世代で変わる、日本のアカデミアと社会運動の関係性

鎌田華乃子氏(以下、鎌田):少し方向が違う質問をしてもいいですか。

斎藤幸平氏(以下、斎藤):はい、もしあれば。

鎌田:日本のアカデミアとNPO、社会運動との関係性をどう見てますか。私自身あまりわかっていないんですけれども。

斎藤:かつてはマルクス研究とかをしている教員の方がかなり多かったので、社会運動とかにコミットしている先生たちも、少なくとも僕が知っている周りではたくさんいたんですよね。ただ、それが団塊の世代なので、みんな今は定年になってしまって。

その下の世代は、全共闘とかを経験した世代の人たちに対するある種の反発みたいなものを感じていたところがあると思うんですよね。学問に政治を持ち込み過ぎてるとか、大学をオルグの場所だと勘違いしてるとか。そういうことへの反発とか反省、批判みたいなものがあった。

その下の世代は、ソ連の崩壊とかにも若いころに直面しているので、政治的なことに対するコミットメントより、ジャーナルで発表することのほうが本来の自分たちの仕事だというスタンスの人が多いかなという気はします。特に経済学部とかは。

ただ、業績とか採用の基準がそういう考えになっていくと、社会運動的なものにコミットメントする人たちがポストを得にくくなったり、就職したいならそういう研究テーマは避けてもっと就職しやすいテーマにしようと考える人たちも出てきてしまうので。社会、学問の世界全体が保守化しているという傾向は、なきにしもあらずだと思います。

アメリカでは「学問」は一つの「運動」でもある

斎藤:他方でアメリカを見ていると、ポストコロニアル・スタディーズ(植民地主義や帝国主義に関わる学問)とかフェミニズムとか、エンバイオメンタル・スタディーズとか、なんとかスタディーズみたいな学問は一つの運動でもあるわけです。学問であるだけでなくて、今まで周辺化されたり見逃されたりしてきたもの、抑圧されてきたもの、言わば抑圧とか搾取みたいなものを暴いていって、既存の学問の背景を揺るがしていく一つの大きなムーブメントなんだという価値観がある。

そういうのは必然的に半分社会運動でもあるので、闘争性を感じますよね。アメリカはそういう気概みたいなものが非常に強い国だなと思います。

鎌田:アメリカもジャーナル文化ではあるんですけれども……。

斎藤:経済学とかはすごくジャーナル文化なのでそういうのはほとんどないですけど、経済学の外に目を向けると、異端派的なアプローチを使って脱成長のことを研究しているような、批判性を持っている人たちがいたりする。それは非常に興味深いし、日本も、かつての世代が失敗したという事情はありますけど、今の日本の状況を考えると、もっともっとアカデミアの人たちも社会運動と連携していく必要があるし、意識的にやっていきたいなと思っています。

鎌田:それを聞けてうれしいです。私も博士課程に行きたいと思った一つの理由が、アカデミアのリソースが社会運動の貴重な資源になると思ったからなんです。問題を社会問題化するとき、アカデミックなリサーチがあると説得力が増すじゃないですか。そのように連携できることがいっぱいあると思いましたし、どうやったら効果的な社会運動ができるかについても、研究が役立てられると思うんです。

今の日本人にほとんどない「何かを変えた小さな経験」

鎌田:一番やりたいことは、日本に戻って日本の大学でコミュニティ・オーガナイジングを教えることです。キャンパスで何か変化を起こすようなアクションを起こしてもらって、若いうちに、自分が変えられた、小さくても何かできた、という経験をすることが大事だなとこの活動をしていて思うので。

例えば本でも書きましたけど、私自身も学食の食器をリサイクルできるものに替えたりとか、やりました。そんな小さいことでいいので取り組んでもらえたらいいなと。ただ、大学が政治的なものに距離を置く、政治活動的な匂いがするものは全然取り扱ってくれないという話も聞くので、就職先あるかなと思いつつ。

斎藤:そうなんです。今おっしゃったことは非常に重要で、1回何かを変えられたという経験が今の日本人にはほとんどなくて、そういう伝統もない。逆に、小さな経験であっても、人生の早い段階で何かアクションを起こして変えられたという経験があれば、それがまた別のアクションに向けた経験値になっていくし、どんどん可能性が広がっていくと思います。

日本の教育ってどうしても受け身で、テストの点さえ取っていればいいとなってしまう。ルールを変えることに時間を使うよりも英単語1個覚えたほうがいいと。アメリカでは実際に何かを自分たちで変えていくことを、大学の授業で、ハーバードのようなところでも教えている。それが非常に面白くて。その経験が今のアメリカのダイナミクスにもつながってるというのは非常に重要ですよね。

とにかく経験していくことで新しい可能性が広がってくるから、ほんとに小さなことでも、ぜひそれを皆さんにも体験してほしいなと思いますよね。

鎌田:そう思いますね。小さなことが積もって大きく変わっていったりもするので。

選挙で大きな期待をするよりも、自分の職場で民主主義を作ることが大事

斎藤:それがないと、どうしても、選挙で変えるという発想になっちゃう。私たちが意見を表明できる場が選挙に矮小化されていってしまうんだけれども、民主主義は本来投票だけではないわけで。キャンパスにおける民主主義を追求したっていいし、職場における民主主義も重要です。選挙以外のところのほうが私たちの生活に密着した重要な民主主義の場なんだけれども、その場が失われてしまっているか、みんな気が付かないでいるので、そこに気が付くと大きく変わるかもしれません。

選挙で何か大きなことを期待するよりも、自分たちの職場で民主主義をつくるほうが非常に重要です。例えば日本では、外国人労働者とか技能実習生とかに対する差別的な扱いが、いろんなレベルであるわけですよね。

鎌田:うん。

斎藤:滞在許可のレベルもだけど、職場での仕事の偏った割り当てとか、日本語が分からないからばかにされるとか、賃金差別とか。それに対して、政治レベルでの対策を求めることももちろん必要だけれども、個々の職場でしっかり差別を禁止する、差別をした場合は罰則を与えるというようなルールを作れば、彼らが日常の中で差別的な扱いに接する確率はすごく減るわけですよね。それを作るために必ずしも国のルールは要らない。

逆に政治レベルでいくらヘイトスピーチを禁止するというような条例とかができたところで、職場での差別は全然なくならなかったりするわけです。だから職場での民主主義というか、職場で平等をつくるための、鎌田さんの言葉を使えばノームを作っていくほうが、自分たちが主体となって取り組むこともできるし、実質的な効果も高いルールが作れる。

やっぱり民主主義というものをもっと身近なものとして捉えて、自分たちで変えていくという視点を持つことがほんとに重要だなと思っています。

維新の会の活動から見る「リベラルの限界」の本質

鎌田:ほんとですね。職場での意思決定に参加できる度合いが高まるとその人の政治参加も高まるということを言っている政治学者がいました。1日の中で一番長い時間を過ごしてる場所が民主的だったら、すごくエンパワメントになりますよね。

斎藤:そうそう。われわれが奴隷状態だから奴隷になりきってるんですけど、そこを変えていくのは重要だし、一番やりやすい場所でもあるんじゃないかなという気はしています。

鎌田:ほんとですね。あと、選挙も、私たちの力で当選させた候補者だったら、候補者も当選させてくれた人の意見を聞かざるを得なくなる。そういう形で当選する人たちをもっと生み出すのは、すごく大事だろうなと思いますね。実際に、保守の方ではそういうことが起きてるわけですよね。日本会議だとかが力を持って自民党議員を当選させて、自分たちのアジェンダを推進させているわけで。逆にリベラルはそういうことがうまくできてない。

斎藤:保守のオーガナイジングのほうがすごいわけです。僕は今大阪にいるんですけど、維新の会は地元に密着していろんなところに顔を出して、不満とか悩みを聞いて、それを汲み上げてアピールするという循環をしているので。そこをやらない限りは、いくらリベラル左派が理念として何かいいことを言っても、なかなか社会は動いていかない。

「リベラルの限界」みたいな話は、理念を言うことの限界だと誤解されるんですけど、そうではなく運動なき理念の限界だと思っていて。理念には別に何の問題もないわけです。ただそれを実際に実現していくためには、社会運動が絶対に必要ということですよね。

鎌田:うん。理念を持っている人たちと連携しながら作っていけるといいなと思います。

『人新世の「資本論」』(集英社新書) 『コミュニティ・オーガナイジング──ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』(英治出版)

日本には実は不平等があると知った大学生時代

鎌田:もう一つだけ聞いてもいいですか。

斎藤:はい。

鎌田:斎藤さんが大学生の時に、格差に興味を持ったきっかけはどんなことだったんですか。

斎藤:僕自身は東京で育って中高一貫校に行ったので、経済的に苦しかったことはないんですけれども、いろいろ勉強していく中で、日本は豊かだと思っていたけれども非正規雇用の人たちがたくさんいるとか、実は非常に不平等な形で分配されていると知ったし、たまたま自分はラッキーなだけだったんだなと。そういうことに反省したというのもあります。

実体験として大きかったのは、ハリケーン・カトリーナの後でアメリカにボランティアに行ったときのことです。だいぶ時間が経ってたにもかかわらず、まだ家がない人たちが大勢いて、それはだいたいカラーの人たち(有色人種)で。僕らが家を建てるんです。何の技能もない人々が造った家なんて絶対住みたくないと思うんですけど、そういうことに頼らざるを得ない。これはひどい格差だなと思った。

もう一つはウェズリアン大学の地元で、スープキッチンみたいな炊き出しのボランティアをしたことです。大学自体はみんなお金持ちで非常に豊かな大学ですけれども、一歩街に出て炊き出しとかをやると、キャンパスでは見ないような非常に貧しい人たちが大勢いて。彼らは僕を見たらブルース・リーと言ったり、そういう感じの人たちなんですよね。歯がなくて何を言ってるかもよく分からなかったり。

アメリカの大学のキャンパスでいろんな子たちが多様性を語っているような世界と、一歩踏み出して、一歩と言ってもせいぜい1キロぐらい先のメインストリートに行って炊き出しをすると、全く違う世界が広がっているという状況。

それはやっぱり明らかにおかしいというか、こういう問題を無視したままマイノリティの権利とか多様性とか言っていても、もちろん理念としては大事なんだけれども、社会の構造を変えていかないといけないんじゃないかと。それで格差問題に強い関心を持つようになったという感じですかね。

アメリカでの「より大きな格差」への接触が、違和感を感じたきっかけ

鎌田:そうなんですね。アメリカでの体験が結構大きかったですか。

斎藤:そうですね。日本でも非正規雇用とかの人はたくさんいてこれだけ格差が広まっていると勉強したときは結構衝撃を受けたので、前からマルクスに興味はあったんですけれども、アメリカに行ってより大きな格差に触れたことで、しかもアメリカほど豊かな社会で、これはおかしいなと感じるようになったのは間違いないですね。

鎌田:そうですよね。すごい格差を私も日々感じます。

斎藤:そうですよね。また大学の中にもあるわけですよね。先生は白人男性が多くて、逆に清掃とかキッチンで働いている人たちはラティーノとか黒人の人たちが多い。そういう構造もだし、明らかに目に見える形で差別というか、格差というものがあるなと非常に感じましたね。

鎌田:アメリカに行こうと思ったきっかけは何だったんですか。

斎藤:リベラルアーツに行きたいというのはありましたね。僕もともと理系だったんですけど、高校時代にイラク戦争とかを前にして、歴史とか哲学、反戦といった話に興味がわいて。例えばノーム・チョムスキーは元々は言語学者ですけど、政治について積極的に発言をするじゃないですか。そういう知識人の在り方に感銘を受けて、そういうこともやりたいなと思って。

そのためにはいろいろ勉強しなきゃいけないので、日本の大学で1年生から経済学部とかを選ぶよりは、アメリカのリベラルアーツの学部でいろいろ学びたいなと。それでアメリカに行きたいと思ったのが高2ぐらいの時ですかね。

鎌田:それで格差に関心を持って。そこからどんな形でマルクスにつながったんですか。

斎藤:格差をやろうと思ったら、資本主義を批判するということでマルクスになった感じかな。もともと哲学とか思想に興味があったので。そうするとマルクスが一番メジャーというか。

鎌田:そうですね、確かに。哲学、思想が好きで、格差を研究するということでマルクス。

斎藤:そうですね。それで、アメリカだとマルクスはあまり勉強できない気がして、ドイツに行ったんですけど。

アメリカ人が嫌いなマルクスを学んだ理由

鎌田:私もアメリカで学んだ人がなぜマルクスに向かったんだろうと気になって。アメリカ人、マルクス嫌いじゃないですか。

斎藤:最初にアメリカに行こうと思ったときはチョムスキーとかに興味があって、あまりマルクスは関係なかった。というか全然なかったんですけど、途中からだんだんマルクスに関心が移ってしまったので、これは来る国を間違えたなと(笑)。

鎌田:それでドイツに変更された。

斎藤:そうです。

鎌田:それはいい方向転換をされたんですね。私も今いるピッツバーグ大学の社会学部は批判を大事にする大学なのでマルクス主義だという人は結構いるんですけど、ハーバードではマルクスは全然出てこなかったですし、アメリカはちょっと大変な国だなと思いますね。隣のカーネギーメロン大学のセミナーに出た子からも、マルクスという名前を出すだけで拒絶反応を示す人たちがいると聞いて、びっくりしましたけど。

斎藤:そうなんですよね。いろんな大学があるので、中にはマルクスを教えてる先生がいる大学もあるんですけれど。僕はもうドイツ行けばいいかなと。ただ、ドイツに行ったものの、ドイツも東ドイツと合併した関係でマルクスを研究してる先生はほとんどいなくて。行ってから気が付いたんですけど。

鎌田:そうなんですか。

斎藤:はい。なかなか大変だったんです(笑)。

鎌田:なかなか大変ですね(笑)。

斎藤:マルクスを研究している人は今非常に少なくなっている。でも研究をしないと資本主義というフレームワークそのものがどんどん絶対化していって。資本主義の中で問題を解決しなきゃいけないとなると、企業にインセンティブを与えるとか、今の制度とか枠組みの中での改革にしかならない。

最終的には僕たちが本当に必要としているようなアクションを取れなくなるというか。問題解決しようと言ってた人たちが、いつの間にか相手と結託して見せかけの改革をして、同じような構造をまた違った形で再生産することになってしまう。

どこかでこの社会の仕組み、それは資本主義だけではないんですけど、資本主義という一つの構造が本質的にある種の抑圧とか搾取を含んでいることを認識して批判していく必要があるし、そのための重要なノームの一つがマルクスなんじゃないかなと思っています。

今の制度の中で社会運動をして、根本的な解決になるのか?

鎌田:そうですね。考え方のフレームワークはすごく大事ですよね。それがあるからこそ違うことを考えられる。

斎藤:そうそう。

鎌田:斎藤さんがそれをほんとによく理解して、私たちに分かりやすく提示してくれるのが、すごくありがたいなと思っています。

斎藤:資本主義を前提として世界を見るのと、とにかく資本主義をいったん相対化した上で世界を見るのかで、少なくとも私たちの想像力の幅は全然違ってくる。社会運動もそうだと思うんです。今の制度の中でやっていこうとなると、政府からまず助成金をもらおう、助成金をもらうにはこういうことをやったほうがいいよね、というふうになってしまう。

そうではなくて、そもそもこの制度自体が問題なんだから、この制度そのものを変えていく運動をつくるのか。どちらをとるかで、5年後、10年後にたどり着く先が全然違う。

今の制度の中で運動をやったほうが、メディアに取り上げられたり、政府から仕事をもらえたりするかもしれないけれども、それがほんとに解決策になるのかということは、もっと批判的に考えなきゃいけないと思っています。

鎌田:そうですね、ほんとに。社会運動をする人たちに斎藤さんの考えやフレームワークを1回理解してもらえると、自分たちのやってることが既存の枠組みの中でのことなのか、それともその上を行く取り組みなのか、と見られるようになると思います。

斎藤:はい、そういう視点をみんなが持つことが重要なんじゃないかなと思うので。今日はお話できてとても嬉しかったです。

鎌田:はい。ほんとに良かったです。