日本人史上初のワールドシリーズ胴上げ投手・上原浩治氏が登壇

池上雄太氏(以下、池上):上原さん、今日はよくお越しいただきました。

上原浩治氏(以下、上原):よろしくお願いします。

池上:ありがとうございます。このセッションのインタビュアーは、私GOETHE編集長の池上雄太が担当させていただきます。上原さん、あらためてよろしくお願いします。視聴者のみなさんは上原さんのご活躍を十分ご存知で、説明する必要はないと思いますが、簡単にご紹介させていただきます。

上原浩治さんは日米で約21年間プロ野球選手として活躍され、読売ジャイアンツでの奮闘はもちろん、日の丸を背負いWBC(World Baseball Classic)優勝、ボストン・レッドソックスでのワールドシリーズ制覇、日本人史上初の日米通算100勝・100セーブ・100ホールド達成など、数々の偉業を達成されました。

2019年の引退後も、解説者や『上原浩治の雑談魂』というYouTubeチャンネルを開設されるなど、活躍の場を広げていらっしゃいます。YouTubeを見たことがある人もいると思います(笑)。

上原:(笑)。

池上:今日のテーマは「乗り越える」です。上原さんが野球選手でいらした当時のマインドや行動力、思いの原点、苦境を乗り越えるヒントをおうかがいしたいと思います。上原さんのプロフィールを「野球解説者・野球評論家・元プロ野球選手」としましたが、異論があるとか……?

上原:いやいや(笑)。元プロ野球選手には間違いないですけど。そんなに言うほど、「解説」も「評論」もしていないのかなと思いまして(笑)。

池上:(笑)。自由人という話もありますが?

上原:そうですね。もう半分以上自由人です。

池上:(笑)。上原さんには『GOETHE』でも時計や車など、いろいろな企画にご登場いただきまして。先日も美容の企画にご出演していただきましたね(笑)。

上原:はい(笑)。

池上:肌がめちゃくちゃきれいなので(笑)。

上原:(笑)。いや、僕は何もいじってないですよ。

池上:(笑)。ふだんは、何かお肌のお手入れをされたりするんですか?

上原:いや、ぜんぜん。本当に気にしていないですね。洗顔もたまにしかしない感じで。

池上:やっぱり雑草魂ですね?(笑)。

上原:(笑)。代謝がたぶん良いんでしょうね。

中学は陸上部、高校では野球部に入るも補欠……

池上:さっそくですが、ちょっと学生時代まで遡って、上原さんのルーツを探っていきたいと思います。お父さまが少年野球チームを運営されていて、そこで野球を始められたと。中学時代は野球をするだけではなく、陸上部にも所属していたとおうかがいしました。

上原:はい。

池上:少年時代は、どういう少年だったんですか?

上原:帰ったらすぐにランドセルを置いて、公園でみんなで野球する。そういう感じでしたね。

池上:陸上は、高校時代には辞められたんですね?

上原:中学は、野球部がなかったんですよ。だから陸上部に入って、野球は週1回地域の集まりで、日曜日だけやっていました。

池上:陸上部で鍛えられたことが、野球部でも糧になりましたか?

上原:やっぱり陸上部は走ることが多いので、走り込みみたいなものが、ふだんからできていたと思いますね。

池上:なるほど。高校でも野球を続けられて。人によっては卒業後のプロ入団を見据える時期でもあると思います。当時の上原さんは、何を思って野球をされていたんでしょうか?

上原:僕はレギュラーでも何でもなかったんです。その当時、建山(義紀)という同級生がいて、彼がエースで投げていましたから。「もしかしたら甲子園に行けるのかなぁ」という感じでした。ベンチから「甲子園へ連れていって」という感覚で野球を見ていました(笑)。

池上:人におんぶっていう(笑)。プロ野球選手になろうということは……?

上原:一切考えてないですね。体育教師になりたかったので、体育大学を選んだんですけど。

池上:なるほど。ここでまさかの事態が? 浪人を……。

上原:そうですね、まさか浪人するとは思っていなかったですね(笑)。

「プロ野球選手」は頭になく、体育教師になるため一浪して大学に進学

池上:けっこう勉強はしていたんですね?

上原:いや、勉強はまったくできなかったですね。やっぱり高校3年間は野球をがんばっていたので、もう勉強は一切やらなかったですから。落ちて当然と言えば当然だったかなと思いますね。

池上:受験勉強をしている間は、やっぱり野球ができないわけじゃないですか。その時はどのように感じていたんでしょうか?

上原:浪人中は本当に野球はやっていなかったですね。

池上:やりたかったという感じ?

上原:もちろんやりたかったですけど、勉強をがんばらないといけなかったので。本当に中学レベルからやり直しましたね。

池上:(笑)。いろんなインタビュー記事なんかを読むと、浪人していた時期が一番燃えたと書いてありましたが(笑)。

上原:燃えたというのか、「やらないと仕方ない」と思いましたね。先が見えない状況ですから、まずは受かることを本気で考えていました。本当に勉強をがんばった1年でしたね。

池上:その勉強のおかげで見事合格をされて。

上原:はい。

池上:待ちわびた野球ができる日々、そして大学生活。その時はどういう感じだったんですか?

上原:プロを目指していたわけではないので、大学4年間で野球は辞めるつもりでした。体育教師になるための必修科目を取って、4年生の時は教育実習に行って、そのまま体育教師を目指そうと考えていましたね。

池上:背番号を「19」に決めたのはどういう……?

上原:大学時代は「19」じゃなかったんですけど。

池上:そうなんですか。

上原:プロに入ってから「19」をずっと付けさせてもらっていましたけどね。

池上:YouTubeのチャンネル名にも「雑談魂」という言葉が付いていますよね。その言葉は、やっぱり幼少期から大学に入るまでに培われてきたんですかね?

上原:そうですね。よく「ジャイアンツのドラフト1位で、何が雑草だ」と言われますけど、ジャイアンツに入るまでが雑草なんで、ずっとそう言っているんです。入ってからは本当に怪我ばっかりしていましたし、先輩からは「雑草じゃなく温室メロンだ」と言われていましたけど(笑)。

池上:(笑)。

代名詞である背番号「19」の意味

池上:読売ジャイアンツにドラフト1位で指名されて、入団してすぐに20勝を達成し、新人王と沢村賞を受賞して、もう華々しすぎるといっても過言ではない成績を残されました。

さっきお話のあった「雑草魂」も流行語大賞を取ったりして、1999年は今まで培ってきたスピリッツが爆発した1年だったんじゃないですか。日本中が注目していたし、野球少年たちもみんな見ていたと思います。

上原:はい。

池上:そこからまた飛躍しようという矢先の2000年、怪我に苦しんで不遇のシーズンを送られる。またそこから這い上がって、2002年に17勝を挙げて、優秀賞も受賞されて。上原さんは何度も復活してファンに感動を与えているイメージがあります。どのようにして再起を目指していかれたんですか?

上原:怪我をすると、自分としてはやっぱりショックです。でも、野球ができないわけではないですから。19歳の時は、野球をしたくてもできない1年だったので。だから、19歳の時の苦しさを忘れないという意味を込めて19番を選んだんですね。

プロに入ってからは、怪我をしたとしても、「怪我さえ治ればまた野球ができる」と思っていました。落胆するよりも、「とにかくこの怪我を治して、早く一軍に上がって試合に出たい」という思いでやっていましたね。

成長するために、松坂大輔氏をライバルに設定

池上:目標の立て方や、成長するプロセスなど、何かやり方があるんですか?

上原:僕の中では、ライバルを作ることでしたね。

池上:おぉ。

上原:同級生や、同期入団のライバルですね。昨日こちらのイベントに松坂大輔が出られたと思います。彼は同期入団なんですよ。彼がすごく注目されている中で、「あいつには負けたくない」という思いももちろんありました。そういう意識でやっていましたね。

池上:トレーニングなどは自己流で考えられていたんですか? それとも何かアドバイスを受けたのでしょうか?

上原:やっぱりきちんとプロの方のアドバイスをもらいますね。僕は野球のプロであっても、トレーニングのプロではないですから。

池上:なるほど。上原さんは、自分自身で課題を設定したり、アドバイスをもらったりして取り組む姿勢を崩さないイメージがあります。そんな上原さんの姿を見た、周りの反応はどういう感じだったんですか? 

上原:いや、プロの世界ですから、トレーニングをやって当たり前なんですよね。その中で結果が出る・出ないはもちろんありますけど。トレーニングの過程の部分は一般のファンの方たちは目にすることはないですが、中にいる他の選手は見ていますよね。そこでどう感じるかは、それぞれの感情によると思います。

池上:賞賛があったりバッシングを受けたり?

上原:それはもう、ジャイアンツというチームは、勝てばもちろん賞賛されますし、2年目以降はちょっと怪我が多かったので、いろんなことを書かれましたよね。

上原氏の向上を支えた日々の目標

池上:上原さん流の目標の立て方とは、どのようなものなんでしょうか?

上原:1年間の目標としては、最終的に「日本一になりたい」でしたね。でも日々、やっぱり達成できる目標を作っていましたね。

池上:というと?

上原:「今日1日絶対怪我をしないように」「こういうトレーニングを最後までやる」「100メートルを10本走る。9本では終わらない。ちゃんと10本走る」。体調が良ければ「11本走ろう」とか。このように、達成できる目標を作っていましたね。

池上:なるほど。それは僕らのビジネスの世界でも、けっこう役立つ話かもしれないですね。

上原:やっぱり人間って、達成できたらすごく充実感が出るじゃないですか。

池上:はい。

上原:やっぱり充実感がないと、向上もしていかないと思います。

池上:その向上心があったから、上原さんはボルチモア・オリオールズと契約して、夢だったメジャーリーグに挑戦されたんですね。メジャー挑戦は、当初はどうだったんですか?

上原:入団の際に、ジャイアンツかメジャーかということがありましたし、自分の中ではすごくメジャーに行きたい思いがありました。

ただその当時は、ジャイアンツに決めたら、もうアメリカへの道はないだろうと思っていました。今みたいに頻繁に行けるような状況ではなかったので、可能性はゼロだと思いましたね。もうジャイアンツでがんばろうという気持ちが強かったです。

池上:あまり順風満帆ではなかったんですかね?

上原:いやもう、ぜんぜんですね。怪我ばっかりしていましたし、成績も最後のほうはちょっと落ちてきましたし。

池上:2年目には右脚の故障で泣いたという話もありましたね。

上原:右太ももの肉離れが多かったですね。