ!」と言うと、僕はもっと調子に乗ってしゃべりだすんですね。だから「あれは反応したらあかんねん!」って子どもたちが(笑)。僕の歴史好き、小説家志望は、子どもたちの中でも共通の認識でした。

ダンス教室の教え子の家出

今でこそダンスが学校の必修科目になって、いろんな子がダンスしますけど、当時はちょっとやんちゃな子が多かったんですね。ダンスしている子がすべてそうや、というわけじゃないんですけれど、やっぱりヒップホップとかと同じで「やんちゃな子に憧れる文化」みたいなものがあって。

教え子たちの中には、家出をしたり、逆に不登校だったり、それでもダンスだけには通う子もいて。本当に補導されたり、万引きしたりする子もいました。その子たちを擁護するわけじゃないですけど、「それはしゃあないやろ」と思えるぐらいの家庭環境の子もいましたね。「お父さん、お母さん、しっかりしいや」と思うような家庭環境の子が、一部いたのも事実です。

そんな中8年前の2014年、ある女の子がいたんですよ。僕が話しかけても「ふん、ふん」と適当に返事をするだけで。「嫌われてるんやろな」と思ったけど、しゃべらなしゃあないので、しゃべりかけてて。

ある時に、その女の子が家出をしたと、お母さんから連絡が入ったんですよ。「私がいくら電話をかけてもぜんぜん出てくれないんです。翔吾くんがかけてくれたら、もしかしたら出てくれるかもしれん」と。それで電話をかけました。

ほんならと電話をしたら、なんと2コール目ぐらいで出てくれて。「どこにいんの?」と聞いたら、まあまあ近くの、車で15分くらいのところに居ると。ポンと言いよったんで「じゃあ行くわ」と迎えに行って、「何しててん?」と聞いたけどあまり返事もない。「ああ、この子はちょっと厳しいんかな」と思いながら、お母さんのところに送り届けました。

家出を繰り返す女の子に、「熱血教師」ぶった対応

そこから5日後ぐらいに、またその女の子が家出したんですよ。ほんでお母さんから「申し訳ございません。また、電話かけていただけないですか?」「わかりました」。またすぐ電話出て「どこにいんの?」と聞くと、今度は車で30分ぐらいのところ。怪談のメリーさんの逆ですよね。ちょっと遠なっててん(笑)。

それで、30分ぐらいのところに行って「なんでこんなことするの?」とか「どこ行ってたん?」とか、しゃべりかけるんですよ。別に東京じゃないし、賑やかな場所でもないし、本当にコンビニの端っことかに座っているだけなんですよ。車の中で「何してんの?」と話しかけても、無視する感じ。サイドミラーで見ると、まばたきをしているから寝ているわけでもないんですね。

ほんで5日後、また家出する。お母さんもちょっと慣れてきて「お願いしまーす」みたいな感じで、「わかりました」と電話かけたら、県またいどるんですよ。ほんで行くというのが7~8回続いて。「何でそこまでするんですか?」と言われたら、これは熱血教師的な意味合いじゃなくて、なんか意地ですわ。「この子は俺のことを試してるんやろな」と思ったから、意地で「ところん行ったらぁ」と思った。

挙句の果てに、県を2つぐらい挟んだところで拾い上げて。帰る時に、ふだん何をしゃべりかけてもあんまり反応しない女の子が、「お前、やりたいこととかないの?」という言葉にはけっこう反応したんですよ。「いや、あるけどムダやし」「何なんそれ?」「いや別に、うちはお金ないし」。その子の家が、言うたらお母さんしかおられなくて、お姉ちゃんがちょっとお金のかかる進学の仕方をされていたんです。

「自分はそんなに勉強ができるわけでもないし、やりたいことも、お母さんに迷惑をかけてまで、その学校に行くほどのことなのか?」という葛藤があったみたいで。これは後でわかったことですけどね。

「なんやねん。今やったら奨学金もあるよ。もちろん返さなあかんけど、本当にやりたいんやったら何とかなるよ」と。「うん」の生返事。ここは熱血教師ぶって「自分が本当にやりたいと思ったことを諦めるな。夢を諦めるなよ」と僕は言いました。

まったく反論できなかった、教え子のキツい一言

『金八先生』なのか『ROOKIES』なのか、それぐらいの気持ちで言ったんです。ここがドラマと現実の違いですね。ドラマやったら「先生!」と感動のシーンですが、女の子は冷めた目で僕を見つめながら、「翔吾くんも夢を諦めているくせに」と言葉を返してきました。

これ、今思い出してもけっこうキツい。何回話してもけっこうキツい。というのも本当に図星で、言い返す言葉が1つもなかったんですよ。僕は「40歳になったら、50歳になったら、いつか、いつか、小説家になりたい」と言っていたけど、たぶんとっくに僕自身、小説家になる夢を諦めていて。心のどこかに「まあこれでええか」というのがきっとあったんですよね。

それを覆い隠して「こういう事情だから仕方ない」「今、人手不足だから子どもたちの面倒をみないといけない」みたいに、ずっと自分に言い聞かせて、誤魔化して、誤魔化してきた。それを彼女に見事に言い当てられて、本当に泣きそうになりました。何も言い返せないまま、その日も彼女を送って。僕はその晩、眠れませんでした。

彼女の家出はそれでピタリと止むんです。僕自身は2~3日後、父親に時間を取ってもらって「仕事を辞めたい」ということを伝えました。「辞めて何すんねん?」「小説家になる」……。1回たりとも小説を書いたことがない男がです。読んだことは山ほどあるけど、それまで1回も書いたことはなかった。

ただ本当に「小説家になろう」と思って父親に伝えました。その子や教え子たち全員の前での引継ぎで、「僕の残りの人生で『夢は叶う』ということを証明する。これが最後に教えることだ」と言って、僕はダンスから離れました。

いやいやいや、これね、直木賞取ったから、格好いいセリフで美談みたいになってますけど、ぶっちゃけかなり無茶ですよ。直木賞だって、最初から「取ろう、取ろう」と言っていたわけじゃないんですよ。

子どもたちが、「6年生を送る会」じゃないけど、「翔吾くんありがとう」と先生の離任式みたいに送り出してくれて。その時に、横断幕に「目指せ! 直木賞」って書いとるわけですよ。小学校2~3年生の子が、「翔吾くん、直木賞目指してくれますか?」と言うから、「ああ、がんばります」と言わざるを得ない(笑)。それで本当に、直木賞を取るのが1つの目標になりました。

「プロの壁」を乗り越えるために、必要なこと

今日はまさしく「Climbers」ですけど、僕は「登る」というより「這い上がる」ぐらいの感じでしたね。まず、片っ端からいこうと。文学賞って、即デビューできるものと、できないものがあるんです。そういう区別もわからないまま辞めてしまって。見てる人、マジこのやり方お勧めせえへんからね。結果論やからね(笑)。もうちょっと下調べはしたほうがいいと思います。

けど、気持ちの部分では見てる人と、もしかしたら共通する部分があるかもしれない。僕は、片っ端からいきました。一発目は、締め切りが3日後やったんです。原稿用紙80枚。

子どもの時の「横断歩道の白だけ踏まな死ぬ」みたいな、謎ルールあるじゃないですか。それで僕は、「3日以内に1個を書けへんかったら小説家になれへん」と決めたんです。ほんで、3日間で80枚書いて送った。ほんだら受賞したんです。一発で。次に、そこから1ヶ月かけて送った賞も、そんな大きい賞じゃないですけど、受賞したんです。

いやぁ、天才ちゃうかと思って(笑)。今分析すると、「小説を書く」ことに関しては、「小説を読む」ことがかなり基礎力になると。読んできた量はすごく多かったから、それなりに力はあったんやなと思うんです。ポンポンと受賞して。

ただ、ここからデビューするまでが大変でした。アマチュアの賞では優勝できるんだけど、大きな賞、プロの賞では優勝できない。プロ野球選手になれないみたいな。そういう時期が1年半ぐらい続きました。

1年半で大変や言ったら怒られると思います。小説家を目指して10年の人もいるし、20年の人もいる。「1年半なんて短いじゃないですか」と言いますが、僕はとにかく「玉の数」やと思うんですよ。ビジネスとかにも活きるかどうかわからないですけど。

「成功するか」というより、僕はまず「デビューすること」を目標にしていて。要は玉が外れることは別にどうでもいいんですよ。小説家になりたい人は、だいたい年間1~2本書くのがルーティンですね。

僕は年間12本とか応募していたので、6倍(確率が上がる)わけです。宝くじで言ったら6倍買ってるねんから、当たる確率もデカい。しかも宝くじと違うのは、回数を重ねれば重ねるほど、やっぱりスキルが身に付いていくということ。

だから、1年半と言っているけど、実質6~9年分ぐらいはたぶん書いていて。20本以上書き上げて、僕はデビューしました。まずここが1つ目の坂道としてキツかったところかな。

文庫本の書き下ろしの仕事をしながら、2度目の応募生活

ただ今思うのは、楽しかったのはあの頃かなと。これも「結果的にうまいこといってるから言えんねん!」と言われると思いますが、そういうもんですよ。だから、「1つ越えて過去を懐かしめるようになる」というのは、自分の中の1つの夢を叶えた者の、オマケ的な楽しさかもしれませんね。

ただ、僕ね、文庫本でデビューしたんですよ。これが意外とキツくて。文庫本って、どっちかというと大衆的な感じで、単行本じゃなかったら直木賞取れへんのですね。文庫本でデビューして、その後僕が何をしたかというと、単行本での再デビューです。

文庫本と単行本って似て非なるもので、「サッカーのワールドカップに出たいのに、フットサルの選手になってもうた」みたいなことです。「やば!」という感じじゃないですか。「これはやばいぞ」ということで、ここから1年間、単行本でもう1回デビューするために、要はフットサルの選手をしながら、サッカーの入部試験を受け続けるんです。

だから、文庫本の書き下ろしの仕事をしながら、もう1回応募生活が続く。自分で言うのもなんだけど、こっち(文庫本)がどんどんどんどん売れていって、挑戦する時間が減っていく。それでもたぶん、あの当時はまだ別の仕事もしていましたから。(合間に小説を)一番書きやすい行政の仕事もしていました。

朝6時に起きて、出かけるギリギリまで原稿を書いて、昼休みも書いて、終わったら帰ってきて。短縮できるのが風呂とご飯の時間しかないから、帰り際に何か食べるものをパッと買って、シャワーをバッと浴びて、バッと食べて、そこから深夜2~3時まで書く。これを続けるしかなかったんですよね。ひたすら、ひたすら書き続けて、もう1回デビューしました。