第5期宇宙飛行士選抜のファイナリスト、内山崇氏

――この秋、日本で13年ぶりに宇宙飛行士選抜試験が行われるということで。前回、2008年の第5期宇宙飛行士選抜のファイナリスト(最終選抜メンバー)である、内山さんにお話を伺えればと思います。よろしくお願いいたします。

内山崇氏(以下、内山):はい。よろしくお願いします。

――まず最初に、これまでの内山さんのご経歴と今のお仕事について、自己紹介いただけますでしょうか。

内山:はい。第5期宇宙飛行士選抜のファイナリストだった、内山と申します。今、JAXAで仕事をしておりまして、長らく「こうのとり」という宇宙ステーションに物資を輸送する宇宙船のフライトディレクタとして、初号機から9号機までミッションを完遂しました。

フライトディレクタというのは、運用管制官ですね。種子島から打ち上げられた宇宙船を遠隔操作して、宇宙ステーションまで物資を安全に届けるための舵取りをするリーダーです。

2020年に最終号機となる9号機を終えましたので、今は「2代目こうのとり」ともいえる、新型の宇宙船の開発に携わっております。新型の宇宙船は、国際宇宙ステーションのみならず、アルテミス計画の月周回ステーション「ゲートウェイ」。これもまた国際協力で作っていく、月面や火星へのアクセスにおけるハブになるようなステーションなんですけども。そこにも物資を輸送できるような、発展的な設計を仕込んでいくということを、今、やっております。

「日本人も宇宙に行ける時代」の訪れ

――ありがとうございます。そんな内山さんに、前回の2008年の宇宙飛行士選抜についてお伺いできればと思います。まず、なぜ内山さんは宇宙飛行士を目指そうと思われたのでしょうか。

内山:10歳の頃に、初めて生の宇宙開発の最先端に触れた機会がありまして。スペースシャトル・チャレンジャー号の事故がセンセーショナルにテレビに映されて目に入ったんですが、それを見て「もう、宇宙が近い時代に来ているんだな」と。

当時は「(近いうちに)毎週ロケットが打ち上げられるようになる」みたいなことが言われていたんですけど。「アメリカではもう、こんなに大きくて、翼があって滑走路に着陸してくる宇宙船の運行を開始している。そういう時代が来たんだな」という宇宙開発の最先端を知ったんですね。

もともと宇宙とか、果てしなくいっぱい星があるとか、宇宙の果てがどんどん広がっているとか、宇宙人がいるかもしれないとか、そういうのが好きだったんですけど。それを知って宇宙開発に憧れを持った、というのがきっかけでした。

その時は漠然と「宇宙開発、なんとなくやりたいな」みたいな感じだったんですけど。大学生の頃にちょうど、日本人宇宙飛行士が生まれたんですよね。スペースシャトルに搭乗する宇宙飛行士だったり、当時、TBSの社員だった秋山豊寛さんがロシアの宇宙船で宇宙へ行ったりして。

「日本人も宇宙に行ける時代」が訪れて、そこで宇宙飛行士を意識するようになったんです。1990年当時は、3~4年置きに宇宙飛行士の選抜が行われてたんですよ。それで「自分が社会人になって経験を積んで受験資格が得られたら、絶対に受けよう」と、その時に明確に意識しました。

そのために必要なのは、宇宙開発に身を置くことだろうなと思っていて。宇宙開発をどうしてもやりたいということで、こだわって大学の専攻だったり、会社だったりを選びました。

急に受験生に戻って、ゾクゾクするような緊張感が走った

――なるほど、ありがとうございます。そして、2008年に宇宙飛行士選抜試験を受けられたということですが、そのときの背景や心境について伺えますでしょうか。

内山:はい。まずそのときの背景なのですが、僕にはなかなかチャンスが訪れなくて。星出彰彦さんたちが選ばれた、1回前の選抜試験が1998年に行われてから、実は10年ほど空いたんですよね。

私は既に宇宙開発に身を置いていたんですけど、2003年にコロンビア号の事故が起きてしまって。宇宙ステーション計画自体が止まったりして、選ばれた3人の宇宙飛行士(古川聡氏、星出彰彦氏、山崎直子氏)もなかなか宇宙に行けない。

1996年に選ばれた野口聡一さん以降、宇宙に行く機会もだいぶ減ってしまうという状況にあったので、しょうがないかなと思っては見ていたんですけど、10年空いちゃったんですよね。

それで半ば忘れかけてたというか「次はいつあるんだろう?」というのを掴みかねていた時に、自分にとってはサプライズで、思ったよりも早いタイミングで「第5期宇宙飛行士選抜試験」が発表されて。それを聞いた時に、すぐに長年の夢を思い出しました。

働き出してから9年目だったんですけど、急に受験生に戻ってゾクゾクするような緊張感が走りました。「絶対受けよう」と即断して、すぐ受験の準備に入りました。

体中の“穴という穴”すべてを調べられるような医学検査

――ありがとうございます。では宇宙飛行士選抜試験というのは、そもそもどういった試験なのでしょうか。

内山:試験自体は、全部で10ヶ月の工程があります。書類選抜が始まってから、一次試験、二次試験、三次試験(最終選抜)という流れで、段階的に選抜していく方法をとっています。

第5期では、日本史上最多の963名の応募があって、まず書類選抜と英語の試験で230名に絞られました。続く一次試験は、筆記試験と身体検査。「ちょっと軽めの人間ドッグ」程度の身体検査でしたけれども、それで50名に絞られるんですね。

その50名から、本格的な「宇宙飛行士の資質」を見抜く、密度の濃い二次試験が始まります。1週間ほど病院に泊まり込んで、かなりの精密な、体中の穴という穴すべてを調べられるような医学検査であったり、スポーツテストみたいなものだったり、身体の機能検査ですね。加えて、各種の面接や検査を山のように受けました。

そこから絞られた10名が、最終選抜メンバー「ファイナリスト」として、最終選抜試験に臨みます。最終選抜試験は全部で18日間。会社を休んで受けないといけない状況なので、それぞれの候補者が所属している会社にJAXAの担当者が挨拶に来るんですね。

「この人は受験されていて優秀な成績なので、ぜひとも最終選抜試験を受けさせてください。合格した暁には宇宙飛行士の候補として採用させていただきますので、JAXAに転職させてください」というお願いに上がるというのがあって。承諾を得た10名が、最終選抜試験に臨みます。

そこから、2名(大西卓哉氏、油井亀美也氏)が選ばれて、半年遅れて1名(金井宣茂氏)が補欠で選ばれました。(書類審査から最終試験まで)トータル10ヶ月間の試験でした。

先の見えない階段を登り続けて、扉を開けるとまた階段が

――10ヶ月間の長丁場。一次選抜、二次選抜、最終と進んでいくと、気持ちがどんどん上がっていくというか。実際に試験を受けている間も、結果を待っている間も、気持ちが休まることがなかったのかな? と、想像したのですが。そのときの心境はいかがでしたか?

内山:当時はずっと、かなりモチベーションを高く維持できましたね。前回の試験から10年待っていますから「次、いつあるかわからない」「もしかしたら一生に一度のチャンスかもしれない」という考えが、やはりどこか頭の片隅にあって。

「最初で最後のチャンスかもしれない」と思ったら、がんばれますよね。たぶん受かった3人もそうだと思うんですけど、最初は誰も「自分が受かる」とは思っていないで受けているんですよ。もちろん「受かりたい!」と思って受けているんですけど、でもわからないじゃないですか。

「どのレベルに達すれば宇宙飛行士として資質を見いだされて、選ばれるのか?」が、まったくわからないんですよね。過去問もないし、A判定、B判定みたいなのもない。しかも、何をどう評価をするのかもわからない試験なので。

本当に先ほどおっしゃられたように、途中で一次試験、二次試験って関門をクリアするたびに、どんどん「もしかしたら、もしかしたら」というのがつながっていくというか。

先の見えない階段を登り続けて、扉を開けるとまた階段があり。また扉が見えるんだけど、その扉を開けるとまた階段があり……という。ステージをクリアするたびに、まだ上が見えないという状態で。

最終的には最終選抜まで来て「あとちょっとで届くところに来た」。ようやくそこでゴールが見えてきた。「いったいどういう人が選ばれるのか?」が、ようやくわかった。そんな感じでしたね。

「ライバル」というよりは「共に宇宙を目指す同志」

――なるほど。それだけ長い時間の選抜で、特に印象的だったことはありますか?

内山:やはり「最終選抜に残った」というのは、自分にとってもかなりのサプライズでしたし、そこでぜんぜん違う気持ちになりましたね。(一次通過時の)50名でも、「その中から2~3名でしょ?」という感じで、まだまだわかんないですよね。みなさん、かなり優秀でしたので。まだまだ実感がないというか「まだちょっと遠いな」という感じなんですけど。

10名まで行くと、一気に可能性が出てくるわけですよ。だから、自分としては元々覚悟していたつもりなんですけど、あらためて「宇宙飛行士としての人生を歩む」という覚悟を、あらためて確認しましたね。

それはたぶん、僕の家族もそうだと思うんですけど、それまでは手放しで応援してくれていたのが「もしかしたら本当になるかもしれない」というので。いろいろとリスクもありますので、あらためて覚悟を決めたという気持ちの変化がありましたね。

試験自体はすごくおもしろかったんですよ。例えば二次試験も「こんな試験・検査なんて、たぶんもう一生受けることもないんだろうな」という検査でしたので。僕が所属していた班は女性が1人もいなくて、本当に男子校のノリで。部活・合宿みたいな雰囲気で学生時代を思い出しました(笑)。

――(笑)。

内山:お医者さんたちも楽しそうなんですよ。病院の方たちって、ふだんは身体が弱っている人たちを検査するわけじゃないですか。でも宇宙飛行士選抜では、元気ピンピンの人たちが検査されて。当然、胃カメラとか大腸検査とかって、ちょっと辛かったりするじゃないですか。

だけど基本的に受験者はみんな健康なので、それを楽しんで見ている医療関係者の人たちがいて。「やはり宇宙飛行士って、ドMの人が気質としては合うんだろうな」と話したり(笑)。

あとは仲間(受験者)たちが、世代でいうとだいたい30代。だいたいそのぐらいの年齢に入るんですけど。同世代で、同じ宇宙飛行士を目指す仲間と会えたというのが楽しかったですね。

「ライバル」というよりは「共に宇宙を目指す同志」という雰囲気で、素晴らしい仲間ができた。今でもつながっていますけど、そういう関係性が築けたというのは、宇宙飛行士試験の不思議な力だったり、醍醐味であったり。本当に得られたもの、人生の財産だなと思います。

「もう、言い訳のしようがない」ところまでやりきった感

――ありがとうございます。そんな試験を経て、最終結果の報告を受けられた。そのとき、どういった思いだったかについて教えていただけますでしょうか。

内山:そうですね。最終選抜試験は本当にかなり濃い試験で「もう、これ以上見せられることないんじゃない?」というぐらい、個人個人の能力だけじゃなくて人間性を含めてすべて見られました。「この人は、他人の命を預かることができる人間なのか?」。あとは、JAXAの審査員の人たちからも「一緒に、命を懸けて働きたいかどうか?」を、徹底的に見定められるような試験だったんですね。

だからもう、ほとんど対策の取りようがないんじゃないかというぐらい、徹底的にいろんな面が見られたという意味で、たぶん僕だけじゃなくて、ファイナリストの方は全員だと思うんですけど、「もう、言い訳のしようがない」ところまでやりきった感があると思います。

これだけ見られて、結果として「選ばれる・選ばれない」というのは非常に大きな分岐。人生が変わる分岐なんですけども。でも「もうここまでやって、これだけ見られた上で評価されて。その結果であればしょうがない。どうこう言えるような隙間は1つもないな」という思いだったんですよ。

本当にやりきって。もちろん「あそこ失敗したな」とかは山ほどあるんですけど、そんなのたぶん、みんなそうで。全部が全部パーフェクトで進むような、そんなことができるような試験じゃないんですよね。どこかでみんな失敗しながら、たぶん「試験の中でも成長しながら」という試験だったんですね。それ自体、非常に大きな経験だったなと思うんですけれども、もう結果については「受け入れるしかないだろうな」という心は決まっていました。

目の前で見てしまった、他の受験者が合格する瞬間

内山:そして、最終結果は電話で受けることになっていたんですが「どこでその電話を受けるか?」を選べたんですよ。自宅でもいいし職場でもいいし、あとはJAXAが用意したホテルに前夜から泊まってもいいし。「朝、結果の連絡をするので、受かった人はその足で記者会見に行く」「すべてを用意した状態でホテルに泊まることもできる」と。

僕を含めて4人、ホテルを選んだ人がいました。だって、なかなか仕事は手につかないですよね。

――そう思います。

内山:結果を聞いたあと、それがどっちであれ、もう仕事は手につかないだろうなと思っていたので、僕は発表の日は休みを取ってホテルに移動したんです。

そこでみんなと話していたことがあって。それまでファイナリストみんなで仲良く、本当に絆ができているんですよね。「厳しく意地の悪い課題を、みんなで一緒にくぐり抜けた」という感覚があったので。本当に“10人ワンチーム”になっていたんです。けど、今日の合格発表を境に大きく2つに分かれるよね、と。

「人生が変わって新たに宇宙飛行士としての道を歩む者と、今までの場所に強制的に戻される者とに分かれる。きっと『今と同じ関係性』ではいられなくなるよね」とか。けっこうセンチメンタルな話をしながら、朝ご飯を食べていたんです。

そしたら、約束の時間よりも早く電話が鳴り始めたんですよ。僕の前に座っていた大西(卓哉)くんが電話を取って「よろしくお願いします」みたいな感じになってて。電話が終わって「合格の電話だったよ」「おめでとう」というやり取りをしたわけですよ。

本来なら個別に結果報告を受けるはずなのに、選抜側の大人の事情もあって、約束を破って早く電話がきた。僕ら4人は一緒にいたから、目の前で合格者が出るところを見てしまった。

油井(亀美也)さんは「携帯を置いてきた」と言って、部屋に戻って。僕らのところに帰ってきた時には「ちょうど合格の電話が来たところでした」と言って。そこから1時間は経たなかったかな? 僕ら残された2人は部屋に帰って、不合格の電話を待つという。

でも、もう間接的に結果はわかっちゃってたから、多少ワンクッションあったという意味では「ドキドキしながら、電話で結果を聞く」という感じではなかったんですよね。幸か不幸か。

それで、その時思ったのは「だめだったか」という。当然、試験でいくつも失敗してるので「(原因は)あれかな、これかな」というのはあったんですけれども。まだ合格する可能性としてはゼロではないのかなと思っていたので、やっぱりショックですよね。

持って行き場がない気持ち・葛藤・わだかまり

内山:わかってたこととはいえ、だめだったら元の場所に戻される。「次の試験は5年後で、その時にシード権があります」とか、そういうものもなんにもないので。まったくゼロに戻る、という状況になるんですよね。

でも「なんであいつが選ばれたんだ」みたいなのはまったくなくて。「(ファイナリスト10名なら)誰が選ばれても、宇宙飛行士としてたぶんやっていけるんだろうな」という実力を認めるというか、みんながみんな「この部分はやっぱすごいよな!」というのをお互い認め合える関係性だったので。そこはぜんぜんないんですよ。

たぶんみんながそうだと思うんですけど「彼らなら絶対やっていけるよね」という確信はあったし。だから、結局は自分自身の心だけなんです。葛藤というか、わだかまりというか。持って行き場がない気持ちは自分自身で消化しないといけない、という状況で。それがやっぱり、ちょっと長く続きましたね。

なんというのかな。ショックというよりは……要はそこまで高めてきて「もしかしたら、宇宙飛行士になれるかもしれない」と心の準備まで万端にしていた状態から、元の場所に戻された。そこが辛くて。心にぽっかりと穴があいた。

別に、ずっと悩んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり、ふとしたきっかけにそういう思いがどうしても蘇ってくるというのが、10年くらい消えなかったですね。それが、この本『宇宙飛行士選抜試験 ファイナリストの消えない記憶』を書くきっかけという話にもなるんですけど。10年ぐらいは、なにかしら引っかかっているものがあったなと思っています。

ふとよぎる「もう1つの人生ってあったかもしれないな」

――今、内山さまが書かれた本のお話も出てきましたが。こちらで一番印象に残っているのが、210ページ。合否連絡を受けた帰り道で、JAXAの選抜委員の方と偶然会って。別れ際に「自分を誇っていいんだよ。よくやったね」と声をかけられ、今まで堪えていたものが急に流れ出した、というエピソードです。

そういった気持ちが10年ぐらい、ずっと考えているわけじゃないけど、なにかのタイミングで「もしかしたら自分、宇宙飛行士だったかも」って、ふわっと浮かんでくるといった感じでしょうか。 

内山:合格者が僕の近くで宇宙飛行士になるために訓練を開始して、生き生きとしているわけですよね。それを見た時に、ふと「もう1つの人生ってあったかもしれないな」ってよぎることもありました。「もうちょっとがんばらないと」という状況になった時には、逆にそこまでやれた自分を誇らしく思って。「絶対にやれるはずだ」という気持ちに持っていくこともあるんですけど。やっぱりどうしても、ちょっと傷ついているんですよね。そこはしばらくあったと思います。

いろんな貴重な体験をさせてもらって、伝えたいことも湧き上がってきて、最終的に本を書きましたけど。そこに至るまでは正直、自分の心の中を人に話すことはまったくできなかったですね。

ファイナリスト同士でさえ、同じ体験をした間柄で多少は話せるんだけど、ある一線以上深くには、お互い入り込まないという部分はあったと思います。ある程度のところまでは話せるんですけれど、それ以上のことは触れない。

だからやっぱり、同じ思いをしてない人(試験を受けていない人)にちょっとやそっと話したところで「絶対わかってもらえないだろうな」というところはあるんですよ。ちょっとしゃべれば、やっぱり「悔しかったよね」みたいに中途半端に同情されるのが、すごく嫌で。

ようやく本でまとめてここまで書いたんで、話せるようになったんですけど。正直、本当に話せなかったですね。今おっしゃった210ページの話も、本を書くまで誰にもしたことなかったです。誰にも話せなかった。