密集せずに暮らせる過疎こそ、豊かで安全な世界かもしれない

山極壽一氏(以下、山極):例えば、今、日本が抱えているのは少子高齢化です。過疎です。でも私は逆だと思うんですよ。あまり逆説的なことを言うと怒られるかもしれないけど、過疎こそ生きやすい世界かもしれない。

山折哲雄氏(以下、山折):本当はね。

山極:新型コロナが入ってくると、人々が密集し密接し密閉するのが良くないわけでしょう。だったら、人々が散らばって暮らせる社会のほうが、本当は豊かで安全な暮らしかもしれない。だったら、科学技術をそこに持ってくれば、そういう暮らしが可能になるかもしれない。

都市の雑踏で毎日満員電車に揺られながら、子どもを連れていると叱られるような生活を送るよりは、もっと広々とした山の中で、人々がお互い助け合いながら、子どもたちも道路で豊かに遊べるような環境のほうが暮らしやすいんじゃないか。それを目指すようなスマートシティの技術があってもいいんじゃないかと思いますけどね。

ちょっと未来の話を少ししたいと思いますが、子どもをお育てになっていたというご経験から、河瀬さんどうでしょう。

河瀨直美氏(以下、河瀨):私たちの世代も含めてですが、前の世代のみなさんはおそらく子どもを産んだ時に、自分の世代よりも上の人に自分の子どもを見てもらえた環境があった気がします。3世代が同じ家に暮らすというようなことですね。

なので、一度子育てをした人が、もう一度子育てができるという、少し俯瞰で見た子育てができていたと思うんです。今は核家族みたいになって、私の世代がワンオペだったりで、子どもを育てなきゃいけない。子どもなんて本当に1人じゃ育てられないなと私は思っていて。

子育ては、終わらない「もぐら叩き」のようなもの

河瀬:先ほど山極先生が言われたように、たくさんの人たちにいろんなものを与えられて、この社会を知っていくような、地域や家族の有り様やライフスタイルを提案していくことも含めて、スマートシティの中で私たちに教えてほしいなと思うところもあります。

なぜなら、子どもって本当によくわからないんです。「子育てはもぐら叩き」と言われますけど、ビジネスだったら「これをクリアしたら、次にこう行こうね」とプランニングできるんですけど、子育てはプランニングができないので。

熱を出したり、怪我をしたりとか、何が嫌で泣いているのかもわからない。ここを1個パンと叩いても、またこっちでピッと問題が出てくるみたいな(笑)。

山極:(笑)。

河瀨:どこから出てきてもおかしくないもぐら叩きを、永遠にやっていなきゃいけない。これを毎日毎日やっているお母さんは大変です。女性の社会進出と言ったって、子どもを抱えながら仕事もやらなきゃいけない。やりたいからやっているんですけど、その両立は相当大変なことですね。

その有り様を社会や地域も含めて、もう一度昔のようにというか、地域で子育てをしたり、もう少し家から地域に自分の考え方を広げて、そこでコミュニケーションを取りながら、みんなで育んだり。

あと、ご飯だって毎日ご馳走を作らなくていいんだよとか(笑)、もう少し手抜きでもいいんだよとか。何が私たちにとって大切なのかだったり。私は、暮らしが文化につながっていくと思うし、祭りごとみたいなものをもう一度復活させて地域でつながっていったり。

そのためには何が必要ですか? 昔ながらのままにやることはできないけれども、もう少し技術で助けを借りて、困っているところが瞬時にわかったり、そこを後押しするような力を得られたり。

前はできなかったことが技術によってできて、もう一度前のようなつながりができるという。単純におしゃれな暮らしがしたいとか、快適なだけじゃない、心の通った生活ってどういうことなの? ということを、もう一度考え方の中に入れていただけると、とても豊かになれる気がします。

環境によって形作られた、日本人の意識の三層構造

山極:山折先生、最初に歴史を遡って、4つの時代の問題点を指摘していただきましたけれども、その時代は問題点もあったけれども、良さもあったと思うんですね。

山折:もちろんそうですね。

山極:今、山折先生がこれからの人類の未来を考えた時に、例えばどの時代に戻りたいと思われますか?

河瀨:(笑)。

山極:ぜんぜん戻りたくないと思われますか?

山折:戻ろうと思っても、戻れないでしょうから。

山極:もちろんそうですね。

山折:ただ、我々の先祖が生活したこの日本列島の自然状況といいますか、地球全体の中でどのような特徴を持っているかを考えることが、1つの手がかりになると思っています。

よく申し上げるんですけれど、海外から帰ってきて、飛行機の中から地上を見ますと、日本列島は一面の森または山ですよ。だいたい1,000メートルの段階ではそれ以外何も見えない。日本は森林国家、あるいは周辺は海に囲まれた海洋国家だと思いますね。

ところが、だんだん機首を下ろしていきますと、大平原が見えるんですね。ああ、弥生時代の稲作、耕作地帯が見えてくると。さらに高度を下ろして空港近くになりますと、都市社会が見えてくる。

その時ハッと思ったんですよ。日本列島はそれ自体が三層構造でできている。おそらくそのうえに三層構造の意識が作り上げられているはずだと思ったんですね。

縄文の「無常」、弥生の「勤労と日和見」、近代の「儒教的な合理主義」

山折:じゃあ森林国家、いわば縄文的な世界ではどういう意識が出てくるのだろうか。たくさんあっていいと思うんですが、その代表的なものはやっぱり無常だろうと思うんですよね。

人間と、森、海に囲まれた自然との関係を見ていきますと、何が起こるかわからない。災害や飢饉が起こるかもしれない。家も人も共同体もいつ滅びるかわからない。縄文人はまず、そういう恐怖との戦いが始まると。だから、無常という言葉が出てくる。これを強調したのは地震学者の寺田寅彦ですけれども。

それから弥生時代は、どういう意識が出てくるだろうと考えますと、やっぱり勤労ですね。働き詰めに働かないと、田んぼになりませんよね。食糧生産の基盤を作ることができません。他にもたくさんあるだろうと思いますが、勤労の習性が身についていく。

それから日和見。農作、耕作は天候によって支配される。日和見は、悪い意味で使われる場合が多いんですけれども、決してそうではない。勤労と日和見はやっぱり裏表の関係になっている。そんなことを考えたんですね。

じゃあ近代的な社会を作り上げる過程で、どういう精神や考えが出てくるかというと、やっぱり合理主義、合理精神だろうと。ただ、西欧社会の合理主義的な合理主義じゃなくて、渋沢栄一が言ったような儒教的な合理主義ですよね。

これは今日の日本人の科学精神というか、技術に対する飽くなき関心という問題と深い関わりがある。同じ合理性、合理主義でも、合理主義のそれと儒教的なものとは、おのずから違うという。

この意識の三層構造ですね。戦争とか飢饉とか災害とか、危機がこの列島を襲った時、適宜選択的にこれを取り出して対応してきた。我々の先祖たちの柔軟性だと思いますね。

近代化を進める上での基盤として、非常に伸縮自在の作用を持つ、三層構造で成り立った価値観。三層の価値観が役に立っている。

日本人の「変わり身の早さ」は、長所でもある

山折:ある意味では、日本人は変わり身が早いんですね。

河瀨:(笑)。

山極:うん。

山折:これも悪い意味で取られる場合が非常に多いわけですけれども、適応性に富んでいるということでもあります。こうした日本文化、列島、あるいは歴史が積み重ねてきた価値観の未来性を、これからの若い世代にはものすごく知ってほしいなと思います。

そういう点ではやっぱり、先ほど申しましたが、垂直の軸で物を見るということです。ちょっと超越した地点で見ると、まったく別に見えてくるわけですね。そういう効果がこれからますます必要になるだろうと。それから、高度をどんどん高めて宇宙船のレベルで地球を見ると、これまた違った世界が見えてくるわけです。

さらにその奥に大きな大宇宙の世界がある。そこに想像力を伸ばして、妄想の中で見下ろすと、思わぬ知られざる世界の姿が見えてくる。その中にはおそらくコロナみたいな感染症のような、目に見えなくて何をするかもいつやってくるかわからないものの世界も、直観できるようになる。そういうことを、これからの若い世代に知ってもらいたいという気がするんですね。

山極:ありがとうございます。私は今、おっしゃったところに、日本人の文化の多様性と強みがあり、これから世界の先端を切るために、この文化の多様性は大きな強みになると思っているんですね。

パリのユネスコ総会で示された、創造性が生まれる条件

山極:実は、この地球研(総合地球環境学研究所)ができた2001年には、パリのユネスコ総会で文化の多様性に関する世界宣言が締結されました。この第1条には、今、山折先生がおっしゃられた自然にとって多様性が重要であるのと同じように、人間にとって文化の多様性は重要だと。自然と対比して言っているわけですね。

おっしゃるように、日本は上から見ると森林の国なんだけど、北から南まで非常に長細い島国です。ですから、自然の多様性に満ち満ちていて、森林はハレの世界で、人里はケの世界で、その間に里山があって、まさに地理上も三層構造になっているわけですね。

そういう中で、人々は1つ以上の文化を体験しながら生きているわけで、文化の多様性宣言の第7条には「文化は孤立してはいけない」と。文化が接触しあって、初めて創造性が生まれると書いてあるわけですね。

私もまさしくそのとおりで、日本はまだ江戸時代の藩の時代の文化的アイデンティティを色濃く残していると同時に、今グローバルな時代で文化を傍観しながら、さまざまな体験と共鳴を経験できる。それを元手にして、創造性豊かな未来を築けるんじゃないかと思っているんですね。これは忘れてはいけない。

別にスマートシティの批判をするわけではないですが、その文化を維持し、文化を接触し合うための強力な手段として、科学技術を使うべきだと思っているんですね。

例えば、江戸時代からずっと日本は陸上交通にこだわってきました。一時は海上交通もあったんですけど、明治以降は陸上交通ばっかりですよ。それが満杯に近くなっている。

だったら今、ドローン技術を発揮させて、地域と地域を空中でつなぐことが可能ですよね。そうすると思わぬところで地域が出会うということがあり得る。それがまさに技術と文化を結びつける手段だと思うんです。我々は多様性を謳歌しつつ、多様性の接触から新しいものを生み出すことができる。

多様性がなければ何も生み出せませんから、均質な文化ではなく多様な文化を維持しながら、未来に向かって歩まなければならないと思っているんです。

難題に直面した時は「土俵は1つ、尺度は2つ、3つあっていい」

山極:そのへん、河瀨さんは何かございますか。

河瀨:さまざまな意見や有り様みたいなものを受け入れる、そういう感受性を持つ大人たちが、自分も含めてたくさんいることが大事だなと思います。

なぜなら、聞く耳を持たない人が多かったり、それを受け止めることができずに、どちらかというと分断になってしまう状況も、今回のコロナで、日本社会でたくさん見られました。

過去から日本を勉強して、こんなに多様なものを受け止めてきた国民性なんだということを知った時に、なぜ今このように一辺倒な考え方になってしまっているのか。1人が少しミスをしたぐらいで、その人が世界から消えてしまうような分断や排除がどうして起こってしまったのか。

そういうことも見ながら、未来に向かってもう少し多様なものを受け止める。今回万博でも提案しようと思っている、「私の中にはあなたもいますよ。あなたの中にも私はいますよね」という、享受するような感覚を、もう一度私も含めて考えていきたいと思っています。

山折:先ほども申しましたけれども、今、日本の社会、あるいは若い人々も含めて、日本人は物の考え方が非常にフラットになっている感じがします。横並びで同じようなメッセージがあちらこちらから飛び交っている感じですよね。

それはそれとして悪いことじゃもちろんないんですけれども。先ほどおっしゃったように、半歩でも一歩でも高みから俯瞰する生き方が必要だろうと思いますね。世界的にも超越的視座が失われていると言う人が、けっこういるんですよね。

それとの連関で言いますと、これから特に気候変動や温暖化の問題というような難しい問題を世界で語り合う時は、土俵は1つ、しかし尺度は2つ、3つあっていいと。こういうメッセージを普遍化する必要が、私は世界それぞれの国、地域で必要になっている気がしますね。

日本人はどうしても、一方から流される情報を受け止める受信機的な能力が非常に優れていると思います。それが全部ダメだというわけじゃありませんけれども、やはり土俵は1つ、価値尺度では2つだよということを、こちら側から主張する。そういう未来的な考え方が必要ではないかと、私は思いますね、

人々を導く力を持つ、フィクションを作る人の責任

山極:ありがとうございます。河瀨さん、どうですか? 未来へ向かって何かひと言。

河瀨:山極先生が(歴史学者のユヴァル・ノア・)ハラリさんのやつに書かれていたものにちょっと似ているんですけど、私はフィクションの世界を作っているじゃないですか。人間は、認知革命で言語を司るようになって、フィクションを信じられる生き物になりましたよね。

ですから、私のような表現者だけではなくて、おそらくその科学技術の世界の人たちも、フィクションの世界で何を人に伝え、共感を得るのかというところを考えるようになる。例えば貨幣もそうですし、国家もそうですし。

「これってフィクションですよね。これに価値があるって誰が決めたんですか」というような、いわゆる人間が作り出すフィクションを間違っちゃいけないんじゃないかなと思っていて。

どんな分野の人たちも一生懸命心を尽くして、みんなとコミュニケーションも取って、想像力を持って未来を考え尽くした上で、次の一歩をどこに進めるかを、今こそ正しいものにしなければ、私たちのフィクションの世界は、人類を破滅に導いてしまうかと思います。

今までのことがもし間違っているのであれば、速やかに謝って正すぐらいの勇気を持って進めていかなければいけない。そしてコロナの状況は、おそらくそれを考える時期に私たちを置いてくれたのではないかという気がしています。

山極:ありがとうございます。

人が未来を描くには、万物とのリアルな出会いが不可欠

山極:政治家というのは反省しないんですよね。

河瀨:謝ってくれない(笑)。

山極:謝ってくれない。今日の話のように過去をきちんと評価しながら、誤ったことは未来に繰り返さないという反省の上に立ってより良い未来を作らなくてはならないのは当然のことながら、やはり言葉に始まった科学技術を我々はもはや手放すことはできないはずですから、賢く利用していかなくてはいけない。

その時に、山折先生がおっしゃったように、我々自身がもっと広い許容力を持って、1つの舞台でも複数の尺を持って、まさに京都大学が誇る西田哲学が教えるように、「あいだ」の論理ですね。是か否だけではなくて、他の尺度でも視点を挿入しながら、俯瞰的な考えをみんなと共有していくことが必要だと思います。

私はいつも言っていることなんですが、人間が社会を作っていく際に3つの自由があると思うんですね。それは「動く自由」「集まる自由」「対話する自由」です。これがコロナの間に大きな制約を受けてしまった。

だけど、技術によって対話というコミュニケーションがどんどん広がりますから、動いて集まって対話をするという本来の人の動きを忘れ始めている。つまり、テレワークもできるし、遠隔でオンラインでさまざまな会話ができるから、それでいいじゃないかと思っている方もいらっしゃるかもしれないけど、私はそれは違うと思っていて。

やはり人々は会わなければいけない。会うのは、人間だけじゃなくてもいいんです。動物でもいいし、あるいは川や岩や山や無機物であってもいい。まさに最初に山折先生がおっしゃられた万物ですね。

万物と人々が出会い、想像力を発揮させ、世界を解釈し、そして未来を描くというのが人間の持っている能力ですから、それを発揮して未来を築くということを、みんなと一緒にやらなければいけないと思いますね。

そのためにスマートシティも、それをきちんと支えるように発展してくれればいいなと思っております。あまりいいまとめにはなりませんでしたが、これで我々のお話を終わらせていただきたいと思います。どうも今日はありがとうございました。

河瀨、山折:ありがとうございました。