高校生の時から「起業しよう」と思っていた

松田公太氏(以下、松田):実は高校時代には、もう「起業しよう」と思ってました。というのは、その頃からアメリカでは起業が普通だったんですね。

舘野晴彦氏(以下、舘野):じゃあ、身近だったわけですか。

松田:身近でしたね。例えば私の親友がいるんですが、彼のお父さんが不動産会社を辞めて、独立して不動産会社を立ち上げられたという話を聞いて、初めは意味がわからなかったんです。「どういうことだろう?」と。

そしたら、彼のお父さんが自分で事務所を持って、みるみるうちに事務所も大きくなって。急に成功されて、別荘を買われたりしていた姿も見て、「起業して成功するとこうなるんだ」というのは、その時に感じましたね。

私も、父に「相当いろんな国に行っていろんな魚のルートを持ってるんだから、自分で立ち上げてやってみたら?」なんて話をしたことがあったんですが、「いや、そんなことは考えられない」と言われました。

アメリカのボストンに住んでいたんですが、ボストンの日本人街を見ても、みなさん大企業にお勤めの方々がほとんどで、当時は誰もそういう考え方を持ってないんですね。例えば、NECや三菱やトヨタに勤めてると、ずっとそのままっていう感じで。

舘野:終身雇用というか、そこで長く勤めることが一番良いこと、みたいな。

松田:そうですね。まさか、会社を辞めてゼロから会社を立ち上げるっていうことは、日本人には1人も考えてる人がいなかったですね、

起業を志しながらも、新卒で大手銀行に就職したワケ

舘野:なるほど。(大学を)卒業して最大手の銀行に行かれてますが、そこはいろいろ考えがあったんですか?

松田:いろんな起業の道があるなと思ったんですが、1つはやっぱり「食」をやりたいなと思ってました。父もそういう仕事をしてましたし、当時まだアメリカでは寿司が受け入れられておらず、将来的に自分が(海外に日本食を)広げることができたら、日本のことをもっとリスペクトしてもらえるんじゃないかなと思ったり。

舘野:ご自分で、寿司の価値を認めさせるというか。

松田:認めさせたいなと思いました。ただこれがですね、私が大学の時に寿司ブームが来ちゃって、カリフォルニアロールとかが出てきました。

舘野:僕らからするとちょっと邪道ですが、ブームになりましたよね。

松田:(笑)。大学は日本だったんですが、当時はメールがなかったから、アメリカ人の友だちと文通をしてたんです。手紙に「今日も寿司を食べた」みたいなことがたくさん書いてあって(笑)。私は「もう寿司は(ブームが)きちゃったんだな」と思って、じゃあ寿司はやらなくていいなと思いましたね。

舘野:そこに自分の責務はないというか、(やらなくて)いいってことですね。

新卒のチャンスは一度きりだから、大企業に入ることを決意

松田:あと、漫画とかアニメも考えましたね。というのも、お寿司や日本食と逆で、漫画・アニメを同時通訳で友達に見せるとみんな喜んでくれたんですね。「すごくおもしろい!」って、みんな言ってくれたので、「そうか」と。

当時アメリカには(子ども向けの作品しかなくて)、中学を卒業しちゃったら見られるような漫画やアニメがなかったんですね。今はマーベル・コミックとかが映画化されてますけど、当時は『Tom and Jerry』『Scoobie Do』『Bugs Bunny』とか、そういうものしかなかったんですね。

舘野:いかにも子ども向けの。

松田:ですから、日本の『機動戦士ガンダム』とか『宇宙戦艦ヤマト』を同時通訳して見せてたんですが、みんな「おもしろい!」って言うんですよ。

舘野:世界共通でウケたってことですね。

松田:ウケたんですね。ですから、こういう仕事もいいなと。日本のすばらしさを伝えるためには、漫画・アニメも一助となるんじゃないかなとか、いろんなことを考えてました。でも、一回社会人として経験を積みたいといと思っていました。

最近は違うかもしれませんが、当時の日本の大企業は「新卒で入らないと、もう入れない」っていう時代でしたよね。

舘野:ありました。そうでした。

松田:なかなか中途も採用しない時代だったので、新卒はチャンスだから、一度どこかの大企業に入っていろいろ勉強させていただきたいと思って、銀行に入ったんですね。

舘野:先を見るというか、ちゃんと自分で自覚しながら生きてらっしゃるというか。当然のことかもしれませんけど、すごいですね。

松田:いえいえ。そんな、ものすごく「こうだ」って詳細に決めてるわけじゃないんですが。

「銀行なんか一番合わないからやめろ」という、周囲の声

松田:もう1つは、自分が知らない世界を知りたいっていうのもあるんですね。アメリカに住んでいて、そのままアメリカの大学に行って、向こうで一生を過ごすという選択肢もあったんです。

私が日本に大学で戻ってきた時、家族は全員アメリカに残りましたし、母からは「アメリカに残ってアメリカの大学に行きな」なんて言われました。

日本のことが好きだ、日本文化を伝えたい、もしくは世界のすばらしいところを日本に伝えたいと思いながらも、私は日本のことをあまりにも知らないし、日本のこと知らないとまずいよなと思ったので、日本の大学に1人で戻ってきたんですね。

舘野:じゃあ、単身(で日本に)戻ってきたってことですか。すごい家族ですね。

松田:いえいえ(笑)。しかも、体育会系(の部活)に入ったんですね……本当は入りたくないんですよ。アメフト部に入ったんですが、実際に坊主にもさせられましたし(笑)。

舘野:(笑)。

松田:先輩からガンガン怒られますし、「敬語が使えない」と言われてどやされました。

舘野:日本的縦社会、みたいな。

松田:そう。ただ、それを経験したくなるんです。知らないから「やりたい」と思っちゃうんですね。知らないと語れないと思っちゃうんです。

舘野:きついことでも入っていくということですね。

松田:銀行はまさしくそれで、自分が行きたいところの真逆だったんですね。ただ、経営は学べるだろうと。「もしかしたらいろんな方(経営者)とお会いできる」って思いましたが、本当はみんなからは「公太、銀行なんか一番合わないからやめろ」と言われましたね(笑)。

舘野:こうやってお話ししていても、あの堅苦しいビジネス世界とは似合わない気がします(笑)。

松田:ちょっと薄ブルーのワイシャツを着ていったら、𠮟られましたから(笑)。「銀行員は白じゃなきゃダメだ!」と言われて、当時はすごく厳しい時代でしたね。

舘野:(笑)。

就職する前から「5年で辞めよう」と決めていた理由

舘野:最大手の銀行に入られて、起業するまで何年ぐらいですか?

松田:実は銀行へ入る時に「5年で辞めよう」と思って入ったんですね。決めたことがいくつかあって、1つは、銀行員って当時は給料がいいんですよ。なので、自分がいただく給料の5倍はちゃんと利益でお返ししようと。

舘野:給料の5倍。

松田:そのぐらいがんばらないとダメだろうと思ってました。もう1つはやはり成績です。給料の5倍返せるんだったらそうなんでしょうけれども、とにかく成績を優秀にする。例えば、社長賞や頭取賞をいただけるようになるとか。

なぜかというと、そのぐらいの大組織で自分で実績を残せるようにならなかったら、外の社会に行ったって通用するわけがないだろうって思ったんですね。ですから、勉強はしようと思いました。

もう1つはやっぱり、単純に(会社に)いさせていただくだけでは申し訳ないじゃないですか。なので、なにか恩返しはしなくちゃいけないと思いましたね。5年間でそれを成し遂げようと思って行ったんですが、結果的に頭取賞は2年連続でいただけました。5年ではなく、ちょっとずれて6年かかっちゃったんですが、6年後に独立をしました。

舘野:それも速いですよね。

銀行に入って5年が経ち、再燃した「起業」への思い

舘野:今おっしゃったように「5年単位で考えていく」という松田さんの考え方は、いつ、どういうふうな(きっかけで始まったんですか)?

松田:実はこれも、子どもの頃に親から「4年単位で考えろ」ってすごく言われてたんですね。なんで4年かというと、スポーツが好きな家族で、オリンピックが大好きでした。オリンピックは4年に1回で、ああやって4年間必死になってやるから成長して、あの域まで達することができるんだと。だから、「その先にある」というふうに考えないで、とにかく4年間でがんばろうと。

私は「4年」という数字がなんとなくしっくりこなかったので、勝手に「5年」と決めて。ある程度の大目標を作って、それを5年ごとに達成していくという考え方になったんですね。

舘野:なるほど。聞きたいことがいっぱいあるので駆け足になっちゃうんですが、そうは言ったって、起業は簡単ではないですよね。

松田:はい。先ほども言いましたが、寿司をやらないならどうしよう? と。(銀行に就職して)5年経つ前あたりから、次にもう5年間銀行に残るということも考えられるわけですね。「5年間やるって決めたらやらなくちゃいけない」と、とにかく徹底してやろうという思いだったものですから。

でも、自分の中で「やっぱり起業したいな」と思い始めて、例えば「食」でやるのがいいのか、「漫画」でやるのがいいのかなと考えていた中で、「これだ」っていうのが出てこなかったんです。食の分野で言うと、ラーメンとか、もしかしたらトンカツもあるかもしれないなんて思ってたんです。

タリーズコーヒージャパンの創業者も、最初はコーヒーが嫌いだった?

松田:1995年の時に、友人の結婚式に呼ばれてアメリカのボストンに戻ったことがあったんですね。実はその時にスペシャルティコーヒーを目の当たりにして、「このコーヒー文化は何だろう?」となってしまいました。

日本にはまだスターバックスも出来ていませんでしたし、スペシャルティコーヒー文化はなかったんですね。ドトールさんはありましたけど、あれは全部ドリップコーヒーだったので。実は、自分はそんなにコーヒー好きじゃなかったんです。

舘野:そうなんですか。

松田:家ではみんな、緑茶か紅茶しか飲まなかったです(笑)。

舘野:(笑)。

松田:コーヒーはぜんぜん誰も飲んでなくて。

舘野:「シアトル系」と言われるあの一大ブームを起こした人が、あんまりコーヒー好きじゃなかったという。

松田:正直、初めは嫌いでした(笑)。

舘野:(笑)。

松田:なぜか家に削られたカチカチのインスタントコーヒーだけあって。それをスプーンでだして、お湯に溶かして一回飲んだことがあったんですが、あまりにもおいしくなくて。「こんなもの誰が飲むんだ」と思って、そこからコーヒーが大嫌いになっちゃいました(笑)。

舘野:(笑)。

松田:ですから、コーヒーは本当に飲んでなかったんですが、ボストンに行った時にスペシャルティコーヒー屋さんに行列ができていたのでびっくりして。私が住んでる頃は、そういうコーヒー屋さんはなかったんですね。

食が好きだったので、マクドナルドやイタリアンとかいろんなところでバイトをしてましたが、アメリカには「コーヒー屋さん」はなかったんですよ。コーヒーショップ、専門店、喫茶店とか。

舘野:そうなんですか。

初めて飲んだ「ラテ」に惚れ込み、コーヒーの虜に

松田:それでびっくりして、コーヒー専門店に自分も並んでみました。「何だろう? しかも、なんでこんな行列できてるの?」と思って。しかも値段を見ると「3ドル50セント」と書いてあって、高い。私が住んでいた頃は、コーヒーは50セントとか90セントだったんですね。だから「3ドルって何?」と思って。

舘野:とんでもなく高い。

松田:そのあとに実際に自分で買って飲んで、もう恋に落ちたというか、惚れ込んじゃったんですね。

舘野:(飲んで)一発でおいしかったんですか?

松田:(コーヒーのことが)わからなかったので「何が人気なの?」と(店員に)聞いたら、「ラテだ」と言われたんですね。ラテが何かわからなかったので、とりあえず「それでいい」と言って頼みました。

ラテはエスプレッソとスチームミルクが入ったものなんですが、それを飲んだ瞬間に「こんなにおいしいコーヒーがあるんだ」と思って、惚れ込んじゃったんです。

舘野:でも、惚れ込んだからといって起業まで結びつく、その行動力たるやすごいですね。

松田:「これだ」って思ったので。そのあとシアトルにも数ヶ月後に行って、いろいろ見て回った結果、やっぱりスペシャルティコーヒーが花開いてたんですね。ちなみにスターバックスもシアトルですし、タリーズもシアトルだったんです。

日本でコーヒーを広めるべく、有名店に直談判する日々

松田:正直言うと、スターバックスにもなんとか連絡を取ろうとしていました(笑)。ぜんぜんなしのつぶてで、お会いできなかったんですが。

舘野:それは、コネもなにもなく連絡してるわけですか?

松田:コネもなにもなく、連絡してます。スペシャルティコーヒーに惚れ込んじゃったので、どなたかと一緒にやりたいなって思ってたんですね。

当時すでにスターバックスは1,000店舗ぐらいあったんですが、シアトルズベストコーヒーは250店舗ぐらいあって、そこにも連絡して副社長とお会いすることができました。「ぜひ、シアトルズベストコーヒーを日本でやらせていただけませんか」と言ったら、「君は資産家の息子ですか?」と言われて。

「いや、資産家の息子じゃありません。サラリーマンの息子です」「じゃあコーヒー業界に精通してるの?」「いや、知りません。飲食業でずっとアルバイトはしていて、マクドナルドとかでバイトしてました」「そうか。じゃあなにか特別なコネでもあるのかい?」「ありません」と言ったら、「さよなら」って言われて(笑)。

舘野:(笑)。

松田:シアトルズベストコーヒーはダメになったんですが、そのあといろいろ見て回った結果、当時4店舗しかなかった小さな小さな町のコーヒー屋さんのタリーズに惚れ込んで。味が一番おいしいと思ったんですね。なんとか話をして、最終的には日本でやる権利をいただいたんですね。