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社長の仕事は社員を信じ切ること。それだけ。(全6記事)

次期社長の失踪、続々と退職する従業員、トラック事故…… 窮地に追い込まれた運送会社を180度変えたきっかけとは?

「社員は評価し、管理する対象ではない」と言い切り、生産性至上主義を手放してもなお成長を続け、「奇跡の運送会社」と呼ばれる宮田運輸。代表取締役社長である宮田博文氏をゲストに迎え、組織において「コントロールを手放すこと」をテーマに、進化型組織の第一人者の武井浩三氏と、手放す経営ラボラトリー所長の坂東孝浩氏が対談。宮田氏が社長に就任後、会社の経営方針を図るきっかけになったトラック事故について語りました。

幼少期からの夢が叶った瞬間

宮田博文氏(以下、宮田):小さな時の夢は、大きくなったらトラックの運転士になること。僕たちは、トラックの「運転手」と言わずに「運転士」と言います。「トラックの運転士にいつかはなりたい」という一念で育ちまして、本当に勉強もしないで、そのことばっかり考えていました。

忘れもしません。免許を取って、平成元年3月8日。高校の卒業式を迎える前に、憧れの株式会社宮田運輸に入社をさせていただきまして、社会に出ました。めちゃくちゃうれしかったですよ。自分の夢が叶った喜びでいっぱいで。

でもその当時、従業員が22名いましたが、吸収合併されるタイミングでしたので、仕事がなくなってしまうかもわからないと。そんなタイミングだったんですね。親父はその頃を思い返すと、「本当に寝られなかった」と今でも言います。そんな中で、自分の夢が叶った喜びでいっぱい。まったくそんなことを気にすることなく、意気揚々と。

そんな中、大手の食品会社さまが「忙しいから、専属車として1台、宮田さんを入れてくれないか」という要請がありまして。親父は藁をもすがる気持ちで「行かせてください」という返事をしました。

でも社内を見渡しても、その当時のお仕事は手積み手降ろしが多く、重労働だったんですね。誰も行きたがらないということで、白羽の矢を立ててもらって、親父から私に指名がありまして。

18歳で、誰も引き受けたがらない仕事を任された

宮田:たった一言、言われたことがありました。「仕事は二度断るな。1回、2回断ると、本当に二度と言ってもらえなくなる。いつもニコニコと二つ返事で請け、お客さまの言うことを受け続ける。信用・信頼を築いて来い」と言われました。「わかりました」と行かせてもらいました。

でも自分は、まあ苦にもなりませんで。その当時のドライバーさんは、ねじりはちまきで雪駄履き、というのがけっこうありまして。お客さまから渡された伝票を「そんなもん行けるか」って放ってたんですね。今では考えられないですよ。放られた伝票を1枚ずつ拾い集めて、「私に行かせてください」ということで。

ナビも携帯もありませんから、本当に高速道路に乗るのが怖くて。18歳で免許取り立てで、4トン車に乗らせていただきました。そこから毎日、365日24時間働く日々が始まりました。

一生懸命やっていますと、「宮田さんもう1台入れていいよ」と言われたんです。めっちゃうれしかったですね。「親父から褒められる」と思って。でもまあ、誰もやりたがらなかったもんですから、中学1年の親友が福田(真)といいますが、「来ないか?」と彼を誘いました。それで来てくれました。18歳コンビで。

坂東:それは、会社の中でも激務なほうだったんですか?

宮田:そうですね、その当時はどっちかと言うと。今はまったく違いますけれども、当時はそういう感じだったんで、ちょっともう(誰も)行きたがらなかったんですよね。

坂東:行きたがらなかった(笑)。

宮田:なので中学1年の同級生を誘い、福田が来てくれまして。だから、遊びか仕事かわからないぐらい、毎日が楽しくて仕方がない。彼が今、専務取締役になってます。3台目(のトラック)には私の弟を入れて、彼は今、常務取締役です。お客さまの言うことを二つ返事でやり続けて、どんどん若い仲間が増えていきました。

次期社長の失踪

宮田:そうやっていますと、24歳の時に次期社長と言われた……。初代創業者はおじいちゃんで、2代目が長男のおじさんなんですね。その2代目の社長には娘さんがいらっしゃって、僕より一回りぐらい上の娘婿が入っていらっしゃる。

彼が次の社長ということで、看板みたいになってましたが、彼が失踪していなくなってしまいました。それで親父から「今日限りでトラックを降りろ。明日からお前が所長や」と言われ、「わかりました」とトラックを降りました。

所長と言われても、そういう教育も受けたことないし、どうお客さまと折衝していいかわからない。従業員とどう向き合ったらいいか、指示をするにも組織をどう引っ張っていったらいいか、わからなかったんですね。

その当時、やっぱり若いですから、目上の方もいらっしゃいましたが「自分が所長や」という肩書きと、「気に入らんかったら帰れ。俺が運転するから」みたいな命令口調でね。そんな勢いでやってまして、何人も辞めていきました。トラックを蹴って辞めていった従業員もたくさんいますね。でももう、やり方がわからないんですよね。

そんな時、女性ドライバーが辞める時に「所長は『お客さま第一、お客さま第一』って言いますけど、本当に大切なのは従業員じゃないんですか」って、泣きながら言ったセリフは未だに覚えています。従業員が大事だからこそ、お客さま第一って言っているという。それがなかなか伝わらないし、迫力もないわけですね。

いつも愚痴ばかりの社員の目の色が変わった

宮田:そんな中、阪神淡路大震災を経験しました。お客さまのご要請で、救援物資として水を配送するという。いつも不平不満・愚痴というか、「嫌々仕事をしているだろう」と思っているドライバーに「行ってくれ」と頼み込んで。

最初はしぶしぶ「わかった」と行くんですが、一昼夜かけて被災地に入ります。公園でポリバケツに給水して、配って帰ってくる。一昼夜かけて帰ってきた時に、顔色・目の色が違うわけですよ。同じ人間とは思えない。「所長。すぐ行かせてくれ」と、もう1回水を積んで。

「いや、寝てへんからあかんやろ」と止めるんですが、(以前とは)まったく違うんですよね。「なんでや」と聞くと、もう被災された方に給水してて、最後に水がなくなった時に、「『兄ちゃん次はいつ来てくれるの』って問われた時に、自分は答えられへん」「自分がこのまま布団の上で寝られへん。すぐ行かせてくれ」と。

「いつも不平不満・愚痴を言ってる人間や」と思ってた彼が、本当に自分から「行きたい」と、必死な顔で言ってくる。その時にちょっと気づいたんですね。人は上から言われてやらされるということじゃなくて、自らがやりたくなる動機、内っ側から湧き上がってくるものがあるんだな。

それはやっぱり、人から頼りにされたりとか、人のためになってるということを実感できれば、自ら主体的に動く機会になるんだな、ということがちょっとわかったんですよ。でも、それをどう組織に落とし込んでいくかまでは、まったくわかりませんね。でも、どんな不平不満・愚痴を言ってる連中でも、変わるんだなというのに気づきました。

「たった今、事故があった」専務からの1本の電話

宮田:そうしている間に、10年前に社長交代の機会をいただきました。4代目ということで、3代目は親父なんですが、人を大切にする文化がありました。2代目は本当に従業員を大切にして、3代目は従業員の誕生日に、家族に明石の鯛を送ったりですね。

坂東:おお~。

宮田:僕は4代目で。新しい組織で、従業員もその家族も、地域社会のみなさんや未来に生きる子どもたちを大事にできるような、そんな立派な会社を作っていこうということで、幹部社員で合宿してビジョンを語って。

今期は55期なんですが、75期には「これぐらいの売上高で利益がなんぼで」「事業規模がこれぐらいで」という具体的な目標を立てて、いざ意気揚々と走り出した矢先に……。

忘れもしません。9年前の暑さが残る8月30日に、1本の電話がかかってきました。携帯のベルが鳴ったんです。それは専務の福田からでした。電話の内容は、こういう内容なんです。

「たった今、事故があった。うちのトラックとスクーターバイクが接触して、スクーターバイクに乗っておられた43歳の男性が緊急搬送された」という内容だったんです。「わかった」と僕は電話を切って、病院へ向かうことになりました。

病院に到着し、案内されたのは霊安室

宮田:向かっている途中に、動悸が速くなってきました。大きなトラックとスクーターバイクの接触。大変大きな怪我をされてるんじゃないかなと。

病院へ着くと、専務と担当の所長が待ってまして、合流して案内をいただいたのが霊安室だったんですね。その43歳(の男性)は、息を引き取っておられた。ご家族がご遺体を取り囲まれている状態で、私たちは扉の外でずっと眺めていました。

恐る恐る声をかけて、名刺を差し出して受け取っていただいたのが、いらっしゃったご遺族の中で一番年長の方だったんです。その方は、亡くなられた男性のお父さまだったんですね。お父さまは私の名刺を握りしめて、一言こうおっしゃったんです。

「わざわざありがとう。どっちがええとか悪いとかはわからへんけども、たった今、自分の息子が命を落とした。息子には小学4年生の女の子の孫がいた、ということだけはわかっておいてくれな」って。

罵声を浴びせるとか、罵倒されるとかそんなことじゃなくて、優しく静かな口調でそうおっしゃって。この声が届いたか、届かなかったかはわかりませんが、私は「誠心誠意尽くさせていただきます!」、そういう気持ちでお辞儀をして、その場を去りました。

大好きなトラックが人の命を奪った現実

宮田:事故を起こした私どもの仲間も、被害者と同じ43歳だったんですよ。彼は女の子2人を男独りで育てていました。一生懸命真面目に、お客さまのため会社のため、仲間のために働く。彼は管理職でした。その日は忙しくて、どうしてもお客さまにお荷物を届けなくちゃいけないということで、自分で配達に行った矢先に起こした事故だったんです。

48時間拘束されますから、面談できないということで、私たちは彼の子どもたちが心配で、そのまま彼の家へ行き、一報を聞いた彼のお母さんに出迎えていただきました。お母さんは「すみません、すみません……」とおっしゃられていた。

私は「これは会社が起こした事故ですから、社長である私に全責任があります。彼がまた警察から出てきたら、元気に働いてもらいますから、心配はいりませんよ」と伝えました。それでもお母さまは「すみません、すみません……」とおっしゃる。私たちが車に乗って立ち去るまで、ずっとお辞儀をされている光景が、未だに脳裏に焼き付いています。

車の中でも沈黙が続きました。「明日からまた、誠心誠意尽くさせていただこうや」ということで、専務と担当の所長と別れました。

1人になって、眠れないんですね。幼い時からトラックが大好きで仕方がない。大好きなトラック、信じている仕事。会社・従業員の前で「世のため人のためになるような立派な会社にしていこう」と毎日言ってるにも関わらず、人の命を奪ってしまう現実を目の当たりにして、理想と現実の乖離で、本当にどうしていいかわからなくなりました。

「どうしたらこの世からトラックをなくせるか」真剣に考える日々

宮田:もうこのまま運送会社を経営できないんじゃないか。そういう葛藤はありました。そんな時に救っていただいたのは、人なんです。人の本来持ってる優しさなんですね。いい時は「人の関係、出会い、ご縁が大事だ」って私も言うんですが、本当に自分が苦しい時にお便りをいただいたり、メールをくださったり、ご本を送っていただいたり。

時には遠方から会社に来て、自分の名刺に書ききれないぐらいメッセージを書いてくださったり。たくさんの方々に、寄り添っていただく機会にしていただきました。

そんな中で、ある方のアドバイスが私の心臓に突き刺さりました。僕は(当時)「大好きなトラックが人を不幸にするんやったら、世界中のトラックをなくしてしまったほうが、人が幸せになるんじゃないか。世の中が良くなるんじゃないか」って考えるようになってまして。どうしたら(トラックを)なくせるかって。

そんな時に「君、トラック好きやろ。そのトラックをなくすことよりも、活かすって考えたらどうだ?」とアドバイスをいただいたんですね。はっと思いました。亡くなられた命は尊くて、残念で、取り返しがつかないことなんです。でも、生かされてる私たちの命を活かしあうことが、もっと大事なんじゃないか。

起こった事実は変えられませんが、起こった事実の意味を、私たちは変えていけるんじゃないか。「なくすより活かそう」と、思いを変えることができたんです。思いが変わった瞬間から、見たり聞いたりするものがすべて変わってきました。

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