誰もが当事者となり得る「叱る依存」を防ぐためのヒント

司会者:本日は『〈叱る依存〉がとまらない』刊行記念オンラインイベントにお申し込みいただきありがとうございます。まずはご登壇のお二方をご紹介いたします。

『〈叱る依存〉がとまらない』著者で公認心理師の村中直人さんと、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長の精神科医 松本俊彦さんです。

村中さんはスクールカウンセラーのご経験から、発達障害など特別なニーズのある子どもたちへの支援や支援者育成の事業を立ち上げ、力を入れていらっしゃいます。松本さんは長年にわたり、日本の依存症の治療・研究を牽引してこられました。

本日はお二人に「叱る」という身近な行為との付き合い方、そして誰もが当事者となり得る「叱る依存」を防ぐためのヒントをお聞きしたいと思います。お二人とも、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

村中:まずは今回の対談をお受けいただきありがとうございます。

松本:いえいえ、どうもありがとうございます。

村中:光栄です。

松本:こちらこそ。

村中:最初に少し、私がいかに松本先生ファンかという話をしてから本題に入ろうと思います。調べたら、一番最初にお話をおうかがいしたのは、2017年に、とある臨床心理士の集まりで松本先生のご講演をお聞きした時でした。それでものすごく頭を殴られた感じがしまして、その後何度か、一方的にではありますけども、ご講演を聞かせていただいております。

松本先生が発信されている、いわゆる薬物依存に関するいろんな情報が私の中に入っていなかったら、たぶんこの本は生まれていなかったですし、「叱る依存」というアイデアにはなっていなかった。この本の恩人のお一人でもある松本先生とお話ができることを、非常に楽しみにしておりました。

処罰感情の充足が快楽になる「叱る依存」

村中:そもそもこの本を読まれた時にどういう感想を持たれたか、疑問や感じられたことを率直に教えていただいてよろしいでしょうか。

松本:この本を読んでいただきたいという話が来て、「叱る依存」という言葉を見た時に、最初は「え?」と思ったんですよ。なぜかと言うと、依存とかはpop psychiatry(通俗精神医学)みたいなものがあるので、その一連の怪しげな本かなと思っていたんです(笑)。

村中:そうだったのですね(笑)。

『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)

松本:でね、ぱらぱらとページをめくっていったら、「あれ? いつも俺が言っているのと似たようなことが書いてある」と目に入るじゃないですか。後ろの引用文献を見たら私の訳書が引用されていて、ちょっと読んでみたら、「いや、すげえ。うわあ、おもしれえ」とすぐに読み終わってしまったんですよね。だから最初はすごく怪しみました(笑)。本当にすみません。

村中:そりゃそうですよね(笑)。

松本:でも読んで思ったのは、僕は薬物依存症の臨床や研究をやっているんですけど、例えば芸能人とか著名人が薬物事件を起こして捕まると、ものすごくバッシングされるじゃないですか。

村中:はい、そうですね。

松本:「このみんなの処罰感情とはいったい何なんだろう?」と思っている時に、「このバッシングをしている人たちは、『叱る依存』なんだ」と気づくと、ブーメランのように叱っている人たちに返ってくる。ちょっと痛快な、胸のすく思いがしましたね。

村中:ありがとうございます。本の中にも書きましたけど、やはりこの本のテーマである「叱る依存」は、人間にとっては処罰感情の充足が快感なのだとか、報酬系回路を活性化させるのだという研究結果で、(松本氏の発言と)つながったところがあるので、おっしゃるとおりですね。

薬物乱用防止キャンペーンの「ダメ。ゼッタイ。」がいかに駄目か

松本:しかもその中で、ハームリダクション(すぐに薬物をやめられない時、当事者の健康被害を最小限に抑えることを優先するアプローチの方法)のこともそうだし、日本の薬物乱用防止キャンペーンのキャッチコピーの「ダメ。ゼッタイ。」が、いかに駄目なのかということをきちんと説明してあって、「心理が専門の人とは思えない」と驚いたんです。

僕の中で大阪の臨床心理士というと、精神分析とか、ユング派というイメージがあったので。「でもこの人、けっこう神経科学に詳しいよね」と思いました。

村中:そうですね。

松本:「大丈夫か」と思いました。

村中:(笑)。別な意味のご心配をありがとうございます。

松本:「大阪で生きていけるのか」と思ったんですよね。

村中:(爆笑)。がんばって生きております。私もいわゆるザ・大阪というか関西の臨床心理学の大学・大学院でお世話になったので、もちろんそういう基礎トレーニングはすごく受けているんですけれど。

「罰が一番有効なんじゃないか」という誤解

村中:やっぱり今の私を形作る一番の背景は、発達障害、あえて「圏」と言わせてもらうと、発達障害圏の子どもたちやその保護者。あと、最近だと成人の方との、出会いですね。

このいろんな生きにくさとか問題に直面する、支援者として関わるということをやっていく上で、やっぱり神経科学や認知科学を避けては通れないなと思ったんです。発達障害と呼ばれるものは、脳や神経由来の特異性の問題なので、そこを学び始めたらそのままずぶずぶとどっぷり、というところはありますね。

松本:でも、発達障害のお子さんを抱えた親御さんは、本当に日々悩んでいると思います。それから非行少年の矯正教育、あるいは薬物依存症もそうですよね。誰かの行動を変えたいと思った時に「罰が一番有効なんじゃないか」と直感的に思うこと自体は、よくある発想ではありますよね。

ただ、実際にはそうならない。例えば薬物なんかも、最初の一回の犯罪を防ぐのには厳罰政策は役に立つんだけれども、むしろ再犯率は上がっていてしまうというエビデンスがどんどん出ているんです。その中で先生が、報酬系とか神経科学的な知見で説明されていたのはすごくわかりやすくて、僕自身もとても勉強になりました。

村中:ありがとうございます。

なぜ「バッシング」がエンタメ的に盛り上がるのか?

松本:その中で僕が思ったのは、「なんであんなにバッシングが盛り上がるんだろうか?」ということ。先生も文章の中で「現代版コロッセオ」と書いていますよね。本当にその通りだと思います。実際歴史的に見てみても刑罰をみんなの前でやって、それが一種のエンターテイメントになっていると書いてありましたが、本当にそうですよね。

なぜ人間は人が罰せられるところが……。いや、気持ちいいと本人たちは自覚していないけど、どう考えてもわくわくしているという感じだし。芸能人の薬物事件なんかがあると、視聴率が上がりますよね。なんであんなに気持ちがいいのか。

本を読めばわかるんですけれども、今日参加されている方たちの中には、まだ読んでいない方もいると思うんです。ぜひ、そのあたりの神経科学的なメカニズムをお教えいただきたいです。

村中:今回は「叱る」ということがテーマだったので、あの本ではいわゆる処罰感情の充足という観点から書いたんですね。そもそもなぜそういう神経メカニズムが人間に備わっているのかに関しては、いろんな仮説があるみたいなんです。私が腑に落ちたのは、生物が生存していく上で有利な点があるからだ、という説ですね。

テクノロジーの進化で起きている、攻撃的行動機能の暴走

村中:1つは本の中でも書いた、相互に抑制し合うことで、社会的規律を守っていくことに対して何らかの役割を果たしているということ。あと、本には書かなかったんですが、他の仮説としてはいわゆるヒエラルキーを守るということ。

階層構造を守る時に、猿山の猿がけんかするみたいな感じで、攻撃行動でヒエラルキーを(維持する)。生物学的に見ても1つ生存の利点はあるんだと思うんですね。

ただ、本にも書きましたけど、人間は高度に社会化された生物で、かつ、テクノロジーがものすごく進みましたよね。それこそ今私たちがこうやって普通のボリュームで話している声を、何百人の方に同時にご視聴いただいているということ自体が昔ではあり得なかったので。どうやら本来持っている機能が暴走しやすくなっているのではないかというのが大きい気がしますね。

松本:確かに、本当に暴走して増幅して(バッシングの)声がぐわっと出てくるというか。実際僕が治療を担当したある著名人の薬物問題を抱えている方が、うっかりエゴサーチをしてしまうと、もう本当に死にたくなってしまうと言っていたんですよね。あの増幅効果はすごいですよね。昔みたいに大声でしゃべらないと伝わらない世界だったらわかるけれども、今はそうではないですものね。

攻撃せずにはいられない“依存症”のネズミの実験

村中:そうですね。ちょっと論が飛躍するのであの本の中には挙げなかったんですけど、叱る、つまり規律違反を罰そうとするというよりは、もうちょっとダイレクトなアグレッション、攻撃性は、よりアディクティブ(中毒を起こす)な側面が強いという研究報告もあります。

これは実は本を書いた後に調べて気付いたんですが、薬物依存の研究でよくやる依存症ラットと同じ手順で、攻撃性に対する依存症ラットを作ることができるみたいなんです。(依存症ラットを作る手順と)ほぼ同じメカニズムがラットの報酬系を刺激して、他のラットを攻撃せずにはいられない攻撃ネズミを、技術上作ることが可能だという研究もあります。

最初は規律違反を罰するところだったものから、それが繰り返されることによって徐々に、そもそも他者を攻撃することに対する依存性が高まっていくといいますか。やめられない、止まらないというところまで発展していく。

もちろんラットを使った実験が人間にどこまで当てはまるかは、ちょっと慎重に考えなくてはいけないんですけれども。でも実感としてもあり得ない話ではないなと思います。先生がおっしゃったようなバッシングの話とかを見ている限りは、そういう面も感じますね。

松本:つまり攻撃的な行動自体に、ある種の刺激性みたいなものがあるということなんですね。それに大義名分として「いや、だってこの人悪いことをしたから」というのが後付けで付いてくるというか。

「叱る」と「怒る」を区別するのは、叱る側のナンセンスな理論

村中:そこに関連する話としては、「叱る依存」の話をした時のよくある反応の1つに「『叱る』と『怒る』を区別していないじゃないか」という話がありますね。

松本:保守系の議員とかはそういうことをすぐに言いますね(笑)。

村中:そうなんですね。ただ、「叱る」と「怒る」を区別することがナンセンスな理由が、大きく2点あって。本に書いた「それは叱る側の論理であって、叱られる側からしたら何の違いもないよね」ということがまず1つですね。ネガティブな感情を引き出されるという意味では、叱ろうが怒ろうが受け手にとっては何も変わらない。

実はもう1点あって、叱る側の状態も違うんですね。というのは、怒らなくても攻撃はできるわけです。叱るということ自体は悪いことをした人に対して罰を与えるという心持ち、何らかのネガティブなことを投げ掛けるということなので、心理としてはやっぱりアグレッションに近い。

例えば格闘技って相手が憎くなくてもアドレナリンが出て戦うわけじゃないですか。これは怒ってはいないわけですね。だから私は怒ってはいない。自分の感情にコントロールされてはいない。でも冷静に、「こいつが駄目だから、こいつのために今叱っているんだ」というのは、まさにそれがその瞬間、すでにアグレッションの表れである可能性が高いんです。

それを「私は怒っていない。叱っているだけなんだからいいでしょう?」というのは、その点から考えてもちょっとナンセンスだなと言えるんじゃないかと思いますね。

叱る行為をエスカレートさせる「幻の成功体験」

松本:本来たぶん「叱る」行為をする方というのは、叱られる人に対して行動変容をしてもらいたいと思っているんですよね。ところがそこに何か嫌な思いをさせてやりたいというのが乗っかるというか、嫌な思いをさせることが行動変容につながると信じているところもあるわけですよね。

先生の本に書いてあったんですけど、これって要するに、そこで本人が反省したり泣いたり、あるいは行動変容するのに対してだんだん本人が慣れていくというか。だから、叱ってもあまり本人が行動を変えなかったり、あるいは感情的に何か反応してくれなかったりすると、より攻撃的な部分を増やしていかなければいけない。

最終的にはその人がだんだん、学習性無力感、要するに無反応になってきたりすると、時々そこで事故が起きたりしますよね。

村中:そうですね。このエスカレートしていくところは本当に怖いところだなと思うんですよね。本の中にも書きましたけど、やっぱり幻の成功体験を最初に持ってしまうのがすごく大きなことだなと思うんですよね。

だから叱って、目の前でお子さんとか部下が泣くぐらい反省したそぶりを見せて「もう絶対しません」と言うと、「この子は学んだ。ようやく成長してくれた。わかってくれた」という、ある種の快感を伴う成功体験が生み出されるわけなんですが、まあ幻想ですよね。

それで本当に成長してくれることも起こらないわけではないかもしれないけど、ものすごくレアケースです。けっきょく過去の成功体験を求めて、また(相手に)同じようになってほしいと思って、どんどん深みにはまっていくことは、よくあるパターンな気がします。

体罰が招く「暴力の連鎖」

松本:先生の本に関する書評でもちょっと触れさせていただいたんですが、僕自身は1980年代の前半に中学時代を過ごして、当時は校内暴力がすごく問題になっていたんですよね。あちこちでニュースになっていました。また、時代を感じてしまうんですが、子どもたちの間にツッパリブームというのがありましてね(笑)。

村中:ありました。

松本:「不良のほうがかっこいい」みたいなのがあったんです。そういったことを未然に防ごうと、まだそれほど不良化していなかった僕らの中学で、先生たちはけっこう体罰をやったんですよ。授業中とか本当にいつもビビってましたし、給食の時間に大声で笑ったりするとビンタされていたんですよね。

でもそれがしばらく続いて、本当に学校へ行くのがつらいなって思った頃に、ある1人の不良が逆ギレして先生をぶん殴ったら、そこからうわっと変わってしまったんですよ。その時に生徒たちの攻撃性に歯止めがなくなって、先生たちは暴力を振るってしょっちゅう学校にパトカーが来るような状態で。

けっきょく先生たちが子どもたちの行動を変容させようと思って一生懸命やっていたその暴力は何だったのかという。行動変容するどころか逆の暴発を招いてしまった。その時はけっこう子どもたちも残酷だった気がするんですよ。

村中:そうなりますよね。

松本:だから、この暴力の連鎖って怖いなと思います(笑)。そういう意味でも、この「叱る依存」という言葉がもっともっと広く広まってほしいなと思っているんですよね。

良かれと思ってやる「叱る」行為が、社会に及ぼす影響

村中:そうですね。おっしゃることはすごくよくわかります。本の中にも(書きましたが)、叱られている側の処罰感情、充足欲求がどんどん高まっていくというのはすごくあると思うんですね。

理不尽に叱られる。それは、叱られている側からしたら「何言ってんの」という体験で、何か相手に対して罰を与えたいとか、天誅を下したいみたいな気持ちがどんどん高まっていく。

先生がおっしゃったところでいくと、権力構造が「叱る」のを支えていたのが、ダムから水があふれるように決壊した瞬間に、権力構造がひっくり返る。

今度は子どもたちが権力を持つ。暴力という名の権力なんですけれども、権力を持って、今までためにためていた処罰感情を、「あれだけのことをやった人間だから、これぐらい報復されても当然だ」というかたちで(発散していく)。先生がおっしゃるような、より残酷というか、ドライな攻撃性に変わっていくのは、そういう理屈で考えてもすごく理解できるし、そういう構造なんだなと思います。

松本:ちょうど20年くらい前から、僕は定期的に少年院に行っていて、いわゆる非行や犯罪を犯した子どもたちと会っています。確かに粗暴な犯罪、時としては冷酷とも言えるような暴力で入ってくる子どももいるんですけど、やっぱり生育歴の中で彼ら自身が過剰な暴力を受けてきた歴史があったりして、被害と加害の連鎖が作られているというか。

だから叱るという行為は、そもそもは本人に良かれと思ってやっているはずなんだけど、そこに余分な感情や攻撃性が乗っかることによって、社会全体が、害をなすおかしな方向に行ってしまっている感じがします。