甘糟りり子氏×長倉顕太氏による対談

司会者:みなさま、こんばんは。真夏の夜にお忙しいところ、お集まりいただきありがとうございます。今日は甘糟りり子さん著、『バブル、盆に返らず』というエッセイ集にちなみまして、長倉顕太さんとのトークをやってまいりたいと思います。

バブル(時代)を取り扱った本はたくさんあるんですが、その中でも経済というより遊び・風俗・カルチャーの畑で、バブルの外側ではなく内側で気を吐いていた甘糟さんに、1人の女性の視点として、当時感じたことや悔やんでいることなどを、忌憚なく書いていただいた渾身の作でございます。

それではごく簡単に、甘糟りり子さんのプロフィールをご紹介します。1964年横浜生まれ、幼い頃から鎌倉に暮らしていらっしゃいます。大学を卒業後、アパレル会社勤務を経て、文章の道へいらっしゃいました。

ご存じのとおり甘糟さんは、車やレストラン、ファッションなど、都会のきらめきをモチーフにしたら右に出る方がいないということで、そうした小説やコラムに定評がおありです。

バブル世代の女性たちの40代を描いたエストロゲンや、現代に生きる女性が直面する問題を取り上げた『産む、産まない、産めない』『産まなくても、産めなくても』は、読者の共感を呼んでロングセラーとなっています。近著に『鎌倉の家』『鎌倉だから、おいしい。』がおありです。

本日はすばらしいゲストの方にご参加いただきました。長倉顕太さんは作家、プロデューサー、編集者でいらっしゃいます。甘糟さんとは約10年くらいの年齢の差があって、1973年生まれでお若い世代でいらっしゃいます。大学を卒業後、しばらくしてから出版社に転職され、編集者としてベストセラーを沢山出していらっしゃいます。

編集した本の累計は、なんと1,100万部を超えていらっしゃいます。そして今はご著書も沢山おありで、『超一流の二流をめざせ!』『親は100%間違っている』『移動力』『モテる読書術』などの本を出されている他に、YouTubeやFacebookでも精力的に活動していらっしゃいます。

『バブル、盆に返らず』の執筆に至った背景

司会者:それではお2人にご登場いただきます。よろしくお願いいたします。

長倉顕太氏(以下、長倉):こんばんは、長倉と申します。甘糟さん、よろしくお願いします。

甘糟りり子氏(以下、甘糟):よろしくお願いします、甘糟りり子です。今日は楽しみにしていました。

長倉:今日は『バブル、盆に返らず』の出版記念ということで、オンラインでトークイベントをやらせていただきますが、どれぐらいの年齢層の人たちが(イベント配信を)見ているのか気になっていたので、もしよかったらコメント欄に書いておいていただけたらなと思います。

甘糟:自分の年齢を(コメント欄に)カチャカチャと。

長倉:みなさんのコメントを待っている間に、『バブル、盆に返らず』の企画秘話じゃないですが、なんでこの本を出そうという話になったのでしょうか?

甘糟:バブル時代はちょうど20代で、いわゆるブイブイいっていたタイプなんですが、あとになってからバブル時代の映像というと、ジュリアナ東京でふわふわした扇子を振り回している映像がよく使われていて。でも、その頃にバブルは一応「終わっていた」と言われていて。

1986年から1991年3月までをバブル時代だと限定されていて、ジュリアナ東京ができたのは5月なんですよ。そこから(ジュリアナ東京が)人気になったのがまた後で、あの映像はアフターバブルなんですが、その世代を生きたものとしては、あれが象徴のように出ていることに「うーん」という気持ちがあって。

第二次世界大戦と第一次世界大戦をごっちゃにしているような違和感があったので、それをいつの日か(書こう)という気持ちと。あとは、例えば六本木ヒルズみたいなものは、建てた時の年月日は残ると思うんですが、もちろんバブル時代はSNSは一切なかったので、街角のちょっとした話とか、個人の感じたことがなかなか残りにくい。

けれども、時代ってすごく個人の経験や感覚に反映されると思うので、あの特殊な時代を経験した者としては、一応書き残しておきたいなという気持ちがずっとあったので、今回やっとかたちにできました。

当時を振り返るデータがない……SNSなきバブル時代

長倉:この本を僕も拝読させていただいて、(現在はもう)ないお店がけっこう多いなという……。

甘糟:ないお店のほうが多いですよね。

長倉:今だったらSNSで、Instagramとかに写真が載っているから、10年後に振り返った時にそれが見えるかもしれないですけれども、(当時は)ないじゃないですか。

甘糟:そうなんですよ。書くにあたって、私もいろいろググったりしたんですが、思った以上に残っていないんですよ。

長倉:当時、デジカメもないですからね。

甘糟:そうですよ。デジカメなんてとんでもないですよ。一眼レフなんてもちろんプロだけだし、せいぜいポラロイドがあったぐらいなので、なかなか残っていない。

長倉:なかなか残っていない中で、この作品は資料として書いたわけじゃないと思うんですけれども、資料に近いですよね。

甘糟:資料になったらすごくうれしいです。ただ「資料を残したい」ぐらいの気持ちだったんですが、読んでもらうには少し物語というか、ドラマがあるものを選びましたけれども、もし資料として読んでいただけたら一番うれしいです。

長倉:(コメント欄を見ながら)けっこう50代の方が……。

甘糟:37歳の方もいる。

長倉:51歳、37歳、40歳。40歳は(バブルを)知らないですね。50代、「ぎりぎり覚えています」。僕は今年48歳なので、たまたま自分の親父が銀行員だというのもあって、日経新聞とかも含めて、ゴルフとかもやっているから「ゴルフ会員権がどうのこうの」とか、「株がどうのこうの」というのは、なんとなく覚えているんですよね。

甘糟:当時の会員権は高かったでしょうね。

長倉:ゴルフ会員権の値段が上がるとか、今だと考えられないですよね。というぐらい、今だとわけがわからない時代な部分はあったと思うんですね。(コメント欄を見ながら)……25歳!? 25歳は、もしかしたら親が(バブル世代)ぐらいかもしれないですね。じゃあ、25歳の彼以外は、だいたいなんとなくはわかっているのかな。

現代よりも強い、東京に対する引け目と憧れ

長倉:それで僕がもう1個お聞きしたかったのが、甘糟さんは都会の方じゃないですか。

甘糟:そうですね、関東圏です。

長倉:そこもけっこう違うんじゃないかなと思っていて。

甘糟:今よりすごくあると思いますよ。SNSはないし、当時、港区では関西の方も関西弁を使っていなかったと思うんですよ。今だと大阪弁が標準語的になっているけれども、みんなが東京に対して、引け目と憧れが今よりあった時代かなと思います。

私は神奈川県(出身)ですから、東京とちょっと距離があったので、「江戸に上る」という感じで遊びに行っていました。

長倉:当時も鎌倉(在住)ですよね。

甘糟:そうです。

長倉:ぜんぜん田舎という感じじゃないですよね。

甘糟:田舎ではないですが六本木に遊びに行くのはちょっと晴れがましいというか、帰りに第三京浜(道路)で帰ってきましたけどね。

どんなインフルエンサーよりも、雑誌の影響力が強い時代

長倉:僕はたまたま小学生ぐらいから雑誌が好きで、『POPEYE』とかもけっこう読んでいて。

甘糟:みんな『POPEYE』に教わってましたよね。

長倉:そうですよね。本当に雑誌が好きで、小学生ぐらいけっこう読んでいたんですね。それで今でも覚えているんですけど、僕が中学1年生の8月に『MEN'S NON-NO』が創刊されたんですよ。

甘糟:8月だというのも覚えているんですね(笑)。

長倉:8月も覚えているし、阿部(寛)さんの表紙で覚えていて。家にけっこうファッション誌があったんですよね。

甘糟:今と違って、どんなインフルエンサーより雑誌(の影響力がある時代)でしたもんね。

長倉:たぶん当時、メンズ向けがあまりなくて。『POPEYE』がファッション誌と言えるかわからないですが、『POPEYE』『ホットドッグ・プレス』『MEN'S CLUB』とか、それぐらいしかなくて。そのあとに『MEN'SNON-NO』が出るみたいな感じだったんですよ。

甘糟:『MEN'S NON-NO』のほうが親近感があったんじゃないですかね。

長倉:でも、まだ中学生だったので、「服買えないし」とか思っていましたけど。そういう雑誌に憧れていたので、バブルよりは(世代が)下なんですが、田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』とか、ああいうノリの世界の人たちみたいな雑誌が出ているイメージがあったんですよね。

そんな中でバブルを高校ぐらいに感じて、高校生の時に昭和天皇が亡くなったりとかしていて。それでこの本を読ませてもらって、僕が当時、雑誌で見ていたお店が出ているんですね。

甘糟:(笑)。

長倉:「行ったことはないけど見たことはあるな」とか。「空間プロデューサー」も雑誌とかでしか見たことなくて、その店には実際は行ったことなかったみたいな。

甘糟:レッドシューズとかかな?

長倉:そうですね。J TRIP BARとかも行っていないですね。

甘糟:本当ですか!? J TRIP BARはバブルの後も賑わっていたけど。

長倉:ぜんぜん行っていなかったんですよ。

甘糟:そうですか。私はJ TRIP BAR、苗場まで行きましたからね。苗場のスキー場に行くのにハイヒールを持って行っていたというのが、我ながら信じられないですよね。

長倉:(笑)。

改めて振り返る、バブルが起こった時代背景

甘糟:でも、そもそも今回バブルをお話しすることになって、私は街の風景を本に書きましたが、じゃあいったいバブルとは何だったんだろう? というのを、私自身もふと立ち止まって考えてみると、こんな本を書いたわりにすらすらと説明ができなくて。いろいろ読んだりしたんですけれども。

長倉:僕も今回いくつかの本を読ませてもらって、バブルは1985年のプラザ合意があって、そこで円高に強制的に一気にされたんですよね。それが本当に緊急で決まって、1ドル240円ぐらいだったのに、120円ぐらいまで一気に下がるかたちになって。

一応、本によると、その結果日本経済がだめになるということで、お金を刷りまくって、そのお金をじゃぶじゃぶにした結果、株とか土地に向かったという話らしいんですが。

このプラザ合意の本を読んで、同じ1985年にグリコ森永事件があり、日航機墜落事故があり、阪神優勝とかNTT誕生、男女雇用機会均等法とかも含めて、けっこう日本の歴史上重要な年だったんじゃないかなとはすごく思っていまして。日航機墜落とかも鮮明に覚えているので、とんでもない事件じゃないですか。未だに陰謀論とかも含めていろいろ……。

甘糟:陰謀論は初めて聞いた。

長倉:本当ですか!?

甘糟:初めて聞きました。

長倉:けっこう陰謀論の本とかもいっぱい出ていますよ。信じてはいませんが、「おもしろいな」という話だったりして。

1985年、ジェンダー問題にスポットが当たったスタート地点

長倉:1985年がけっこうターニングポイントだったのかなと思います。

甘糟:そうですね。私は男女雇用機会均等法の1期生で、(大学を)卒業する時だったので恩恵はほとんどないですが。その年から、今で言うジェンダーの問題とかも、やっと目を向けられるスタート地点だったのかなという気がします。

1985年がすごくキーポイントだというのは、言われてみると確かで。そこから街がどんちゃんし出したのかな。私はバブルを象徴するディスコといったら、麻布十番のマハラジャだと思うんですが、それは1984の年末にオープンしているので、その頃急に日本とか東京がギラギラし出したのかなと思います。

長倉:僕は音楽が好きなんですが、これを見ている限りジュリアナはユーロビートの感じがするんですけど、出てくる音楽はユーロビートじゃないんですよね。

甘糟:マハラジャの頃からユーロビートになったと思うんですが、マハラジャの頃にファンクから、フロアが安易なダンスミュージック……と言ったら怒られちゃうけど、イタロダンスとかが出てきて。『Hi-NRG』という曲が象徴だと思うんですが、打ち込み系になってという感じですかね。

長倉:僕がこの本ですごくいいなと思ったのは、アース・ウインド&ファイアーにキャピトル東急で会っていたという。しかもキャピトル東急は仕事でも使っていて、「ORIGAMI」とかもよく行くし。それで、キャピタル東急は昔ビートルズが泊まったところで……。

甘糟:外タレといえば……外タレという言葉自体も、今はなかなか言わないですよね。

長倉:使っちゃいますけどね(笑)。

甘糟:ビートルズのことを「タレント」って言う感覚が、今だとわかるのかな……。「アーティスト」という意味ですよね。外国から来る芸能関係者といえば、みなさんキャピトル東急というね。

長倉:そういった意味でいうと甘糟さんは、こういったらあれかもしれないですが、育ちとかも含めて東京の流行りのメインストリームにがっつり……。

甘糟:そうですよ。だって私、自分で言いたくないですけど、自分の名前で文章を書き出した頃「トレンドウォッチャー」と呼ばれたりもしていたんですけどね。こっ恥ずかしい(笑)。

長倉:(笑)。