多数の日本人が命を落とした、太平洋戦争の激戦地ミャンマー

米倉誠一郎氏(以下、米倉):僕が吉岡先生の話を横で聞いていて、ちょっとわかりにくいかなと思ったことがあります。『ビルマの竪琴』という話で知られるように、ミャンマーではたくさんの日本兵が死んだんですよね。そこに慰霊に行くお年寄りがたくさんいて、先生は初め、その付き添いでミャンマーに行った。

吉岡秀人氏(以下、吉岡):慰霊団の人たちの思いを知りたかったので、それに同行したんです。もう(医師として)ミャンマーに行くことは決まっていたんです。だけど、ミャンマーでの医療を僕に頼んできた人たちの思いは大切じゃないですか。それをぜひ知りたくて。高齢の方が多かったですけど、同行させてもらいました。そして、僕はそのまんま残ったんです。

米倉:それがきっかけだったんですね。これだけは(今日来てくださっている方に)ぜひお伝えしたいんですけど、僕が「先生はなんでこんなことをやっているんですか」と言った時の……ミャンマーのワッチェ(慈善)病院の中庭で、夕日の中に立っていたら「日本をよろしくな」と言われたあの話は、本当だったんですか。どんな状況であの話に……。

吉岡:ミャンマーでは、(太平洋戦争で)19万何千人、20万人ぐらいの日本人が亡くなっているんですよ。ご存知のように「白骨街道」ができて、そこだけでも死者は8万人です。僕は生き残った人たちの話もたくさん聞きましたし、それこそ「インパール作戦」に従軍した人たちの話も聞きました。

その人は、アウン・サン・スー・チーのお父さんと一緒に戦って、ミャンマーを独立させた1人だったんですね。だから、あの国では国賓として迎えられていた人です。「こんな感じで一緒に戦って、こんな会話をアウン・サン将軍としたんだよ」とか、いろいろ教えてもらいました。

1995年、当時はまだたくさん従軍した人たちが生きておられましたから、いろんな人からいろんな話を聞きました。例えば、雨季にむちゃくちゃな突撃作戦をして、飢えや病気で死ぬわけですよ。川では濁流の中で挟み込まれて、両岸から撃ち込まれるし。

マラリアなどの病気もあって、ヘトヘトで帰ってきているので、1回木の下に座るともう立てないらしいんですよ。立てないと最後に何をするかというと、自分の持っていた食料を、次の人に渡すらしいんです。家族へのメッセージとともに渡す、ということもたくさん聞いたんですね。それで、ミャンマー中に慰霊碑がいっぱいあるんです。

慰霊碑の前で聞いた言葉

吉岡:僕はたった1人じゃないですか。(電気が来ていないために)毎日停電でしょ。夜になったらろうそくをつけて診察するしかない状態です。そんな中、慰霊碑だけはたくさんあるので、慰霊碑の前にいつも立っていたんですよ。いっぱい亡くなった人の名前を刻んだものがありますけど、言ってみれば、18、19、20(歳)ぐらいの若い人たち、今の僕らの子どもぐらいの年齢ですよ。

それを見ていると、この人たちって若い時に学校に行ったり、友だちと酒を飲んだ日はいろいろ語ったりとか、したんだろうなと思ったんです。戦争から50年も経った今でもこんな生きづらいところなのに、戦死者たちはなんでこんなところまで来て、死なないといけなかったのかなと思って。帰りたかっただろうなと、ずっと思っていたんですね。

この人たちはそれぞれ思い出とか願いがあって、最後は何を思って死んだんだろうと思い始めたんですね。みんなの願いはそれぞれ違うと思うんですけど、この人たちの思いを1つにまとめたら何になるのかなと思いながら、慰霊碑の前にいつも立つわけですね。

その時、言葉がパンッと落ちてきたような気がして。その言葉は何だったかというと、「日本のことをよろしく」だったんですよ。「日本のことをよろしく」という言葉がバンッときて、「ああ、そうだよな」と思ったんですね。

あの当時の日本は、バブルが終わった後でみんな「カネ、カネ、カネ」ともう競争や金ばっかりだったじゃないですか。「とてもじゃないけど、この人たちが命がけで戦って守ろうとした日本になっていないよな。僕恥ずかしいな」と思ったんですね。

「じゃあ僕に何ができるんだろう」と思った時に、そういう恥ずかしくない日本にしないといけないと思ったんです。

吉岡医師がミャンマーの人たちを診察する意義

吉岡:じゃあどうしたらできるかと考えた時に、やっぱり若い人を引き連れてやらないといけないと。

最初にミャンマーに渡った当時、僕のところに来るのは、ミャンマーの貧乏な人、お金がない人ばかりでした。でも、戦争の時に逃げてくる日本人を匿ったのは、この人たちです。

(太平洋戦争では)ミャンマーも最後は、自分たちが独立したのに日本に宣戦布告しています。イギリス軍から追われ、ミャンマー軍から追われ、インド軍から追われ、誰も日本兵を助けてくれない。でも、何万人も日本に帰って来られたのは、ミャンマーの人たちが水を恵み、傷を癒やし、食料を恵んで助けてくれたからです。

ある時僕は、日本人を助けてくれたミャンマーの人たちの子孫が、僕のところに来ているんだなと思ったんですよ。だから、僕は50年の時を経て、日本人が受けた恩をちゃんと返すチャンスだと思ったんですね。同時に、いつ助けるほうが助けられるほうになるかわからないとも思いました。

カンボジアだろうと、ミャンマーであろうと、ラオスだろうと、僕らが一生懸命治療して助けた人たちは、みなさんやこの日本に何かあった時に、例えば外国に攻められて逃げないといけない時でも、必ずみなさんを匿ってくれるはずなんですよ。民間人の僕らができる、それ以上のセキュリティ、セーフティネットはないじゃないですか。だから、若い人たちとこれをやっていこうと決めたんです。

ミャンマーでの医療活動の継続を可能にした、2004年の転機

米倉:その話を聞いた時に、もう年寄りだから涙もろくてね。1990年、2000年になって、日本は本当に命をかけて作られた国だったのかなと思うところがありましたよね。ただ、多少貯金もあったと言えど、たった1人でミャンマーで診療を始めて、あれだけたくさんの人が来て。注射針などの資金は、どうやって調達していったんですか?

吉岡:一番最初の時は、慰霊団が寄付してくれたんです。

米倉:あ、なるほど。

吉岡:1995年ですね。だけど、ジャパンハートを作った時は、もうそれも使い切っているので、自分の貯金を切り崩していくだけでした。でも、日本人だから「正しいことをやっていたら絶対天は見捨てない」みたいな、変な思い込みがあったんですね。そうやって潰れていく会社がいっぱいあるんですけど(笑)。だけど、本当にそう思っていたんです。

そう思っていたんですけど、やっぱり何かうまくいかない。例えば、2019年にアフガニスタンで撃たれて亡くなった中村哲先生は、僕が学生の頃にパキスタンで医療をやっておられました。中村先生はパキスタンに6ヶ月行って、6ヶ月日本に帰り、働いてお金貯めて戻っていたんです。

僕もそれをやるかやらないかだ、となりました。でも、たぶん僕にはそういう生き方は無理だったんです。0か100かの生き方しかできないから。そういう中、ジャパンハートを2004年に作ったんですけど、1つだけ僕を救ったものがあったんです。それは何かと言うと、実は2004年に日本に僕の様子を知らせることができるようになった。すなわち、ミャンマーでインターネットが普及したんですよ。

もちろん、そのお金を出してくれた方々がいて、衛星放送のアンテナを立てればタイの衛星回線がつながる。クタクタになって帰ってきても、パソコンの前に座ったらそこから「こんなことをしていますよ」とか「今、人に来てほしいんですけど」みたいなことを情報発信できるようになったんです。そしたら、人が集まり、徐々にお金も集まるようになりました。

僕はインターネットの発展に助けられた1人でした。これが1年早くても2年早くても僕は潰れていたわけで。だから、本当にそのタイミングは絶妙だった。まあ偶然ですけど、そうなったんです。

米倉:なるほど。インターネットで世界とつながったのは大きいですね。

同じ年に日本で発生した、医師の研修制度変更という「追い風」

米倉:青島さんから何か質問が。

青島矢一氏(以下、青島):あまりに感動した後に、ぺちゃくちゃしゃべりたくないなという感じがありますが。

僕も2つくらい質問があります。1つは、初期の頃は今おっしゃったようにご自分の貯金を切り崩して、その後はどうされたのかな、と。インターネットでいろんな人が寄付してくださったのは、日本ではなくてミャンマーとかいろんなところから寄付が入ったということですか?

吉岡:日本がやっぱり多かったですね。人が集まれば、そんなにたくさんじゃないですけど、僕が現場を離れることもできるじゃないですか。

僕には1つだけ確信があったんですが、2004年から医者の研修制度(新医師臨床研修制度)が変わったんですね。すなわち、今まで大学病院に入らないといけなかったのが、市中病院に出ていいですよ、ということが起こった。

「あ、これで人が流動するな」と思ったんですね。研修を2年間外でやって、もう1回大学病院に戻る人たちも含めて、その間の時間を取って海外に出てくる人たちも、きっとたくさん出るだろうなと思ったんです。

それから、もう1つ。看護師さんは医者と違って、学閥ではなく個人単位なので非常に動きやすい人たちです。そして、看護師さんの離職率はものすごく高いんですよ。ですから、この人たちに情報が届けば、流動性を上げて来てくれる人がたくさんいるという、何となくの確信があったんですね。

彼らが来てくれて、その間、僕は日本に帰っていろんな人に会ったり講演会をしたりとかで、それで寄付が徐々に徐々に増えていくという流れですね。

人は「お金がないこと」が怖いのではない

青島:その方たちは手弁当で来られたわけですか?

吉岡:もちろん、僕もそれでやってきたから、そんなもんだろうと思っていたんですよ。まあいろいろ批判はあったんですけど、そんな感じだったんですね。それで、離島に行く時も、僕はもう、看護師さんたちも無償で行ったらいいと思っていたんです。そうしたら、離島の病院のほうから逆に「お金を取ってくれないと」と言われました。要するに、責任がなくなるので。それで、給料が出るようになりました。

もともとはお金を取るつもりもなかったんですけど。だんだん時代が下って、「お金を払ったほうがいいんじゃない」みたいな人たちも増えてきて。ただ、1年ぐらいは無償で働いてもらおうというのはあります。離島に行ったら看護師さんたちには給料をあげました。今は、2年ぐらいになったら給料を出そうね、という感じになってきています。切り崩してずーっとは働けないじゃないですか。

「人間って、お金がないと怖いでしょ?」と思うじゃないですか。みんなお金がないことそのものより、落ちていく加速度にビビるんですね。なぜビビるか考えてみると、やっぱり自分の底を知らないからだと思うんです。

例えば、僕だったら何万円あったら何年生きられるという自信があるんですよ。海外で、どこに行ったら食べさせてもらえるとか、わかるんです。そうすると、このぐらいだったら別にお金がなくなっても大丈夫だよね、というのがもうあるわけですね。

でも、みんなはそれを知らないから、加速度にビビってしまうんですね。去年100万円あったのが40万円になってるとか、30万円になっている、と。それでずーっと「お金がないと。お金がないと」と、ストレスになってしまう。その加速度を緩めてあげるとか、落下を止めてあげるのは必要だとして、今は給料を出すようになっています。

マウントを取ろうとする人が現れる理由

青島:もう1つは、先ほどビデオを見せていただきましたが、だんだん難しい手術をされていくわけじゃないですか。ずーっと向こうにいらっしゃって、一方で、医療はそれなりに進歩はしているのかなと。そういうものをどうやってご自分で取り入れながら執刀されたのか。それとも現場でやりながら、オン・ザ・ジョブでどんどん磨いていかれたのか。

吉岡:あるITの方たちから、僕にとって「学びとは?」という質問を投げかけられた時に、「下の人から学ぶことです」と答えたんです。そうやって、若い人たちからどんどん学ぶ感じですね。例えば医者だけのヒエラルキーだと、人間はそこでマウントを取ろうとするじゃないですか。外科医だと、外科しかなければその中のヒエラルキーで自分の立場や収入も全部決まるので、マウントを取ろうとするんです。

僕はそれに加えて、NPOやいろんなことをやっています。そうすると、医者あるいは外科医と、NPOとか、他のやっていることをつないだ線の立体が、僕の個性になるんですね。いろんなものが組み合わされて作られた立体の体積が、僕の能力だし、その形が僕の個性になる。

そうすると、ある一点で自分より上を取られても、他で重なっていないところがあるので、ぜんぜんストレスがなくなるんですよ。「どうぞ、どうぞ。やってください」みたいな感じで。

1人の人間にはいくつもの才能がある

吉岡:下の層を育てて抜かれていくのがどんな感覚か、この間わかりました。この前、僕の中3と高1の子どもたちと、身長を比べたら僕より高かったんですよ。でも、その時「お前、俺を抜いたよね」と言う時の親の感覚は気持ちいいじゃないですか。「あ、自分を抜いた」という、あの感覚と同じだったんですよ。「もうとうとう僕を抜いたか」みたいな感じで、そういうのを覚えるようになったんですね。

だから、「医者をやっているから医者」だけじゃなく、いくつかの領域をまたいだ才能開発とか。かつて、日本は1人の人間には1つの才能しかないという前提で社会が動いていたから、「石の上にも三年」とか「我慢しろ」とか言われたんです。

今や1人の人間にはいくつもの才能があるとわかった時代だから、それならいくつもの才能を開発したほうがいいと、僕は若い人たちにいつも言っているんですよ。そしてその才能が、例えば医療の近くにあるよりも、分野をまたいだ遠くの領域にあると、個性の体積が増えていくんです。

いろんな分野にまたいで能力が増えるので、アビリティが増える。例えば、ミャンマー語がしゃべれるとか、特殊じゃないですか。そうすると、ずいぶん医療の分野から遠くにいくわけです。英語がしゃべれるんだったら近いかもしれないですけど。そういうアビリティをたくさん持って、その立体を自分で形作っていったほうがいいよ、と子どもたちにはいつも言っているんです。