人類史に残る200冊を紹介した『読書大全』の著者が登壇

堀内勉氏(以下、堀内):多摩大学社会的投資研究所の堀内です。みなさま、お忙しいところ大勢の方にお集まりいただきまして、どうもありがとうございます。今日は、グロービス経営大学院(以下、グロービス)経営研究科 研究科長の田久保(善彦)さんにお招きいただきました。田久保さんとは経済同友会など含めてご一緒する機会も多く、いろいろなかたちで交流を持たせていただいています。

私が執筆して2021年4月1日に発売しました『読書大全』という本を題材に、1時間半ほどウェビナーをやらせていただきたいと思います。最初に50分ほど私の話をしてから対談という流れで進めていきます。「ビジネスリーダーとしての羅針盤を持つために」ということで、この本を1つのとっかかりにして、ビジネスリーダーとしての人生について、みなさまと議論をさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

まず、先ほどお示ししましたのが『読書大全』でございます。コロナの期間中に10ヶ月ほどかかって書き上げました。人類の歴史に残る200冊というのを取り上げて書いたんですけど、4月1日に発売してからもう6刷りになりまして、意外に売れ行きがよくて。こういうのを作っていただくことになりました。

もともと、山口(周)さん、孫(泰蔵)さん、冨山(和彦)さんに、帯の推薦文を書いてもらっていました。その後、本屋さんに宣伝のPOPがあると思うんですけど、売れ行きがいいということで出版社のほうで、ヤフーの宮澤(弦)さんと、エールの、元ほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)の篠田(真貴子)さんにも書いていただきました。

堀内氏の華麗なる経歴

堀内:この本を書くことになったきっかけも含めて、自己紹介がてら、私の人生の振り返りからスタートさせていただきたいと思います。「自己紹介文を書いてください」と言われると、普通はだいたい学歴と職歴を書くことになると思います。学歴を申し上げますと、私立の麻布中学・麻布高校から東大の(法)学部を出て、ハーバードの法律大学院を出ました。

リーダーシップ教育という意味では、ISL(Institute for Strategic Leadership)というリーダーシップ教育と、Executive Management Programでは、東大のエグゼクティブコースに通いました。

職歴としては、今はみずほ銀行になっていますが、日本興業銀行という銀行に入りまして、興銀証券、ゴールドマン・サックス証券。それから不動産に転じて、森ビル・インベストメントマネジメントで社長をやってから、森ビル本体のCFOをやりました。

森美術館やアカデミーヒルズなども担当していまして、そこでアカデミックな世界の人たちとけっこう知り合いになって。今、多摩大学で社会的投資研究所というのを立ち上げて、教授兼副所長をやらせていただいています。

それから、ボルテックスという不動産会社の100年企業戦略研究所。企業の持続可能性や長寿企業の研究所の所長をやらせていただいております。また、リゾート会社の会長とか社外取締役、学校の理事・評議員。母校の麻布学園評議員や、日本財団系の社会変革推進財団(SIIF)と言われている組織の評議員もやらせていただいています。

あと、アートがけっこう好きなので、川村文化芸術振興財団の理事とか、アジアソサエティのジャパンセンターのアート委員会共同委員長など、いろいろやらせていただいてます。

学歴と職歴は「他人の目から見た人生」に過ぎない

堀内:だいたいこういうふうに学歴と職歴の自己紹介をすると、「堀内さんってすごいエリートですね」「我々とぜんぜん違うから、別の世界の人ですね」みたいな話になって。そこから話が弾まないことがけっこうあるんです(笑)。そうしたことから、外部からの評価と自分自身の評価を、少し分けて考える必要があるんじゃないかなというお話をして、そこから読書の話に入っていきたいと思います。

「学歴と職歴を書いてください」というと、今私が申し上げた自己紹介のようになるんですけど、それは結局外部からの評価なんですね。世の中でどういう立場にいたかということを、ただ並べているだけなので。それって、要は他人の目から見た人生ですね、ということなんです。

じゃあ本当に大事なのは何かというと、自分自身の評価であり、自分自身の生き方なのではないかということです。私の自己紹介がてら、自分の人生について語らないと『読書大全』を書いた理由もなかなかご理解いただけないと思うので、前半この話をさせていただきます。

必死にもがいて、この年までなんとか生きてきましたけど、ビジネスマン人生を振り返ってみると、本当に道に迷うような体験の連続でした。「自分は何者なのか?」「自分はどうやって生きたらいいのか?」ということをひたすら迷いながら、なんとかここまでたどり着いてきたということなんですね。

興銀でバブル崩壊、森ビルでリーマンショックを経験

堀内:時系列的に申し上げますと、さっき申し上げたように1984年に興銀に入りました。これは今はもうなくなっていて、みずほ銀行になっています。その後、1990年からバブルの崩壊が始まっていますが、本当に危機的な崩壊が始まったのは1997年、1998年で、ここの直撃を受けます。

それからゴールドマンに転職して、森ビルに転職して、森ビルにいる時にはリーマンショックがありました。1997年、1998年は日本の金融危機でしたが、2008年は世界的な金融危機でした。その後に、先ほどの東大のEMP(Executive Management Program)に参加して、そこから資本主義研究会を立ち上げます。これも後でご説明します。

それで、2015年に森ビルを辞めて独立したというかたちなんですね。このスライドの青い文字のところが、みなさんにご説明した私の人生の肩書的なものなんですけど、私が本当に体験したのはこの赤い字の部分なんです。

今はもう三菱地所が新しいビルを建てて、「丸の内テラス」というビルになってる場所にもともとは日本興業銀行の本店がありました。覚えていらっしゃる方も少なくなっているかもしれないですけど、1997年、1998年のバブル崩壊で、四大証券と言われたうちの1つの山一証券が潰れるんですね。

社長さんが「社員は悪くないです」と言って号泣し、私も興銀の経営企画にいて、山一が潰れるのを目の当たりにして、本当にショックでした。それでメガバンクというのが誕生していく。今は3メガと言われてますけど、このうちの1つがみずほですね。富士、第一勧銀、それから日本興業銀行の3つがくっついて、みずほ銀行ができました。

上司の接待汚職事件の巻き添えで、取り調べと悪夢の日々

堀内:その中で私が何を体験したかをお話していきます。銀行の自己資本比率というのがすごく重要だというのは、金融をやられている方はよくご存知だと思います。1997年から1998年に、興銀の総合企画部という、経営企画の部署で、自己資本対策、信用力を表す基準になる格付け、それから株主に対してのIR(Investor Relations)というのをやっていました。

その時に、これもご記憶にあるかどうかわかりませんが、大蔵省の接待汚職事件というのが起きます。この間も、総務官僚が菅総理のからみで接待を受けて問題になっていましたが、要は厳しい公務員の倫理規定ができたきっかけになった事件ですね。大蔵省の過剰接待です。

私はまだ担当者だったので、接待をアレンジしていたような立場でした。実際の接待をやっていたのは上司たちなんですけど、私自身、その関係で東京地検特捜部に28回呼び出されて、霞が関の東京地検で取り調べを受けることになります。

いわゆるノーパンしゃぶしゃぶ事件というやつなんですけど。誤解のないように申し上げておきますが、私はノーパンしゃぶしゃぶには行ったことがなくて、「それ、なんですか?」と聞かないと分からないというような話だったんです。現実的には、銀行の幹部と大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶに行くとか、まあ非常に過剰な接待を繰り返してたんですね。

私も東京地検に毎日のように呼び出されて、逮捕される夢を毎日毎日見て、毎日夜中の2時半頃に必ず飛び起きる。そうすると、もう頭も背中も汗がびっしょりという状態でした。最終的には元上司が、接待汚職事件で東京地検特捜部に逮捕されることになります。

私は先ほども申し上げたように、まだジュニアなポジションだったので、そのまま起訴されることも逮捕されることもありませんでした。しかしその過程で「銀行ってなんなんだろう?」と思い始めて、銀行に絶望して。私は資本市場の仕事が長かったので、ゴールドマン・サックスの人たちとは昔から親しくて、誘われて転職することになりました。

一生懸命尽くした銀行から「裏切り者」と呼ばれ、妻は家を出る

堀内:個人的には、本当に自己資本とかIRとか格付けとかで銀行を一生懸命支えながら、東京地検特捜部の対応もし、刀折れ矢尽きるという感じで「ちょっともう銀行ではやってられないな」ということで「辞める」と言ったんです。

経営企画の人間が会社を辞めるというのは、もう「裏切り者」だということで、人事部長に呼び出されて、「お前はなんだ」という感じで激しく怒られました。「こんなに銀行のために尽くして、こういう言われ方をするんだな」ということが、非常にショックでした。

それまでは、辞めるというと「何か事情があって辞めるんだね」「がんばってね」という感じだったんですけど、「お前はあまりにも銀行のことを知りすぎてるから」といって、初めて守秘義務契約を結ばされる。この頃から、「こんなに銀行のためにがんばってきて、これか」と、非常に気分が落ち込むことが多くなり、うつ状態になりました。

でもその頃は、自分がうつになるということ自体が理解できていませんでした。「まあ、ちょっとなんか疲れているんだろうな」という感じで、精神科に行って薬をもらって、薬を飲みながらゴールドマンで働いていました。

それでもやっぱりイライラすることがすごく多くなって、情緒不安定になって、夫婦喧嘩が絶えなくなりました。そうすると、ある日突然、家に帰ったら配偶者がいない。荷物も引っ越しでごそっと持っていったみたいに家の中が空になってて(笑)。「どうしたんだ?」と言うと、「もう帰りません」と言われ、離婚届が送られてきて、「しょうがないな」ということでそれにサインして送り返しました。

考えてみたら、銀行のためにこんなにがんばって裏切り者と言われ、自分はうつになり、それで奥さんは逃げていく。「これで生きている意味って本当にあるのか?」ということで、悩む日々でした。本当にもう「死のうかな」ということを真剣に考えていた時期がありました。

絶望から立ち直るきっかけとなった、山崎豊子氏の小説

堀内:その時に、どういうきっかけで私がそこから立ち直っていったかという話をしたいんですけど。これは『不毛地帯』という小説なんですが、我々の世代のビジネスマン必読の小説家、山崎豊子さんの作品です。実際にあった事件を題材に小説を書いていた方ですが、2013年に亡くなられています。

『不毛地帯』は、シベリア抑留された日本軍人の話です。陸軍きっての秀才と言われ、陸軍大学を首席で出て、陸軍の大本営にいて、敗戦とともにシベリアに抑留された、瀬島龍三という人がモデルになっています。その人の『幾山河』という本がありまして。「瀬島龍三の本を必死に読みました」と言うと、「あの人は日本のフィクサーで、なんか悪いことしてた人でしょ?」と言うような人もいて、誤解されることもあるんですけど。

私は彼のシベリア抑留の話がすごく心に響いたんです。一部抜粋してきましたが、要は極限状態だったということです。シベリアで多くの日本人が亡くなりました。それで、この一番下に書いてあるように、「軍隊での階級、企業の階職などは組織の維持運営の手段にすぎない。人間の真価とはまったく別である」ということが書いてあったんです。

本当にそうだなと思いました。私も、ただひたすら銀行で出世することばかり考えてきて、結局振り返ってみると、「自分ってなんだったのか?」とか「自分の人生ってなんだったのか?」と。銀行で部長になろうが常務になろうが頭取になろうが、それがなんなんだと。「人間の本質って、もうちょっと別のところにあるんだろうな」ということを思い知らされました。

考え方を180度転換する必要性を知った世界的ベストセラー

堀内:それからもう1冊、必死に読んだのが、すごく有名な(ヴィクトール・E・)フランクルの『夜と霧』ですね。左側がフランクルが書いた小説です。ドイツ語の原題は『夜と霧』ではなくて、「精神科医が収容所生活を生き延びる」というようなタイトルでした。英語は、「人生の生きる意味を探す」というタイトルです。

右側はアウシュヴィッツを取り上げた、有名なドキュメンタリー映画です。そのドキュメンタリー映画が『夜と霧』というタイトルだったので、(フランクルの小説の)日本語の翻訳は『夜と霧』というタイトルになったんですね。

これはヒトラーというひどい総統が、ゲシュタポ(秘密警察)を使って、反政府の人間を夜と霧に紛れて拉致するという映画でして。知らないうちに反政府の活動をしていた人がいなくなって、二度と帰ってこないというところから、『夜と霧』というタイトルになっています。

フランクルが収容所を生き延びたという話の中に、私も考えさせられる深い文章がありました。ここにあるように、強制収容所に入れられていても、「与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由は奪えない」。

重要なのは、「生きる意味についての問いを180度転換することだ」と。「私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら生きることが私たちから何を期待しているのか。それが問題だ」と言っているんですね。

「コペルニクス的転回」とカントが言った哲学用語がありますが、まさに180度考え方を転換する必要があると。生きることの意味をただ問うのではなくて、私たち自身が問いの前に立たされていると思い知るべきなんだということです。

要は、自分の人生を「ただ不運だった」「なんで自分はこんなひどい目にあうんだ」と言って嘆くということではなくて、今この与えられた状況に対して、自分はどういうふうに振る舞うのか。それが自分の真価であると言っているんだと思います。

行動に移すことの大切さを学んだローマ皇帝の日記

堀内:もう1つ、私が読んだのが、マルクス・アウレリウス。生没年が121年から180年と書いてありますけど、要は1900年ぐらい前の人ですね。『自省録』というのは、人に読ませるために書いたんじゃなくて、自分の日記として書いたものです。

アウレリウスは哲人皇帝と言われていて、ストア派の哲学者でもあり、皇帝でもあった。日記だから散文的に、脈絡もなくその時に思いついたことを書いてるんですけど、その中で私がすごく心に沁み入ったセリフをピックアップしました。

「君がそんな目にあうのは当たり前さ。君は今日善い人間になるよりも明日なろうとしているんだ」「善い人間のあり方いかんについて論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ?」。

まさにそうだなと。ウジウジ考えて、自分の内側に埋没していくのではなくて、自分がどういうふうに振る舞うか、どういう人間になるのかということのほうが大事なんだなと、その時すごく感じました。

その頃、ゴールドマンでは日本の不良債権の処理などで非常に盛り上がっていました。世界最強の投資銀行で、これはこれで勉強になってよかったんですけど、「ちょっともう金融はいいな」とその時に思い始めました。

リーマンショックの直撃を受け、資本主義に疑問を抱く

堀内:振り返ってみると、中高時代は不動産とか建築に関心があったんですけど、日和見で東大の法学部に行って銀行員になったことをすごく後悔しまして。それで、森ビルが中途採用していたので、一から不動産を勉強しようと思って、普通に応募して、普通の社員として入りました。

そこで森会長と知り合ってからは、もう劇的におもしろい人生でした。六本木ヒルズの開発から、上海ワールドフィナンシャルセンターの開発から、とにかく森会長と知り合えてよかったと思いました。

ですが、結局また2008年にリーマンショックに直撃されまして。森ビルも資金繰りに窮して、不動産の含み益が大量にあるが、現金がないという非常に苦しい状況に追い込まれました。これは森ビルに限らず、他の不動産会社もそうだったんですけど。

それでだんだん、「なんなんですか、これは?」という感じになってきてですね(笑)。「なんで同じことがいつも繰り返されるんだ」と思うようになりました。私が働いてる、身を置いてるこの資本主義社会っていったいなんなのかと。「この資本主義っていったい人間を幸せにしてるんだろうか?」と根源的な疑問が湧いてきて。

それで今、資本主義研究会というのを主催しています。「資本主義の教養学」というタイトルで、3ヶ月に1回ぐらい公開講演会をやっています。12月には社会学者の宮台真司さんに出てもらって、彼が考える資本主義の未来を議論していただくことになってます。その成果を、中間的な報告として『資本主義はどこに向かうのか』という本にしました。

それから、私が金融についてずっと思ってきた根源的な疑問について、『ファイナンスの哲学』という本を書いてまとめました。