型に収らない仕事を目指し独立、初MCに

住谷知厚氏(以下、住谷):こんにちは。ワクセル総合プロデューサーの住谷です。この番組は、ワクセルのコラボレーターや特別ゲストをお招きして、お話しをうかがっていく番組になります。今回僕と、初MCになりますワクセルコラボレーターの萩野苑子さんがMCを担当します。よろしくお願いします。

萩野苑子氏(以下、萩野):よろしくお願いいたします。

住谷:萩野さんの紹介を、私のほうから簡単にさせていただければと思うんですけど、萩野さんはミス・パリ・ビューティ専門学校を卒業され、ミス・パリ・ダンディハウスに就職されております。今はどういったお仕事をされていますか。

萩野:大手の経験を経て、6年前に個人エステサロンをオープンさせていただきました。完全プライベートで、大手とは違って、一人ひとりに合った施術をオーダーメイドみたいなかたちでさせていただいています。

住谷:それをやろうと思ったきっかけはなんなんですか?

萩野:そうですね。エステをやりたくなったきっかけはすごく昔なんですけど、独立したいと思ったのは、大手の良さもあるんですけれども、やはり型に収まってしまう。

自分の「もっとこの方にはこうしたい」というのが出てきてしまって、でもメニューだったり、料金だったりというのが会社で決まっているので、そうではなくて自分で考えてやっていきたいなと思って独立しました。

住谷:今はお子さんもいらっしゃるということで。

萩野:そうですね。おかげさまで昨日1歳2ヶ月になりました。

住谷:1歳と2ヶ月。今日は?

萩野:今日は主人がお迎えに保育園に行って、今頃離乳食をあげて寝かしつけているんじゃないですかね(笑)。

住谷:(笑)。わかりました。今回初めてのMCということで、緊張されていますか。

萩野:緊張しています(笑)。

(会場笑)

住谷:どうですか。意気込みは。

萩野:本当に、仕事柄表舞台に立つことはないので、すごく緊張しているんですけれども、今日はゲストのコウタさんにお会いできるのをすごく楽しみにしていたので、一緒にお話しをうかがえればなと思っております。

住谷:そうですね。盛り上げていきましょう。 

萩野:よろしくお願いします。

CGのない時代からアートディレクターとして活躍

住谷:では、今回のゲスト、コウタさんになります。よろしくお願いします。

コウタ(以下、コウタ):よろしくお願いします。

住谷:今イスに座られているんですけれども、スタイルがものすごいいいですよね。

コウタ:ありがとうございます。うれしい。

住谷:お会いした時からすごい元気。明るさだったりとかエネルギーがすごいなという感じです。

コウタ:光栄です。ただのおちゃらけおばさんなんですけどね。

住谷:いえいえ(笑)。さっそくコウタさんの経歴など、フリップにまとめさせていただいていますので、それに沿って自己紹介だったり、気になる点をどんどんヒアリングさせていただければと思います。よろしくお願いします。

さっそく、こちらがコウタさんのご経歴になります。1962年東京都生まれ、1984年にアメリカニューヨークのパーソンズ美術大学在学中にスカウトされ、アートディレクターになられます。このアートディレクターというのはどのようなお仕事になるんですか?

コウタ:1984年ですから、まだコンピューターグラフィックなんかなかった時代です。すべての広告は線を引いて絵を描いて、もしくは写真を撮るというかたちになる。アートディレクターはその広告のイメージや絵を作っていました。あとはコマーシャル作るときの絵コンテを描いたりとか。

必要とされていた「2カ国語がしゃべれるアートディレクター」

住谷:なんでアートディレクターをやろうと思われたのかなと思いまして。

コウタ:会社の名前は出せないんですけれども、当時世界中に点々とオフィスを持っていた広告代理店があったんです。そして営業の方たちが、(その広告代理店の拠点がある)ニューヨークなりロサンゼルスなりロンドンなりに、いわゆる出向として行かれるわけです。

例えば日本のカメラや日本の自動車といったものの広告を作っていくとなると、(その広告代理店の)営業の方々は、そういった(広告主の)会社の、日本から出向されている営業の方々と、接待なり、いろいろな関係を持たれるからいいんです。でもいざ広告を作るとなると、アートディレクターだけは日本から出向されているんですけど、それ以外の制作スタッフのみなさんは、やはり言葉の問題がある。

現地のアートですから、コピーライターもみんな現地の方なんですよ。そうすると営業会議、また広告を作る時の会議になると、ぜんぜん意思の疎通が取れなくなる。日本人のクライアントと日本人の営業、日本人のアートディレクターはみんな日本語で話して、外国人のコピーライターがそっちのけになってる。

会社内でいろいろそういった問題が出てきた時に、新世代のアートディレクターには、絶対に広告の業界でも2カ国語、つまり日本語と英語をしゃべれる人間が必要になってくるだろうと。

確かに、当時のアートディレクターという仕事は、非常に厳しい漫画家のお弟子さんとかアシスタントさんみたいな仕事ですから。線を引いて、朝の9時から夜中の3時まで起きて仕事をしている。広告代理店の人間としては、そういった人を美術大から引っぱってきて、イチから鍛え直してやろうという思惑があったんですね。そこに私がピッタシはまっちゃったんです。

海外特派員の父の影響で、世界中を転々とする幼少期

コウタ:そこに行き着くまで、なぜそういった仕事に美術大を中退してまで就いたのかというと、私の父親がもともと海外特派員の新聞記者だったんです。なので私は東京生まれなんですけど、4歳の時にロンドンに行って1年半、そこから父が国連勤務になって私もニューヨークに行くんですね。

父親、母親は戦前生まれの戦中育ちで、当時ロンドンのウィンブルドンパークというところに住んでいたんです。テニスのウィンブルドン選手権が開催されるところです。当時のウィンブルドンパークにはユダヤ人と東洋人しかしかいなかった。しかし言葉はいわゆるロンドンの下町言葉のコックニー訛りでしゃべっていた。

それが今度は、ニューヨークのウエストニューヨークという、ニュージャージー側に移るわけですけれども。ニューヨークというのは、イタリア系、ポーランド系、ユダヤ系、アイリッシュ系、ドイツ系、いろんな人たちがあそこをゲートウェイとして、アメリカに入ってきているわけです。

そういった人種のるつぼと文化のるつぼ。また言語も昔の言葉を引きずってきて、それでニューヨーク訛りができているわけです。日本でいったら、岸和田ことばみたいなもんなんですよ。岸和田の人たちをディスっているわけじゃないですよ(笑)。

そのロンドンのコックニー訛りの子が、いきなりだんじり野郎の岸和田訛りのところに入っても、ぜんぜん言葉が通じないわけです。引っ越してきて最初の6ヶ月ぐらいは、ニューヨークでもぜんぜん言葉をしゃべらなかったらしいんですが、子どもは吸収が速いので、あっという間にそこに染まっていったんです。

「コウタくんはもう1回、1年生からやり直しさせたほうがいい」

コウタ:小学校2年生の時に東京に帰ってくるんですが、日本語があまりしゃべれない。昭和44年なんですけれども、早くも学歴レースの社会になっていて、当時の校長先生が「コウタくんはもう1回、1年生からやり直しさせたほうがいい」と言って、父親がそれを鵜呑みにしたんですよね。まったくもう……。

1年からやり直しになるんですが、日本にはわずか6ヶ月しかいなくて、今度は父親がインドに転勤になっちゃうんです。

住谷:ええ!

コウタ:1969年の秋。今のインドと違って、テレビもラジオもなにもないような時代です。小学校1年生から6年生まで全校36人というインドの日本人学校に行っていました。先生たちがみんな大阪体育大学を出た方ばかりで、私はインドで大阪弁を覚えちゃうんですね。そんな話はどうでもいいんですけど。

(一同笑)

コウタ:6年生の時にインドから帰ってきて、中1まで東京にいたんですが、中2の時にまた父親が仕事を変えて、ロサンゼルスに一家で戻るんです。昔覚えていた英語というのは、子どもは引き出しやすくないから、もう感覚としてでしか覚えていないんですね。そこで中2の勉強をやるところを、もう1回、中1からやり直しをさせられるんです。

「僕は男じゃない。僕は女の子なんだ」

コウタ:そのうち思春期に入ってくるんです。またあとで話しますけど、もともと私は物心付いた時から「僕は男じゃない。僕は女の子なんだ」という問題もありましたし、あまりにも普通じゃないような育ち方をした。

今、非常にかいつまんで話しているんですけど、ハイスクールを出るまで私は17回、世界中に転校しているんです。最後はやはり両親も(私の問題に)気付き始めて、こいつの精神を心底叩き直そうというので、アメリカのカールスバッドにあるアーミー・アンド・ネイビー・アカデミーという軍隊学校に、2年間入れられるの。

住谷:ええ!

萩野:軍隊学校ですか。

コウタ:軍隊学校と言うと聞こえはいいし、今はいい学校なんですよ。でも当時、1978~9年の時は、ミシシッピー川の西側のワルがみんな入れられる、いわゆる『あしたのジョー』が入れられてた東光特等少年院のようなところなわけ。ますますそこで悪くなった。一応ね、卒業した時には一等兵で卒業しているんだけど、そんなこともあったのね。

ようやく、これがもしかしたらアートディレクターになるきっかけかもしれないんですけど。軍隊学校にいる間はぜんぜん絵を描けなかったんですけれども、ニューヨークの中でもいいほうの美大に入ったわけなんです。なんとかその感覚の世界、創り出す世界に入っていきたいと思って、美大に入ったんです。ごめんなさい、話が長くなって。

アートディレクターから野球界の通訳へ、「自分探し」の始まり

住谷:いやいや。ありがとうございます。そこから1997年、ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝選手の通訳や、野茂英雄選手、吉井理人選手の通訳や広報を勤められ、巨人とヤンキースの業務提携や、WBCの開催にも尽力されたということで。これ、突然アートディレクターから通訳に職業が変わられているんですけれども。

コウタ:今の伏線が活きてきます。

(一同笑)

コウタ:フリップに書いていないから言うんですけど、アートディレクターになるのが1984年なんです。ある人を通じて、もう今は亡くなりましたけどダイエー(創業者)の中内㓛オーナーのことを存じ上げていたんですね。それで1988年に中内さんが南海ホークスを買収されて「福岡ダイエーホークス」になった時に、私は球界に入ったんです。

アートディレクターをやっていれば、来年還暦なのでそれこそ定年間際で、シニアアートディレクター以上のいいポジションまで行ったかもしれません。ところが、「自分はいったい何者なんだろう」というところがちょっと出てくるわけです。

いくら心の中で「自分は女の子だ」と言っても、私は野球少年で、ギター少年でもあったのね。野球が大好きで大好きでしょうがなくてずっとやっていたんです。

当時日本では、クロマティ選手とかランティ・バーツ選手が帰られたあとで、いろいろ外国人選手と日本球団との問題が始まっていたんです。球団で通訳とか渉外担当やられてた方がご高齢の方だったり、もしくは選手上がりで言葉を覚えた方だったりするわけです。つまり「異文化」をあまり理解してない方が多かった。

そこで私は球団の通訳を「ぜひやりたい」と名乗り上げたんです。広告代理店のみんなは、「お前、おかしくなったのか? 何考えてるの? こんな花形みたいなニューヨークのアートディレクターという仕事して、なんで福岡ダイエーホークスに入って通訳や渉外担当をやろうとするんだ?」って。

本当のことを言うと、私の「自分探し」が始まっていたんですよね。でも確かに野球は愛していましたし、福岡ダイエーホークスが初代の杉浦忠監督から田淵幸一監督になって、そして当時西武ライオンズの管理部長をされていた根本陸夫監督にスカウトされて、1993年に西武ライオンズに入りました。

黄金期のライオンズからヤンキースへ入団、そしてクビに

コウタ:西武ライオンズは黄金期です。清原和博、秋山幸二、シゲ(石毛宏典)さん、辻発彦さん、伊東勤、渡辺久信……あの時代です。私は森祇晶監督から東尾修監督になったあとの1997年まで西部ライオンズにいたんです。

ちょうどその時に、とある方からお誘いを受けまして。「浩ちゃん、伊良部秀輝をヤンキースに入れようと思っているんだよ。どう? ヤンキースに入らない?」という。ところが伊良部選手が移籍されるまで、大変複雑な法的な手続きが必要だったので、まず私が西部ライオンズを退団して、1997年の1月に環太平洋事業部長というかたちでヤンキースに入りました。

そこで、やがてサンディエゴ・パドレスからヤンキースにトレードで入ってくる伊良部くんのためのお膳立て、つまり通訳を決めたり広報を立てたり、そういうことをするはずだった。ところが伊良部くんが、なかなか……(笑)、いろいろあったんですけど。

住谷:(笑)。

コウタ:結局、私以外にそういうことをやる人間がいなくなった。ニューヨークの事情もわかっていましたので、その1年は伊良部くんのすべてのことを、広報を含めてやったわけです。

ところが1年目、1997年。伊良部くんの成績が振るわなかったので、当時名物オーナーのジョージ・スタインブレナーオーナーが、「なんで伊良部の調子が悪いんだ。誰のせいだ!」と言ったら、球団のある人間が「コウタという奴のせいですよ」と言ったんです。

住谷・萩野:ええ!

コウタ:12月の第1週にクビを切られるんです。その時私はずっと広報を兼ねていたので、ありとあらゆる新聞記者の人たちと仲良かったんです。あるデイリーニュースのスポーツ記者が電話をかけてきて、「コウタ、12月のこんな年の瀬になってクビを切られて、お前どう思う?」と言ってきたから、私はそれまでがんばっていたのに、「なんだこれは、パールハーバー(真珠湾攻撃)に対しての報復か?」と言っちゃったんです(笑)。

住谷:(笑)。

コウタ:そこで12月に出るはずだった給料がカットされて。翌年1998年は団野村さんの事務所で、代理人(エージェント)としての勉強をロサンゼルスでやるんです。その時はもちろん、伊良部くんもいましたし、野茂茂雄さんも吉井理人さんもマック鈴木さんもいました。

WBCの優勝をきっかけに性転換手術を決意

コウタ:そこでまた1998年にスカウトされて、ニューヨーク・メッツに入ります。ちょうどボビー・バレンタインが監督の時だった。日本人選手では吉井さん、野茂くん、マック鈴木もいました。日本でニューヨーク・メッツが開幕戦をやった時にスカウトされて、読売巨人軍に入りました。

巨人軍でニューヨーク事務所を立ち上げて、ヤンキースとの業務提携をするんです。それからWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の企画が立ち上がったんですが、あの時はまだWBCという言葉じゃなかった。「World Cap of Baseball」だったんだけど、当然サッカー側が「それはやめてくれ」って言ってね。

WBCの企画、ニューヨーク・ヤンキースと巨人との業務提携、それとある選手をヤンキースに入れるためという、そういう3つの仕事を3年間やっていてね。ちょうどニューヨークと東京が13時間から14時間の時差なので、朝の9時からニューヨークで働いて、帰ってくると東京の街が起き始める。そういう無茶をやっていたんです。

でもある日、自分の心に収めていたものが、WBCで王貞治さんが監督で優勝した時に、サンディエゴで爆発するわけです。「こんなことをやっていても、確かに球界で偉くはなるだろう。でもお前、なにかずっと嘘をついていないか」と。「そうだ。私は女性だ」と思い出したんです。それまでのいろんな遍歴もあるし、その場にいれば安泰なのに、なんでそれを崩してまで性転換手術をやったかというと、それまで自分に嘘をついていたからなんです。

住谷:それで2003年に……。

コウタ:そうです。

住谷:ありがとうございます。フリまでいただいて(笑)。

コウタ:ごめんなさいね。

住谷:そこで2003年にホルモン治療を始め、喉仏も削り、声帯手術も受け、性転換手術を受けられました。コウタさんが今おっしゃられたような思いから、行動にうつされたんですね。