エンジニアに囲まれた環境で育ち、プログラミングにハマる

アマテラス:まず、坂元さんの生い立ちから伺いたいと思います。現在に繋がる原体験等があれば、教えて下さい。

坂元淳一氏(以下、坂元):小学生の頃は周りに「エンジニア」が多い環境でした。父が大手の通信事業会社に勤めていて、会社の共済組合の分譲住宅を購入したことから、近所には同じ会社のエンジニアの家族が多く住んでいました。父自身はエンジニアではありませんが、近所のエンジニアのおじさんたちの影響で小学3〜4年生頃から電子工作やコンピューターの世界に興味が傾倒し始めました。

その頃日本でもパーソナルコンピューターが登場しましたが、高額なのでもちろん買えません。近所にパソコンを持っているおじさんがいましたが、高価なので触らせてもらえませんでした。

そこで、自転車で30分程のところにある、当時『マイコンショップ』と呼ばれるお店に通い始めました。そこには「100円を入れると10分間操作できます」といった時間貸しのPCが数台あって、主にBASIC言語を中心に独学で学びました。

当時のモチベーションはやはり“ゲーム”で、雑誌掲載のプログラムを打ち込んで動かしたり、簡単なゲームを作り、そのプログラムを当時の記憶媒体であったカセットテープにセーブして持ち帰ります。そして、また別の日に店まで通ってロードさせて続きをやる、みたいな日々でした。

そして、中学生になった頃、お小遣いと親の支援ではじめての8ビットPCを手にしました。

アマテラス:当時、自分でコンピューターを持っている子どもは少なかったでしょうね。そのままプログラマーを目指したのですか?

坂元:そうですね、当時周囲でコンピューターを持っている友達はあまりいませんでした。

しかし、中学も半ば頃にはそうした熱も冷め、高校に行くといろんな遊びやバンド活動など楽しいことを覚える一方で、すっかり勉強する意味がわからなくなっていました。

印象に残っているのが、微分積分ですが、その利用価値がわからず、赤点だらけでした。当然補習を受けるわけですが、先生に「微分積分って将来何に使うんですか?」と訊くと、「そうだなー、例えば積分は池の面積を測るのに使う」と言われ、「自分の人生にまったく必要ない」と思ってしまったことを記憶しています。積分はその後データ解析等で使うことになるのですが、やはりユースケースの共有は大事ですね(笑)。

そのまま20代に突入しますが、結局大学に進学する意義も見いだせず、アルバイトをしながらバンド活動をする、いわゆるフリーター生活を過ごしました。

そうしたアルバイトの中で活きたのが、小中学校の頃にやってきたプログラミングでした。主に汎用機(業務用コンピュータ)のプログラミングでしたが、在宅でも仕事ができたので、効率よくそこそこ稼げました。企業が業務システムを盛んに導入し始めた時代でしたし、プログラマー不足だったので、条件の良い仕事がたくさんありました。

その後の人生に大きな影響を与えた『Interop』への参加

坂元:プログラミングのバイトをする一方で、もう一つハマったのが展示会(見本市)の運営補助のアルバイトでした。これがマーケティングの原体験になったと自分では思っています。

25歳になってもアルバイト生活で、人生に不安を覚えつつ、親からも「いい加減にちゃんと働け」とプレッシャーを受ける中、「あるイベントで、イベント運営をよく知っていて、コンピューターにも詳しいスタッフを探している」と知り合いから声をかけられました。

それが『Interop Tokyo』で、僕が参加したのは1995年でした(国内の初回開催は1994年)。元々はインターネットのインフラに関する展示会でしたが、このイベントが起爆剤となって日本でインターネットが急速に普及したのです。

アマテラス:「起爆剤」とは、どんなものだったのでしょうか?

坂元:インターネットのプロバイダや商用ルーター、光ファイバー等のインフラ機器のベンダーが世界中から集まって、実際にブース間でネットワーク接続して相互接続の実証をしながら展示会をするという、アメリカ発祥の画期的なイベントで、当時は世界7か所で開催されていました。

当時の日本はインターネットなんて「まだまだこれから」の時代でしたが、多くの企業がInteropを契機にプロバイダ事業を始めたという歴史的なイベントでした。世の中はちょうどWindows95が発売され、インターネットバブルに突入する時期です。

当時インプレス社の『インターネットマガジン』という雑誌があって、それに「プロバイダーマップ」という付録図が載っていました。僕が最初に見たマップだと日米のバックボーンが1.5Mbs、プロバイダもポツポツある程度でした。

しかし、僕が参加した95年のインターロップあたりから、マップに載るプロバイダが年々急増し、97年にくらいになると、最初はA4見開き程度だったプロバイダーマップも、その頃には「A全」(=594×841ミリメートル)くらいの大きさになって、それでもマップに描き込み切れないほどのプロバイダがひしめき合っていたのを覚えています。

インターネット黎明期の爆発ぶりを自分の目で見て、そこで過ごしてきたというのは、その後の人生に大きく影響しました。Interopには産学の最先端で働くネットワークエンジニアが世界中から集まり、新しいテクノロジーを持ち寄って、英語で活発に議論しながらすごいスピードでプロジェクトを進行していく。普通には味わえないエキサイティングな環境を目の当たりにしました。

大手外資系ソフトウェアベンダーに入社し、プロダクトマーケティングの経験を積む

坂元:そのまま、当時のInteropなどをはじめとするグローバルITイベントの企画運営を行う会社に就職し、多くの大規模ITイベントの企画運営に携りました。

その後ご縁をいただき、米国の大手ソフトウェアベンダーのマーケティング部門に転職しました。当初はマーケティングコミュニケーション部門に配属されました。当時はITバブル真っ盛りで、とんでもない本数と予算規模のイベントを少人数で担当していました。

しかし、一番やりたかったのは花形のプロダクトマーケティング(PM)でした。3年ほどイベント担当に従事した後、自ら手を挙げて社内異動を申し出たところ、企業向けサーバーのPMを担当させていただくことができました。BtoBシステムの世界は詳しくなかったのでやっていく中で覚えることばかりでしたが、これも今の自分を形成する大きな経験となりました。

その後、コンシューマー向けサービスなどのPMも経験しましたが、外資企業のブランチ(支社)ではいろんな事業のアイデアを持っていても実践まで持っていけない感覚が強くありました。

この頃から「自分の裁量で事業を構築したい」「自分のアイデアでプロダクトやサービスを創出してみたい」という思いが強くなりました。そして、サラリーマンをやめ、起業する決断をしました。

起業後に携わったEVタクシーのプロジェクトが転機に

坂元:当時は今とまったく違うジャンルのサービスプラットフォームの開発を構想していたのですが、資本金ほぼゼロ円で起業し、エンジニアを抱えるお金もなかったことから、コンサルティング事業からスタートしました。

主にITベンダーのマーケティングや事業推進などをお手伝いする仕事に明け暮れていましたが、とあるご縁で当時(2010年頃)流行り始めたスマートシティの実証事業(国プロ)でプロジェクトマネジメントの仕事をさせていただいたことがきっかけで、転機を迎えます。

EV(電気自動車)タクシーの運用プロジェクトでしたが、当時はEVの量産車が存在しなかったため、プロジェクトの予算でガソリン車をEV車にコンバージョン(改造)して運用実証を行っていました。タクシードライバーもEVに乗るのは当然初めてですし、ガソリン車のように航続距離もないため、さまざまなトラブルが発生します。

そうした中で、リアルタイムに車両の位置や状態を把握できるシステムを開発したいという相談をいただき、弊社で手掛けさせていただきました。

当時はWeb開発の黎明期でしたが、米Googleが「Google Maps」のAPIを開示し始めるなど、いろいろとできるようになった時期でもありました。また、2007年頃に登場したスマートフォンが徐々に普及し始めた頃でもありました。

現在のCTOである梶田裕高が加わったのがちょうどその頃で、梶田が最初に試作したデモ段階でGOをいただくことができました。車載機側は他のベンダーのシステムを活用し、当社ではサーバーとUI(ユーザーインターフェイス)を中心に開発し、半リアルタイムのテレメトリシステム(遠隔測定機能)を3ヶ月程度で稼働しました。

ライブのデータにはすごいパワーがあります。リアルタイムで遠隔の自動車データが数字やグラフなどUIに表示されると、子どもの頃に憧れたSFの世界のようで、ご覧になった多くの方がその世界観に興奮されていたことが印象的でした。

それまで地味なUIデザインが主流だった産業アプリケーションにSF感を持たせることで、現場に従事される方々が目を輝かせて仕事に向かう感覚を得ました。

このプロジェクト以降、数多くのテレメトリシステムのご依頼をいただくようになり、ライブ感(リアルタイム性)とSF感のあるデザインにこだわってきました。

アマテラス:見せていただいたリアルタイムのデータを表示するダッシュボードなども、とても洗練されていて、こだわりが感じられました。坂元さんがデザインされたのですか?

坂元:はい。黎明期はデザインを担当していました。例えば、グラフをメータークラスターというパーツにして組み込む、並べる際にもバランスがあります。無作為に並べるとデザインが崩れるので、並べ方の黄金率みたいなのを見つけて、バランスよく、誰が並べてもキレイなデザインに並べられるようにしました。

ビジュアルパーツの発想ですね。自治体の実証実験でも、常にユーザーインターフェースが求められるので、どんなデザインにも対応できることを目指すところから始めました。

顧客からの高い要求に揉まれ、IoTの最先端を走る

坂元:プロジェクトの数を重ねていくうちに、顧客が求める機能要望も進化してきました。

我々が最初に開発していたシステムでは、エッジから1秒に1回のデータをクラウドに送信し、可視化アプリケーションに到達するまでに15秒かかっていました。大体の現在位置や機械装置のステータスを把握するだけならこの性能でよかったのですが、あるプロジェクトでの顧客要望で『2,000km程離れた離島にあるEV車両の故障時に故障分析を行いたい』という課題をいただきました。

車両の遠隔診断や故障分析となると、一定の細かなサンプリングでの制御信号の積分計算などを多用するため、最低でも10Hz(1/10秒に一回)のサンプリングが必要とのことでした。そこで、モバイル回線で可能な限り短周期のサンプリングデータをよりリアルタイムに伝送、収集するシステムの開発にチャレンジしました。

この時の実感として、「データ把握する点(サンプリング)を増やしてハイレゾリューション(高解像度)化し、リアルタイム伝送を実現していけば産業の現場は変わる」と思いました。

こうした経験から、“より細かく”、“よりリアルタイムに”、そして“よりかっこいいUI”をコンセプトとしたデータストリーミングプラットフォームの企画に取り組み、2013年に汎用ダッシュボードVisual M2Mを備えたプラットフォーム製品をリリースしました。

自動車メーカーの研究開発部門などでの採用が進み、更なる低遅延性やデータの細かさを求められるようになり、自ずと進化していきました。昨今、多くの企業がIoTシステムでやっているレベルのことを、ある意味で我々はすでに10年ぐらい前に実現していたと思います。

現在我々が取り組んでいるのは、5Gなど通信の進化とともにさらに大容量化、多様化するデータをリアルタイムで、しかも双方向にストリーミングする技術です。我々は要求の高い顧客に揉まれたことで、高精細な産業データストリーミングにおいては競合が追随できないレベルの製品を作り込んでいけるようになりました。そこが当社の強みだと思います。

IoTやスタートアップの広まりを追い風に、順調に人材を集める

アマテラス:IoTの先端を走るアプトポッド社ですが、経営面でさまざまな葛藤や壁にぶつかることもあったと思います。起業後の仲間集めはどのように進められたのですか?

坂元:最初はファウンダメンバー+数人でがむしゃらにプロジェクトを回していました。その頃はリファーラル(社員や知人の紹介)での採用が多く、候補者と一緒に居酒屋に行ってはパソコンを広げて「デモ」を見せます。デモを見せると「おおー!」と感動して仲間になってくれるのです(笑)。

運もよかったと思いますが、当時技術構成に必要なコアメンバーが一気に集まりました。その後はリクルーターの力も借りてシリーズAまでに20名弱までメンバーが増えました。当時はあまり採用に苦労した記憶がありません。

アマテラス:他社にはない技術に取組まれており、「こういうことをやりたい」という人が集まってきたんでしょうね。

坂元:その頃は「必要になったレイヤーの人材がうまく集まってくる」という感じで、気がついたら今の製品の原型を作り出すことができていました。当初のメンバーは少人数で勢いもあったので、一気に攻めていくことができ、楽しい時期でした。

その後、シリーズA資金調達をして、一気に50名ぐらいまで採用を増やしました。この頃にはIoTという言葉も広がり始めていて、採用ができなくて悩むことはありませんでした。スタートアップ企業が徐々に広がっていたのも追い風だったと思います。

ただ、そこからしばらくはカオスでした。的確な組織設計ができていないまま人員が急拡大し、いろいろな問題が出てきましたが、企業として必要な基礎つくりができた時期なのではないかと思います。

創業初期は資金手当てに苦労、調達による組織変化を経験

アマテラス:資金面で壁にぶつかるようなこともあったかと思いますが、いかがでしたか?

坂元:資金面では苦労し、黎明期から何度も危機がありました。

最も危機だったのは、少人数でほぼ受託事業だった時代にクライアント事情でプロジェクト案件が突然なくなった時でした。人数も年商も少なかったのですが、一案件の失注で一気に経営難に陥りました。その時はまだ数人規模でしたので自分の信用内でお金を借り入れて、何とか乗り切ることができましたが、今ではそうはいきませんね。

その後、プロダクト開発投資に踏み切る方針に舵を切り、シードラウンドで約1億円、シリーズAで6億6,000万円を調達しましたが、この時代の調達規模としては大きいものだったと思います。

そのお金で研究開発や活動の拡大を目指して20人から30人、50人と社員を増やしたわけですが、跳ね上がる固定費と将来の収益分岐点へ向かうキャッシュフローの計画バランスは本当に難しいと感じています。

そして、シリーズB、Cと進むわけですが、資金を調達する度にいろんなことが変化します。調達前後は、いろんな意味で組織にストレスが生まれます。壁にぶつかって、調達してまた先に進む。それを繰り返していると、社内のカルチャーも変わるし、新たに加わる人も、離脱する人も出てきます。

シリーズAが2016年で、前回のシリーズCが21年ですが、この5年の間に企業としても大きく成長し、社員の質も変化したと思います。

技術を先読みしながら中長期的な戦略が必要

坂元:BtoBのDXマーケットはこれから更に花開いていくタイミングで、取り組みもだんだんと長丁場になってきます。VC(ベンチャーキャピタル)と信頼をつくっていきながら、顧客にも長期にサービスを提供していく中長期的な戦略が必要で、今後も資金調達の必要性が出てくると思います。

我々のようなインフラ技術の会社は、先読みをした研究開発も必要になりますし、製品の成熟性も必要になってきます。おかげさまで顧客は順調に増えてきていて、2020年も大手製造業を中心に約30社の40プロジェクトほどに当社のプロダクトを採用いただきました。

そうしたお客様からいただく期待が大きな糧になっています。ただ、ビジネスを本質的にスケールさせるには、もう少し時間が必要だと思っています。

アマテラス:2020年からのコロナ禍では大きな影響があったと思いますが、アプトポッドではどのように乗り越えたのでしょうか?

坂元:2020年4〜5月は多くの顧客で案件進行を見合わせたため、本当に不安でした。7月頃から多くのプロジェクトが再開し急速に復活しましたが、全体的な期ずれ感はあります。

また、製造業の顧客が多いため、現地に出かけていっての作業や打ち合わせなど出張が多かったのですが、コロナでリモート対応が増えました。当社は元々オンライン化の整備が進んでいたので、一気に全社リモートワークに移行することができました。おかげでほとんどの社員で通勤などのストレスは減ったと思います。

反面、会社にいたらコミュニケーションが取れて問題なく進むことも、オンライン上のコミュニケーションで意思疎通の齟齬を生むことも起きました。

「データの血管」に自信、標準化を目指す

アマテラス:今後の課題について教えてください。

坂元:製造業大国である日本も大きなパラダイムシフトの渦中にいます。EV化や自動運転開発の加速で自動車産業も100年に一度の大変革期と言われており、グローバルでの業界構造も大きな変化を見せ始めています。

そうした中、これまで信頼性の高い“モノつくり”で勝負していた製造業のグローバルトップ企業の多くが取り組んでいるのが「X as a Service(XaaS.ザース)」に代表されるような、モノをつなぐ神経網のような“データネットワーク”です。

当社では、現在進行形で多くの製造業クライアントが取り組む、現場で起きる一朝一夕では解決できない“データストリーミングあるある”の課題と戦っています。そして、さらに先読みしてプロトコルなどの要素開発を行っています。

こうした要素技術をグローバルレベルで標準的に使ってもらえるように活動していこうというのが次のステップだと考えています。広く要素技術を使っていただくことで社会実装を加速し、そこで動かすソフトウェア・ミドルウェアなどをグローバルのより広いフィールドで活用していただき、事業を拡張したいと考えています。

アマテラス:最後に、今このタイミングでアプトポッド社に参画することのメリットや意義は何でしょうか?

坂元:当社は、“データ”という未来社会における血液を流すための血管や神経網を構築するための技術やプロダクトを作っています。例えば、本格的な自動運転の社会実装においては、必ず高速なデータパイプラインによる協調システムが必要です。

当社に参画することで、自動車、建設、ロボティクス、農業、医療などのさまざまな産業分野で「未来社会の実装者」になれると思います。そうしたさまざまな分野で本格的な未来社会に組み込まれていく現実を味わえる。今まさに、そのような成長ポイントに差し掛かっていると思います。

アマテラス:本日は貴重なお話をありがとうございました。