男女の不平等を「作らない」ための研究・実践

竹内慶至氏(以下、竹内):さて、今日のメインタイトルに「社会を変える/人を育てる」と入っていますが、最後に「教育を通じてどういう社会を作りたいか」をちょっと考えておきたいなと思います。

社会を変えるってそもそもどういうことなのかとか、教育を通じて社会を変えることはできるのか、教育にそこまで背負わせていいのかとか。ちょっと堅い言い方をすれば、「社会変革と教育の関係をどう考えるか」という感じになると思うんですが。これも、大滝さんからお願いします。

大滝世津子氏(以下、大滝):私は「社会学は社会を変えられそうだな」と思って、社会学をやり始めたと思っています。実際に変えられるかどうかはわからないんですけど、自分が博士論文(後に『幼児の性自認』として書籍化)を書いたのは、社会にできあがってしまっている男女間の固定的な上下関係を、壊そうとするぐらいだったら、そもそも作らなければいいんじゃないかというところから始まっていて。

じゃあどうしたら作らないようにできるのかを考えるためには、まず現状を捉える必要があると思って。で、それによってどこをどう工夫したり変革したら、作らない道につながるかを検討できるはずだと思って書いた論文だったんですね。

『幼児の性自認―幼稚園児はどうやって性別に出会うのか』

なので私の今のフェーズは、それを研究して、実践してみようというところにいるという位置づけです。この本(『幼児の性自認』)ではジェンダーに特化したんですけど、実際にお子さんと接していくとジェンダーの問題だけじゃなく、障害のある方とかマイノリティとか、いろんなことに接することになっていくんですけれども。

私は、誰もが良いところとか得意なところ、素敵なところを持っていて、それを見つけて伸ばすことで、誰もが自分らしく生きられる社会の実現につながっていったらいいなと、ふわっと思っているところです。

でも現在の教育制度の構造の中では、いかにそれが難しいかも実感しているので、そこに問題意識を持って、既存の考え方にとらわれないかたちの実践を模索しているところですね。

なので人を変えるとか、こういうふうにすると言うよりは、条件さえ整えば伸びたはずの能力を、いかにすれば阻むことなく伸ばせるか、翼を折らずにいけるかを検証している状態。いかにコントロールをしないかを模索している感じです。

上野千鶴子氏(以下、上野):セッチ(大滝世津子氏)のその本、名著です。

大滝:えっ、ありがとうございます(笑)。

上野:幼稚園の先生たちの集まりでちゃんと紹介しましたよ。

大滝:ありがとうございます、うれしい(笑)。

田舎の高校生が感じていた「抑圧」を言語化してくれる感動

竹内:続いて開沼さん、いかがですか?

開沼博氏(以下、開沼):社会学に限らず、(学問が)社会にインパクトを与えることはいろんなレベルであると思いますが、やはり学問はいろんな意味で有用で、ちゃんと学問をベースにした教育が大事だと思ってやっているつもりです。また福島の研究など、いろんなレベルの教育にも携わっています。

金融業の人や地元の公務員の人、あるいは農業をやっている人など自分とはぜんぜん違うジャンルの、教育を求める人たちと多く会える状況・立場にあるので、そういった人たちが自分の考え方を整理したり、アウトプットの仕方を工夫したりする時に学問が役立つことは常にあるのかなと思っています。

そういう(学問の)基礎は、1回身につければその後急になくなるものでもないので、大学で、学部の時から院にかけて学べたことは、本当にありがたい環境だったなと思っています。

竹内:今の話の流れでいうと、僕もそうですけど、なぜ開沼さんはある意味で方向転換をして社会学者になろうしたんですか。今の答えだと、別のメソッドでも良かったわけですよね。

開沼:これはいくつかのところに書いていますが、高校生の時に宮台真司を読んで感動して、さらに上野千鶴子も読んで。学部の時に上野千鶴子が文学部の説明に来て、「ゼミに入れてくれ」と言ったのが2004年の話です。

何で田舎の高校生が宮台真司と上野千鶴子に感動するのか。やっぱり田舎の抑圧を感じたり、もろもろ将来が見えないという時に、それをスパッと言語化してくれる感動があったからだと思っています。やっぱり政治学や経済学が身近なことを扱っているところは、大きかったと思いますね。 

上野:開沼くんは哲学科に進学したのね。

開沼:はい。学部の時はそうでした。

学問者の使命として新たなジャンルを開いた「福島学」

開沼:そのあとも情報学系の大学院に行き、今も細かい話はいろいろありますが、災害学の流れを汲むポストなんです。文系の災害をやるジャンルにいるので、正確に言うと社会学の授業をやる必要もなかったりします。そういった経緯なんで、別のメソッドでも良かったし、相当な雑種だと思っています。でも、新聞でインタビューされると、勝手に向こうが社会学者と付けたりすることもありますね。

上野:開沼さん、福島学って看板上げたんだから、降ろすなよ。

開沼:はい。災害のところは、向こう30年ぐらいやるというミッションを持っておりますので。そこは上野先生の何という言葉でしたっけ、「1人で先生がいると思うな。何かジャンルを開くことが、学問者の1つの使命なんだ」というふうにおっしゃっていただいたことを、結果的に忠実に(笑)やろうとしているのかもしれないですね。

『はじめての福島学』(イースト・プレス)

竹内:ありがとうございます。僕も開沼さんとはまたちょっと違ったかたちですけど、もともと学部の時は教育学部でした。社会学を選んだのは、方法論にすごく魅力を感じたというか、社会学のパワーに魅力を感じたというのがあります。僕は社会学が社会を変えるところを見てきたという思いがあって。

昔「末は博士か大臣か」という表現があったように、議員になるのも社会を変える手っ取り早いやり方だとも思うんですけど、それとはまた違うやり方で社会を変える方法が、研究者というか大学の教員にはあるかなと思って、選んだところがあります。

おそらく多くの研究者は、研究者になろうと思って大学の教員になっていると思うんですけど、僕の場合は大学の教員になろうと思って研究者になったという、先ほどの話で言うと、逆のパターンなので。

“洗脳装置”から脱却する教育をやってきた

竹内:上野ゼミにいた2004年は、『サヨナラ、学校化社会』という本が出た後だと思うんですけど、あの本に上野ゼミってどんなものなのかというのが書かれていました。あんまりそこから入る人はいないと思うんですけど、僕が上野さんの本で一番最初に読んだのは『構築主義とは何か』という本です。そこで広い意味での方法論に社会学の魅力を感じて、それが社会を変える力になると思ってやっている感じですね。

上野:私もしゃべってもいい?

竹内:はい。お願いします(笑)。

上野:別に、社会を変えたいと思って教育者になったわけじゃない。教育というのは私のただの飯の種だから、給料分は働こうと思った(笑)。でも、あらゆる教育って洗脳装置なんだよね。じゃあ私がやってきた教育が何かというと、脱洗脳をやってきたのよ。社会学は特に常識の関節外し技なので、当たり前を疑う、批判的な知性を身に付けてもらいたい。その先に、自由な人間になってもらいたいと思った。

私は東大に来る前、地方の弱小私立大学の教師だったから、大卒であることが自分の看板にならないような人たちにどうやって生き延びる知恵を身に付けてあげられるかというので、俄然教育者に目覚めました。

東大生に対しても同じことを考えた。東大卒ブランドが何の効果も持たない場所って、世界中にいっぱいあるから。そういうところでも、ちゃんと生き延びていけるように、知識じゃなく、知恵を付けてあげたいと思った。教育の基本のきはそれだと思う。

大人にウケることをやる「忖度探求」の問題

竹内:いろいろ重ねていきたいところもあるんですが、質問も多数いただいて、長文の質問もいくつかあるので、それに答えながら残りの時間を過ごしていきたいと思います。

探求学習に関して、すでに「忖度探求」という言い方があるそうです。内申点とかの問題もあると思うんですが、要するに高校生が教員の喜びそうなルーブリック(評価基準表)で高い評価を得られそうな探求をやるという問題が起こっている高校があって、それに対してどう指導すべきかを考えられていると。

もう1つ同じく探求についての質問があり、これは「なんちゃって探求」になっているという話ですね。高校生なら高校生ができるレベルのフィールドワークを行えば良いのではないかと。

でも(高校では)フィールドワークはやっていないと思うんですが、開沼さんはどう思います? 探求で高校に呼ばれて、高校生とフィールドワークをやっていますか?

開沼:僕が行くのは被災地の高校とかなので、福島第一原発の中に行くとか相当ハードなことをやったりもしていますが、忖度探求はよくありますね。震災直後はあまり具体的なことを言うことはできないんだけれども、ある面では演劇をして泣きながら「私たち苦しんでいるんです」みたいなのをやらせてみたりとか。

その反動で最新の状況は逆にふれてきて、「私たちは被災地の子どもという役割を背負わされてきた」みたいに言うと、大人にウケるのがわかってきて、逆にそれを言い過ぎることもあります。各々に自覚はなくとも、歴史的に見た時にセルフオリエンタリズムがさらに巧妙に強化されていく流れが見えます。

これをどんどん突き詰めていって、「過激化するんじゃないの?」とか、「もっと外に開こうよ」という専門性は必要なのかなと思いますが、それは大学に来る前にむちゃなことをやろうとしている結果だから、構造的に厳しいのかなと思っています。

フィールドワークに「高校生らしい」があるのか?

竹内:大滝さんはどうですか?

大滝:そうですね。高校生らしいレベルのフィールドワークと書いてあるけど、それってどういうことだろうと思いながら読んでいて、フィールドワークに「高校生らしい」や「高校生らしくない」があるのかな…?と思うんですよ。

1次情報は1次情報だし、そこは大学生だろうと高校生だろうと、同じように向き合っていけばいいし、1次情報を得たんであれば、ちゃんとした手続きを経て、研究のようなかたちに昇華させればいいと思うんですよね。

だから一番忖度的じゃないかたちにしたいなら、やっぱり自分で情報を取りに行くことから始めたらいいのかなと思いました。

開沼:「大学っぽい」こととか、「GAFAっぽいことをやればいい」が、どうしても「ぽい」というところを超えられない何かがあって、それは機能が違うんじゃないかなと。大学に来る前にやるべきことをしっかりやったらと言うと、保守的に見られるかもしれないけど、そっちに返ってきちゃうのが、現場を見ての僕の感覚です。

大滝:そういう認識になると、小学生でもできると先生がおっしゃっていたことの意味とつながっていくと思うのね。そこをどう考えるか。

優等生は、親や教師の期待に応える「不自由な人」

上野:私はセッチの言うことがものすごくわかるな。高校生の段階でとか中学生の段階でじゃなくて、どんな段階だって大事なのは、フィールドワークというより1次情報。自分の目と手でつかんできた「1次情報をゲットする」が基本のき。それを基に問いを立てて解くということが「探究」だから。「忖度探求」「なんちゃって探求」って聞くと、みんな優等生で、結局親や教師の期待に応えているように聞こえる。

私の言う自由な人材は、そのまったく反対。優等生って本当に不自由な人たちなのよ。私は東大でつくづくそう思った。東大生って親や教師の顔色を見て、その期待に健気に応えてきた優等生たちだからね。それをどうやって脱洗脳するかは一苦労でした。

竹内:今の大学生や高校生は洗脳度合いがたぶん僕ら世代以上にひどくなっていると感じています。今は総合選抜やAOが広がっているので、親にも教員にも自分たちをよく見せないと内申点が稼げず、望む大学に入りにくくなるというのがある。かつ、友人に対してもインスタ文化みたいにいいところだけを見せるというか、困っているところを出さない、見せないということが広がっていると思いますね。

『情報生産者になってみた ――上野千鶴子に極意を学ぶ 』(ちくま新書)