ドラッカーを語る上で「問い」を中心に置いた理由

黒川剛氏(以下、黒川):もちろん井坂さんの言葉を使って、ドラッカーの人生であるとか、功績であるとかいろんなこと、あるいはドラッカーが伝えたい言葉を伝えていただいたんですけれども、やはり「問い」を(この本)中心に据えたというのは、そういった狙いがあるんでしょうか。

『未来を大きく変えるドラッカーの問い Drucker for Survival ドラッカー・フォー・サバイバル』(日本能率協会マネジメントセンター)

井坂康志氏(以下、井坂):そうですね。私からすると、ドラッカーの発した言葉はすべて「問い」だと思ってますね。ドラッカーは答えを言うこと自体をそんなに好む人ではないというのがありまして。

今、経営学の世界とか、あるいは世界的な流れの中でも、経営学者の間でドラッカーはほとんど読まれていないとか、世界的な研究の潮流から見るとドラッカーに言及する人は極めて少ないとか、そういう説も出ているんです。それは結局、学問全体がエビデンスを求めているからだと思うんですね。

ビジネスの世界でもエビデンスを求めている傾向が強いと思うんですけど、エビデンスを求めていくと、究極的にはエビデンスがわからないと行動ができないという話になってしまう。

私の先生だった上田惇生さんが時々おっしゃっていたのは、日本では高度成長の前期のあたりに水俣病があって、あの時、なぜ水俣病が広がることを阻止できなかったのかというと、結局エビデンス至上主義で、それが本当に人間に害悪を及ぼしているというエビデンスを得るまでは、前に進めることができなかったからだと。

エビデンスがなくても行動は起こせる

井坂:ただ、私はたまたま水俣病の専門家で貢献をされた原田正純さんという医者の方から話を聞いたことがあるんですけど、普通だったらエビデンスがわからなくても行動は起こせるんです。

例えば子どもがあるお弁当を食べて、食中毒を起こしたとします。そこで原田先生は「お腹が痛いと言ったら、まず最初にやるべきは、そのお弁当を食べることをやめろということだ」と言っていたのを覚えているんですね。

つまり、エビデンスは「知識のための知識」ではあるかもしれないけど、「行動のための知識」としては極めて頼りないと思うんですよ。一方でドラッカーはそれに対して「エビデンスがわかることを待ってはいられない」という言い方をするんですよね。「学者によって解明されるのを、我々は待っているわけにはいかない」と。

ドラッカーは、昨今の経営学者の誰にも読まれないと言われる一方で、それでもやはりドラッカーを読んで経営に役立てている方が、この世界にもまだたくさんいます。おそらくそういう方々は、ドラッカーのエビデンス至上主義ではない、むしろ非常にプラクティカルなマインドに共鳴しているんだろうなと感じますね。

ちょっと答えになっているかわからないですけど、私はそんな印象を持っています。

「良い問い」を立てるためのヒント

黒川:ありがとうございます。とは言え、「問い」を立てて自分を内省するのは、非常に難しいだろうなと思います。

実は事前に今回ご参加いただいているみなさんから、質問をいただいたんですけれども、一番多かったご質問は「『問い』の立て方をどうしたらいいのか」とか、あるいは「マネジメントにおいて『問い』をどう立てたらいいのか」とか、あるいは「『いい問い』を出せる力は個にも組織にも重要だという思いを、年々強くしているけれども、どうしたらいいのか」というようなところでした。

やはりみなさん、ついついエビデンスを探してしまう。答えを探すようなビジネスの世界に身を置いていると、やはりどうしてもそちらが先になってしまったりすると思うんです。

「問い」のうまい立て方というHow toを聞くのも、この会話自体の中から「『問い』の立て方を教えてください」というのも、なんとなく変な話なんですけど、意外にでもそこをお聞きになりたい方々が多いのではないかなと思いまして。井坂さんのお考えになる「『良い問い』の立て方」、もしくはそのヒントがあったら教えていただきたいなと思います。

井坂:おっしゃるとおり、質問をするのはすごく知的に負荷をかける行為なんですよね。私が過去に7~8人の経営者の集まりに出た時に、司会の方から「何かコメントしてください」と言われると思っていろいろ考えていたんですね。

経営者の方がどういうことをやられてきたのかということで、コメントを想定して準備してたんですけど、(司会の方から)「質問してください」と言われたんですね。

その時はなんとか凌いだ記憶はあるんですけど、何の準備もなく質問するのは大変で。「問い」を出すのはものすごく難しいんだなと実感させられた経験があるんです。確かにおっしゃるとおり、「問い」を立てるのはすごく難しいと思いますね。

ドラッカーの「問い」と堂々とパクればいい

井坂:ただ、ドラッカーの本の中にはキラークエスチョンがあります。彼はもともとコンサルタントで、コンサルタントが最初にやるべきことは、自分の枠組みを人に押し付けることというより、まず相手の現実を知ることです。そのために最初にやるべきことは、やはりクエスチョン、つまり「問い」を出すということですよね。

彼の場合、まずクライアント先の社長のところに行って、「お宅の会社って何をやっている会社なんですか?」とか、そういう子どもがするくらいのレベルの質問をするんです。だいたいシンプルな質問ほど答えが難しいんですよね。

例えば、「あなたって誰ですか?」と聞かれたら、誰でも「うっ!」と詰まると思うんですよ。これは非常にシンプルですけど、「私って誰なんだろう」という、すごく哲学的な「問い」になるわけですよね。

「問い」がシンプルであるほど、答えは非常に難しいと思うんですが、私はそこに関してはドラッカーの「問い」を堂々とパクればいいと思っています。出版の世界でも、人様の立てた答えをパクるとだいたい著作権違反になるんです。でもありがたいことに、「問い」はパクっても著作権違反にならないんですよね。

私は、「問い」はいろんな方のものをどんどん使っていいと思うんです。そこから出てくるものは、常にオリジナルなものだと思うんですね。

大きな「問い」を借用して、自分なりにアレンジしていく

井坂:例えば、ドラッカーがよく立てていた「問い」で非常によく知られているのは、「何をもって覚えられたいですか」。この質問をよくしていたというんですね。私はこの「問い」のポイントは、どう覚えられたいかということよりも、「誰に」という部分がないことです。

これが「もし死んだあとに、あなたの家族、あるいは友人に、誰にどう覚えられたいですか」と言ったら、誰でもスッと考えがまとまるかもしれないですけど、この問いはそもそも主語が省略されていて、「誰に」覚えられたいのかから考えなきゃいけない。これに対する答えを与えることのは、ものすごく知的な負荷がかかると思うんですよね。

この「何によって覚えられたいか」という「問い」を変形させると、「これって本当のお客さんのためになっているのか」とか、その種の「問い」だと思うんですね。このビッグクエスチョンから、小さい「問い」をどんどん派生的に、自分なりにアレンジして使っていく。

ビッグクエスチョンはドラッカーから借りればいいと思うんですよ。あとは自分なりに、ついつい目の前のことに忙殺されたり、目の前の売り上げを立てなければどうにもならないという時に、「これって本当に世の中のためになっているのかな」とか「これって本当に誰のためにやってるんだろう」とか。

こういう「問い」を発せられるかどうかが、長期的にその組織なり人なりが成長できるかということの、すごく大きなポイントになってくると思います。(口に出して)言われてみると馬鹿みたいな「問い」ばかりなんですけど、実際に考えてみるとその深さに気付かされます。

先ほどの黒川さんのご質問に対するお答えは、まずドラッカーの「問い」を借用するところから始めるといいんじゃないですか、ということかなと思います。

黒川:ありがとうございます。ドラッカーの「問い」を借用しながら、今回の『Drucker for Survival』のいろんな「問い」を端々に入れていただくといいですね。

日本の歴史から考える「問い続けること」の重要性

黒川:この本では、電球のマークでいろんな「問い」を入れていただいているんですけれども、井坂さんからいただいたのは、そういう意味ではものすごく素朴な内容が多いですよね。

井坂:そうですね。電球の「球」がクエスチョンの「Q」になっているんですね。真ん中の電光のフィラメントの部分が「Q」になってて、「電Q」とそのまま読んでいます。クエスチョンがあると、頭にパッと電球が灯るような、そんなイメージで作ってみました。

黒川:今視聴者の方からチャットに「『問い続ける』ことがやはり大切なんでしょうか?」と書いていただきましたが、そういうことですよね。

井坂:今、ライフシフトとか人生100年とか言われている時代においては、たぶん死ぬまで「問い続ける」ということが本当に意味を持つのではないかと思うんですね。ちょっと前まで、例えば半世紀前の日本が農業国だった時代って、そもそも「問い」が存在していなかったと思うんですよ。

最近、200年くらい前の江戸時代の末期に書かれた文献をパラパラと見ていたんですけど、その時代の人たちが考えていることって、たかだか200年くらい前なのに、今とぜんぜん違っているんだなとけっこうびっくりさせられまして。

その時代の人たちは、基本的に自分が何になるかという「問い」がほとんどないんですよね。自分は侍の家に生まれたら侍になるし、せいぜいその中でどのポジションに付くかくらいの「問い」しかない。

「自分はどのような仕事に就くか」という「問い」がそもそも存在していない。しかもその当時、寿命もおそらく平均すると40代〜50代くらい。あるいはもっと低い年齢で亡くなっている方が多かったと思います。

私は今49歳なんですけど、これからもし普通に80歳まで生きるとしたら、仮に定年が60歳だとしても、そのあとに20年あります。20年というのは1つの人生(くらいの長さ)ですから、気が付いたらもう1個、(定年後に)人生がポーンとできちゃった時代に生きているわけです。

その時代において一番意味を持つのは「問い続ける」こと。特に今の時代は、おっしゃってくださったような「問い続ける」ことが大事だなと感じます。

相手に対する挑戦・反抗に捉えられる「問い」

黒川:そうですね。今、私も井坂さんにいろいろ「問い」を発しているので、こんな「問い」でいいのだろうかと、内心忸怩たる思いです。

井坂:それも素晴らしい「問い」です。

黒川:井坂さん、大学でも学生さんに教えられていると思いますけど、やはり日本の教育の中でも、「問い」を発することに対する羞恥心がありますよね。私も海外のカンファレンスなどに参加すると、「どうしてそんなつまらない、くだらない質問をこの人はするんだろう」と思うようなことがあるんですけれども、その人は平気で、堂々と登壇者に向かって質問しているんです。

日本人はやはり「こんなことを聞くと恥ずかしいんじゃないか」とか、「こんなことを聞いたら馬鹿にされるんじゃないか」とか、ついつい思ってしまうと思うんですよね。そのあたりのところを、日々の生活の中で「問い」を発し続けるためのコツとか、「そんなことは関係ないよ」というようなエールがあれば、井坂さんからいただけるとありがたいなと思います。

井坂:そうですね。いろんな方がいますので、日本の文化と言い切ることは私にはできないんですけれども、率直に「問い」を発する方もけっこう増えているような気がします。

なんとなく「問う」ことが恥ずかしいことと、あとは、「問い」が相手への挑戦と捉えられる可能性がある。相手に対する反抗のように捉えられるんです。

よく目上の人に対する問いはそう捉えられがちです。私なんかは、高校生くらいの時は昭和の時代でしたから、よく「とにかく質問するな」とか「余計なことを言うな」と言われたんですよね。

相手の言うことに耳を傾けることと「問い」はワンセット

井坂:おっしゃるように、基本的には欧米の文化では、けっこう基本的なことを平気で聞いてくると思うんですよね。「それって本当ですか?」とか、そういうレベルのことですよね。

これを日本で言ったら問題になりますよね。「あなたが言ったこと、本当ですか?」と言ったら、たぶん怒られることが多いんじゃないかと思うんですけど。「問い」は、用い方によっては相手の本音を引き出す重要な方法にもなります。なので「問い方」が重要なんだと思うんですよね。

人が会話しているところなんかを見ていて思うのが、あまり相手の言っていることを聞いていない、自分が言うことに価値があって、相手の言うことにあまり価値がないという前提で話しているパターンなんかは、相手が言い終わっていないのに、被せるように質問したりとか、相手がまだ言い終わっていないのに自分の主張したりとか。

だいたいこういうのは見ていて「うまくいくはずがないな」と思うんですよね。歯車が合っていないんです。

ちゃんと対話をしようとする意識があるということは、言い換えれば、相手の言うことを最後まで聞くことなのかなと思うんですよね。相手が言いたいことを全部言い終わって、そこで初めて自分の質問が出てくる。

私自身もちゃんとできている自信はないんですけど、とにかく相手の言うことに耳を傾けることと「問い」は、ほとんどワンセットなんだろうなと思うんですよね。

ドラッカーも訴えていた「聞くことの大切さ」

井坂:その意味ではドラッカーという人物は、やはり「聞くことの大切さ」をよくおっしゃっていまして。彼はやはり、コンサルタントとして世界的なレベルに達している有能な人でしたので、まず相手に耳を傾けて、相手が何を考えているかを知ることからしか正しい「問い」はありえないと、知っていたんですよね。

冒頭で黒川さんが紹介してくださったように、私は2005年、彼が亡くなる半年前にクレアモントで会うことができたんですけど、当時私は31歳か32歳だったんですよね。本当に東洋から来たまったく名もない、会う理由もない人物だと思います。上田惇生さんが紹介してくれたのが一番大きかったと思うんですが。

それでも、私のような者が相手であっても、ドラッカーはちゃんと話を聞いてくれるんです。最初に彼がしてくれたのは、「今、どういう仕事をしているのか」とか、「どういうことに関心を持っているのか」という問いでした。こちらがたどたどしい英語で話をするのも、最後まで聞き切ってくれたのがすごく印象的でしたね。

あとでドラッカーに会った人から話を聞くと、みんな同じことを言っていました。1人の例外もなく、ある方は「自分に目線を合わせてくれる」と言いましたね。こちらがドラッカーに目線を合わせなきゃいけないのかなと思っているんですけど、ドラッカーのほうがこちらの目線に合わせてくれるという。同じものを見ようとしてくれるんです。 

もし黒川さんのご質問に対して、どうやって「問い」の有効性を最大化するかと考えると、やはり「耳を傾ける」ところからしか始められないのかなと私は考えます。

黒川:ありがとうございます。チャットに「娘に『問い』を投げかけるととても喜びます」という話もありますね(笑)。