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『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)刊行記念オンラインイベント(全5記事)

生きづらさを抱える人ほど「叱る依存」化しやすい理由 苦しいのにやめられなくなる心と脳のメカニズム

紀伊國屋書店にて、『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)刊行記念オンラインイベントが開催されました。著者の村中直人氏と、ゲストに精神科医・松本俊彦氏を迎え、誰もが陥る可能性がある「叱る依存」について語られた本イベント。本記事では、叱りすぎや盗撮・窃盗癖など、本人も苦しいのに「やめられない」が起きてしまう心と脳のメカニズムについて語られました。

人の心理も「ソフト」と「ハード」の両面から考えることが重要

司会者:ご覧いただいている方からの質問を1つご紹介したいんですが、「心理と神経科学の違いについて簡単に教えていただければと思います」。

村中直人氏(以下、村中):はい、ありがとうございます。本質的なことを言い出すと難しい話になると思うんです。私の中での整理で言わせていただくと、私は発達障害を正しく理解しようとした時に、発達障害の子どもたちの心理をまずすごく勉強したんですよね。どういう仮説があるかとか、実際どういう心理が動いているかを考えた。これは実は、今も私の中ですごく大事にしている1つの側面なんです。

ただ、発達障害が脳や神経由来の特異性からきているとなった時に、心理面はパソコンに例えるとソフトウェアみたいなもので、そのソフトウェアの側面からだけで考えることの限界を強く感じたんです。

じゃあハードウェアの面で何が起きているのかをより知りたいなと思ったんです。それをやっている研究が、脳神経科学や神経認知科学の分野ですね。

なので、聞いていただいているみなさんからすると、パソコンを使う時にソフトウェアの上手な使い方や、スムーズに処理するためのやり方と同時に、じゃあこのパソコンのCPUやハードディスクはどうなんだ、とかの知識もないとパソコンをうまく使えないのと同じで、両面から理解をしていくことがすごく大事だなと思っています。

心と脳で考える「ニューロダイバーシティ」

村中:私はそれを「ニューロダイバーシティ」という文脈でけっこう話すんです。ただ、このハードウェアの科学というのは歴史がすごく浅いんですね。近代脳科学と言われるものは、技術的な問題で、本当にあらゆる学問の中で一番新しいと言ってもいいぐらいの歴史ですね。逆に言うと、待っていてもぜんぜんノウハウは来ないので、自分で情報を取りに行かなければ学ぶことができなかったということになります。

なので、私はどこかで正式な教育トレーニングを受けたわけではなく、我流でやってきました。我流だからこそ怖いので、研究者の先生を見つけては捕まえてディスカッションさせていただいて学んできたという経緯があります。学術的な定義ではぜんぜんないんですけど、一般の方が想像しやすいイメージで言うと、そういうご説明になるかなと思います。

松本俊彦氏(以下、松本氏):僕ら精神科の医者は脳の部分と心の部分、特にどちらかと言うと脳の部分から物事を見るんです。だから、村中先生は心理なので、通常は心というソフトウェアの部分ですが、心理の人なのに、実は脳の部分にすごくお詳しい。

むしろ脳の部分と心の部分をつなげるというか、既存の疾患の枠組みとか、あるいは精神病理学や、あるいは心理学的な説明で追いつかないところを、脳の理屈をドッキングさせることで、逆に非常にわかりやすくなる。

一度知った快感への「期待」は、報酬としての価値が高い

村中:なるほど、ありがとうございます。たぶん私の興味・関心は、メカニズムオタクみたいな感じだと思うんですよね。物事を考えていく時に、どうすればいいかを考える前にメカニズムを知りたいという欲求がすごく強いんです。

メカニズムはソフトウェアから見るメカニズムで説明できることもあるし、ハードウェアから見えるメカニズムもあるし、この両面が合わさった時の仮説の精緻化というか、その楽しみみたいなものにそれこそどっぷりアディクトしている側面はある気がします。

松本:なるほど。その中でいろんな人の学習とか行動変容とかを司るところが、根っこにある報酬系じゃないですか。これに関しては本当にまだまだわからないことが多々あります。

例えば人は心地よいものが報酬になって、ある行動を学習する。例えば薬物を使うことで、「ああ気持ちよかった」と薬物を使うという行動を学習するわけなんだけど。

でも先生の著書に書いてあったのは、実際にその快感を得ることよりも、一回その快感を知った後は「快感が得られるかもしれない」という期待のほうが実はすごく報酬としての……。

村中:価値が高い。

松本:なんでなんでしょうね。

『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)

村中:いや、そのへんは私もものすごく関心事で、それを調べて調べて調べまくっている時に、最近の知見で、1つ私の中で腑に落ちたものがあったんです。

「欲しい」と「好き」のメカニズムの違い

村中:神経科学メカニズムで言うと「欲しい」と「好き」は別のメカニズムなんですね。

松本:そうなんですか。

村中:そういうことがわかっていて。位置的には報酬系の回路の中のすごく近しいところにあるので、連絡はもちろんすごくしているんです。ただ、やっぱり区別することができる。

いわゆるドーパミン系が「欲しい」をメインで司っているとした時に、「好き」はどちらかと言うとドーパミンよりもオピオイド系であったりとか、ちょっと別の神経物質が使われているらしくて。

すごく示唆的だなと思うのは、人間だけではないのかもしれないけど、「欲しい」と「好き」のメカニズムで見た時にどうやら、「欲しい」のほうが発達しているんです。なので領野としても広いし、機能としても活性化しやすい。

たぶんそういう作りになることで、「これが好き」と思ったものを、通常は「欲しい」というメカニズムに移行するわけなんですけども、「欲しい、欲しい」と思うと新たな行動が生まれますよね。新規の行動をすることで学習していくので、そのほうが生存戦略的にすごく有利であるからこそ、「欲しい」と「好き」のメカニズムが分かれていて、かつ、「欲しい」が発達しているということなんだろうなと思います。

生きづらさを抱えている人ほど「叱る依存」化しやすい

松本:さらに先生のご著書の中で、「なるほど。こういう考え方があるのか」と思ったのは、私自身が翻訳して紹介しているカンツィアンの自己治療仮説です。あれを引用しながら、実は「叱る依存」の人たちを責めるのではなくて、やっぱり何らかの苦痛を抱えていて、そこから目を背けたり少し楽になったりするのに「叱る」という行動が、実は叱る本人自体を助けている部分があるというか。

確かに、自分に自信がなかったり自己効力感がなかったり、とても不安だったりした時に、もしかすると叱るという行為によって相手が一時的に行動を変えてくれたりすることが、本人の“癒やし”と言うと叱っている方たちに怒られてしまいそうなんだけれども、不安低減に役立っているとか、先生はそういうことにも触れられていましたよね。

村中:はい、これはすごくあると思っています。なので、「叱る依存」というすごく強い言葉を使っていますけど、これですごく大事なのは別に新しい病気を作りたいわけでも、精神医学に新しい概念を持ち込もうと思っているわけでもなくて。

ただ、人が生きやすくなっていく時のすごくわかりやすいキーワードとして、「叱る」を依存の文脈、つまり「やめられなくなってしまう」という文脈で考えるというのはすごく有益なんじゃないかという仮説なんですね。

そこで考えた時に、どんな人が「叱る依存」化しやすいのかと言うと、たぶん本家本元の薬物依存になりやすいパターンとニアリーイコールの構造があると考えたほうが自然なんです。

ということは、やっぱり余裕がなかったり、ご本人が何らかの生きづらさとか、不全感みたいなものを抱えていれば抱えているほど、叱るという行為にアディクトしやすくなるというか、やめられなくなる。

やめられない状態を作る「欲しい」の暴走

村中:先ほどの「欲しい」と「好き」の対比の話で言うと、「欲しい」が暴走していると「好き」と思える隙がなくなるというか、時間がなくなっていくと。なので、例えば盗撮マニアとか盗撮のアディクションの人は、盗撮したものを見ていないことがあるとよく言われるんですけど。

松本:そうですね。

村中:つまり撮ったものを眺めて、「性的に興奮するために撮っているのかな」と我々は思っちゃうんですけど、違うんです。「好き」の回路はもうその時点ではこてんぱんに「欲しい」の回路にやっつけられて働いていないので、撮ったものを「ああ、これいいな」と眺めている時間はないわけなんですよ。

そうなっていくと、それは親御さんがお子さんにと考えた時に、自分のある種の苦しみに対してアディクトして「欲しい、欲しい」ということで「こうしなさい、こうなってください」という感じでどんどん叱ることにアディクトした時に、そのお子さんを好きという、愛でる時間がどんどん奪われていってしまうことにもつながりかねない構造にあるというのは、すごく思いますね。

松本:なるほど。言われてみて「あ、そうだな」と思ったのは、窃盗癖、クレプトマニアというんでしょうか。万引きが止まらない人も、万引したものは実は使っていなくて家に置きっぱなしだし、俗に言うところの買い物依存の方たちも買う瞬間が一番ハイになって、買ったものは封も開けていないという、先生のおっしゃることにまさに合致してきますよね。

叱りすぎてしまうお母さんの「良き母親」に対する苦しみ

村中:そうですね。なので、何かがやめられなくなる、行動に対するアディクションというのは「欲しい」と「好き」のバランスが崩れて、「好き」が働かず「欲しい」だけがずっと暴走してしまっている状態と、ある種定義することも可能なんじゃないかとは思います。

松本:その暴走してしまう背景に何があるのかですよね。例えば子どもを虐待してしまう、あるいは叱りすぎてしまうお母さん。実はお母さん自身も虐待のサバイバーだったりして、たぶん同じ年代のママさんに比べると、人一倍良き母親になりたいと思っているんですよね。

「良き母親」にならなきゃいけないんだけど、でも子どもが思い通りにならないという焦りの中で叱るのが止まらなくなっちゃっている。でも、本人は決してそれは楽になっているわけじゃなくて苦しいんでしょうけれども、やらないではいられなくなっているんですかね。

「叱る依存」を叱っても、物事は好転しない

村中:「依存」という言葉を付けることによって、もしかすると視聴している方は「これは新しい依存症の一種じゃないか」「私も『叱る依存』じゃないかしら」と思って、「明日依存症の専門病院の予約を取ろう」と思う方がいるかもしれませんが、そういう意味ではないんですよね。

先ほど村中先生がおっしゃったように、新しい医学的な概念を言っているのではなくて、1つの作業仮説で、薬物依存とかアルコール依存とかギャンブル依存と同じように「依存」を付けることによって、「本人も好きでやっているわけじゃなくて、コントロールを失っちゃって苦しんでいるんだよ」ということを、伝えるメッセージなんだろうなと思っているんですけど、そんな理解でもよろしいですか?

村中:ええ、ドンピシャです。本の中でも書いて、この本を書く時にもずっと思っていたのは、叱る人を叱る本にはしたくなかったですし。叱る人が自分を叱る手助けをしたかったわけでもないんですよね。なぜかと言うと理由はシンプルで、それをしても物事は好転しないというか、うまくいかないのは自明だからです。

なので、叱る人を叱らないというか、そういうところはすごく気を付けて、万が一にもそういうふうに読めないようなかたちで本を書こうとはしていました。

松本:そうですよね。だって、今度は「叱る依存」の人をみんなで叱りまくってバッシングするとなんだか……(笑)。

村中:(笑)。完全に論理破綻をしてしまうので。

松本:本当にそうですよね。

批判の“病気”に巻き込まれていないか

松本:ただそうは言ったって、我々は無意識のうちに叱ることとか、あるいは誰かに対して処罰感情を向けることに、知らないうちに巻き込まれちゃうことがあるんですよ。

例えば最近だとロシアのウクライナ侵攻とか。もちろんどう考えても僕はそこに理不尽なものを感じるんだけど、でもすごい声が上がってきたり、時には「なんかそれはやばいよ」と思うような際どい言葉が出てきたりすることもあります。

そのこと(ロシアのウクライナ侵攻)自体を批判することは間違っていないんだけど、「他のシリアとかアフガニスタンとか、あの時にはあまり声を上げていなかったのに、なんで今回は声を上げるんだろうか?」とかね。

たぶんゼレンスキー大統領のパフォーマンスとか主張とか、いろいろ人の心を揺さぶるところがあるんだと思う。だから批判するのはいいんだけど、でもちょっとだけ冷静になりながら、自分もその“病気”に巻き込まれていないかなと見ることは大事かなと思っています。

村中:そうですね。

正義を振りかざす先に、自分の快感を求める気持ちはないか?

村中:その意味では、社会的な常識のアップデートということも本に書いたんですけど、言っていること自体はもちろん間違っていなくて、悪いことを悪いと言っているという事実がある。いわば正義は正義かもしれないけども、「正義を振りかざす先に自分の快感を求める気持ちはないですか?」ということ。

「そもそも正義を求めて発言しているけど、その発言をすることによって何かいいことが起きるんですか?」ということが、今まであまり問われてこなかった。正義は正義だからちょっと言い過ぎは言い過ぎだけど、そこまで言わんでも(いいんじゃないか)と。

その言い過ぎの正義の側、私は本の中では「権力者」という言葉をすごく使いましたけど、権力者側が確かに間違っていることは言っていないんだけども、役にも立っていないことを、攻撃としてやり続けてしまう。

そのことに対する抑止といいますかね。社会的な常識、知識をアップデートすることによる抑止効果は、より良い社会を作っていく上であるんじゃないかなという気はしています。

コロナ禍の不安な社会では、「叱る依存」は誰もが陥り得る

松本:僕らも「叱る依存」ということに、「これは本当に時宜を得た言葉だし、こういう人はいるよね」と思った一方で、じゃあ自分は大丈夫なのかということをどうしても考えてしまって。

例えばコロナ禍になって初回の緊急事態宣言が出た時期は、みんな緊張していたじゃないですか。特に地方で感染者が少ないところだと、感染するとものすごくバッシングを受けた。

村中:そうでしたね。

松本:他県ナンバーの車に対する嫌がらせとか、「マスク警察」とか「自粛警察」という人も出てきた。それはまさに「叱る依存」的な構造があるんだけど、背景にはやはり不安というか、はっきりとわからないけど「怖そうだ」という感じがあって。

そういう意味では「叱る依存」は誰もが陥り得るもの、そしてその背景には不安があるんだろうなと、僕は思っています。これは単に心理学の本とかで収めることはできなくて、一般書として万人に読んでもらいたい。一般書の枠組みで売られているんだろうと思うんですけど、本当に必読ですよね(笑)。

村中:ありがとうございます。この本の企画のお話をいただいてから実際に出版されるまでの間に1年半ぐらいの時間があるわけなんですけども、その企画の段階では「まさかここまでコロナ禍が長引くとは」というところもありました。

やはりコロナ禍も、最初の1年の緊張感から、おっしゃったように2年、3年と、閉塞感がどんどん高まっている。今そのタイミングでの出版だからこそ、いろんな人から、たくさんの反響をいただくという流れがあるように思います。この本の良し悪し以上に、社会的に必要性があるタイミングなんだろうなとは思いますね。

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