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”No fun No gain” 逆境をも楽しむ挑戦マインド(全3記事)

日本の高級食材が、海外では「ゲテモノ」扱いされた苦しみ 5歳からの海外生活で芽生えた、松田公太氏の「食」への思い

さまざまな壁を乗り越えてきた各界のトップランナーによる、人生の特別講義を提供するイベント「Climbers(クライマーズ)2022 春」。本記事では、タリーズコーヒージャパン創業者であり、EGGS 'N THINGS JAPAN株式会社の代表取締役である松田公太氏の講演の模様をお届けします。5歳の時にセネガルに家族で移住し、その後アメリカでも学生時代を過ごした松田氏が、日本人として感じた「疑問」とは。

銀行員を経て、タリーズコーヒージャパンを創業

司会者1:続いての講義は、タリーズコーヒージャパン創業者であり、EGGS 'N THINGS JAPAN株式会社の代表取締役、松田公太さんです。

司会者2:情熱を羅針盤に起業家となった食のパイオニアが政治家への転身など、波乱の人生の中で大切にしてきた生き方とは。

舘野晴彦氏(以下、舘野):今日はよろしくお願いいたします。

松田公太氏(以下、松田):こちらこそ、よろしくお願いします。

舘野:もちろんみなさんご存知だと思いますが、若き起業家たちの憧れの的だと思います。情熱的で熱く、この業界でも語り継がれている松田さんに、今日はいろんなお話をうかがおうと思います。最初に、簡単ですがプロフィールを紹介させていただきます。

1968年生まれ。幼少期をアフリカとアメリカで過ごされ、筑波大学卒業後、銀行員を経て1997年にタリーズコーヒー日本1号店を創業されました。翌年タリーズコーヒージャパン(株)を設立し2001年株式上場を果たしています。2007年、同社社長を退任され、同年、世界経済フォーラムのヤンググローバルリーダーに選出されました。

2010年には、参議院議員選挙当選。16年議員任期満了後、再び起業し経営者に。現在では、Eggs 'n Things他、飲食チェーンの運営を中心に、AIを活用したDX事業、自然エネルギー事業なども手掛けていらっしゃいます。

今日の通しのテーマですが、「人生の難局を乗り越える」という大きなキーワードに(沿って)、いろいろお話をうかがいたいと思います。よろしくお願いします。

松田:よろしくお願いします。

松田氏が5歳の時、家族全員でセネガルへ移住

舘野:いろいろ資料を拝見したり、本を読ませていただきました。

松田:ありがとうございます。

舘野:松田さんの凄まじい情熱といいますか、幼少期に海外にいらしたことが1つの大きな起因になってるのかなと思ったりもしたんですが、海外生活はどんな感じで、いつぐらいから(過ごしていたんですか)?

松田:父が水産業のサラリーマンをしていたんですが、西アフリカのセネガルで「魚を開拓してこい」と言われたみたいで(笑)、5歳の時に家族全員でセネガルに移住しました。かれこれ47年前ぐらいで、(当時)まだ日本では「セネガルって聞いたこともないよ」と言われるような時代でしたから、親戚一同に相当反対されたみたいです(笑)。

約5年間、10歳までセネガルで過ごしていました。それから一瞬日本に戻ったんですが、また今度はアメリカに引っ越して、高校を卒業するまでずっとアメリカで過ごしました。大学を出るまで、ほとんど海外だったんですね。

舘野:そうですよね。セネガルの公用語は何ですか?

松田:セネガルはフランス語だったんです。

舘野:じゃあ、フランス語は子どもの頃から。

松田:子どもの頃はしゃべっていたんですが、最近はもうほとんど覚えてないですね(笑)。聞いたらなんとなくわかるな、というぐらいです。

舘野:ご家族で(セネガルに)乗り込んでいったと。お父さまとお母さまと、ご兄弟がいらっしゃいますよね。

松田:弟と妹がおります。ちなみに、妹はセネガルで生まれました。

舘野:そうなんですか。セネガル生まれ。

幼少期に抱いた「自分って何人なんだろう」という疑問

舘野:文化の違いとか、いろいろ考えることや驚くこともたくさんあったんじゃないですか?

松田:(セネガルへ移住した)最初は5歳で、しかも地元の公立の幼稚園に入って、そのまま公立の小学校に入ったものですから、周りはセネガル人しかいなかったんですね。インターナショナルスクールもあったんですが、そちらではなくて地元のパブリックスクールに行きました。

思い出すのは、黒板がないから算数の授業の時なんかは外に出ていって、砂場に座って、みんなで枝を折って使って「1+1=2」とか書いてましたね。そんな環境で育ちました。

舘野:映画のワンシーンみたいな。

松田:そうですね(笑)。

舘野:黒板とか(の普及)がまだ足りてなかったというか。

松田:当時はなかったですね。そういう環境だったものですから、初めは子ども心にまったく違和感は感じなかったんですね。自然と溶け込んでいったといいますか、ちっちゃい子は柔軟性が高いじゃないですか。

小学校1年生、2年生ぐらいになった時から、いろんなことを経験しました。例えば、父に週末に海へ連れていってもらうと、海にたくさんウニが転がってるんですね。それで、(当時は)自由に獲って食べてよかったんです。

舘野:ぜいたく。

松田:ぜいたくですよね。母は喜んでいて、「海に行くよ」という感じで、毎週みんなで行ってました(笑)。

「こんなに高級なものは、日本だったら高くて食べられないんだから」と言って、みんなで食べてるところをセネガル人たちに囲まれて、「お前ら何食ってるんだ?」「そんな虫みたいなゲテモノを食べるって何人なんだ?」と言われたり。

ですから、そういったところから徐々に「あれ? 自分って何人なんだろう」ということを感じるようになっていったんですね。

寿司ブームが到来するまで、生魚は「ゲテモノ」扱いだった

舘野:それ、日本で過ごしていたらまったく感じられないですね。いわゆる島国の中で、みんなであったかく和気あいあいみたいな。

松田:そうですね、単一民族ですから。(日本では)わからなかったと思いますね。

舘野:正直言って、その時は悔しい思いもあったんですか?

松田:「ウニ事件」と呼んでいるんですが、その時はちょっと怖かったんですね。さっきも言いましたように、直前までは母が「こんなおいしいもの」と言ってるものを、セネガル人に囲まれて「そんなゲテモノを」と言われちゃいましたから。「うわ、怖い。何だろうこの落差は」と思って。

そのあとも同じような経験を多々するんですが、やっぱり食べものでの経験が非常に多くて。父が水産業の会社ですから、アメリカに住んでる時も家で刺身をしょっちゅう食べるんですね。毎日のように「この魚どうだ、あの魚どうだ」みたいに、家族をサンプラーにさせられるんですけれども(笑)。

友だちが来た時にそれを見られると、「生の魚食べてるって野蛮人だ」と。40年前には、生の魚や寿司は「野蛮な食べもの」だと、世界中で言われてたんです。

舘野:その後は寿司ブームがやってくるけど、その時には「野蛮人だ」って思われるのは、ちょっとつらいですね。

松田:つらかったですね。特にアメリカではそうだったんですが、中学校・高校とアメリカで過ごしていて、日本という国をもっとアピールしたいし、自分は日本人ですから「いい国である」と、アピールせざるを得ないじゃないですか。

例えば、当時ソニーがウォークマンを出して、アメリカ人はみんなそれを(使って音楽を)聞いてるんですが、誰も日本の製品だなんて思ってなかったんですね(笑)。

日本の技術や食べ物が、当時はバッシングされる対象だった

松田:私が一生懸命「これは日本の製品だよ」と言ったら、「えぇ? そうなの?」と言われて。例えば車でも、トヨタやホンダも(アメリカの市場に)来始めてましたが、なんとなく工業製品は売れるんだけれども、日米貿易摩擦の真っ只中でもありましたし、「安い車を売りつけやがって」ぐらいの感じで言われるんですよね。

舘野:車が潰されたりとか、いろいろあった時期ですよね。

松田:そうですね。ホンダ車とかトヨタ車に乗っかって、ハンマーで潰してるようなシーンを毎日のようにテレビで見てたんですよ。

ですから、こんなに日本もがんばっていて自分もアピールしてるのに、それがバッシングされる対象になってしまって、しかも食べ物まで。「なんでこんなにバカにされなきゃいけないんだろう?」と、子どもの頃は思ってましたね。

舘野:なるほど。それがのちのお仕事とか、いろんな志につながってくることになりますかね。

松田:これも舘野さんが先ほどおっしゃったように、日本に住んでいたらわからなかったことかもしれませんが、毎日のように新聞・雑誌に戦争のニュースが出ているわけです。私が住んでいた頃もレバノンの内戦があって、そこにアメリカが進出したり。

身近な人の戦死で痛感した、他国の文化をリスペクトする重要性

松田:これもショッキングなできごとだったんですが、アメリカがグレナダに侵攻して、。これは全部、冷戦がもたらしているものなんですけど、当時、隣の家の1個上の先輩が高校を辞めて(軍に入って)グレナダに行きました。それで戦死してしまったんですね。

そういう姿を見ていて、「戦争って、なんでこんなに頻繁に起こるんだろう」と、子ども心にずっと感じていました。

「戦争をなくすためにはどうしたらいいのかな?」と考えて、自分の文化をリスペクトされていなかったとか、なんとなく自分自身が受けてきた経験から、「もしかしたらそういうことが起因になってるかもしれないな」と思いました。

お互いのことをちゃんと理解していないし、尊敬し合ってないので、こうやって戦争にまで発展しちゃうんじゃないかなと。もうちょっと仲良くなるためには、お互いの国の文化を知ったり(することが大切です)。

もしくは、いろんな宗教があります。自分の(信仰する)宗教は、宗教としてすばらしいかもしれませんが、ほかの宗教も認めるようになることも重要なんじゃないかな? なんて思うようになって。なんとなく、文化やいろんな国の架け橋になりたいなと思うようになっていたんですね。

舘野:なるほど。今でこそ、みんなが共有する「多様性」という言葉ですが、いろんな人がいろんなあり方であることを認めるって、当時は実感としてなかったですよね。

松田:特に冷戦の真っ只中でもありましたし、ものすごく分断されてましたよね。アメリカではいつも、当たり前のようにそういう話があるわけですから、育ちながら核の脅威もずっと感じていました。

舘野:日本は(1945年の)終戦以降ずっと戦争がないから、正直、戦争は少し遠い国の話のようだけど、(アメリカでは)それが身近でダイレクトな話題になるってことですよね。

松田:そうですね。もう毎日のようにニュースになってましたから。先ほども言いましたが、先輩が(戦争へ)行って戦死していますので、日常だったんですね。

両親の教育方針で、地元のパブリックスクールへ通学

舘野:なるほど。お父さまやお母さまの教育方針はありましたか?

松田:父には「アメリカでもパブリックスクールに行け」と言われて。とにかく、その地に普通に馴染むほうがいいだろう、ということだと思うんですけれども。(父が)九州男児だったので、よく朝は竹刀で叩き起こされて(笑)。ちょっとスパルタでしたね。

舘野:(笑)。今だったらまた、なにかいろいろ誤解を受けるような。

松田:いやいや、当時も問題になりました。近所の人たちに「子どもが虐待されてる」と言われて、警察を呼ばれちゃって(笑)。

舘野:笑っちゃいけないけど(笑)。警察ですか?

松田:パトカーが何台も来たことがありましたね。そんな経験もしながらも、自分は日本人だというアイデンティティを強く持ちつつ。大きいことを言っちゃうと「世界平和」なんでしょうけど、「なにか自分にできることはないかな?」と思っていたのが高校時代ぐらいですかね。

舘野:当時は「起業」という言葉は、まだあまり一般的じゃないですよね。

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