父が働く研究所で過ごした幼少期

アマテラス:中村さんの生い立ちから伺いたいと思います。子供の頃や学生時代をどのように過ごされてきたのでしょうか?

中村晃一氏(以下、中村):自分の幼少期にユニークな点があるとすれば、父親が遺伝子工学を研究する科学者だったことでしょうか。私は父が大学院在籍中に名古屋市で生まれました。その後も父がポスドクとして赴いた米国ミズーリ州セントルイスに2年間住んだり、帰国してからは東京、静岡、岩手と引っ越したりして各地を転々としました。

どこに行っても父親が研究している姿を当たり前のように見てきて、周りにいる人たちも常に何かを研究している環境でした。母は助産師でしたので夜勤があり、両親がともに不在なことも多かったのです。なので、小学生の時は学校が終わると父の働いている研究所に行って、父の仕事が終わるまでそこで過ごしていました。私がサイエンスに対して興味を持ったのも、顕微鏡とか試験管があちこちにある研究所で長くいたことが強く影響していると思います。

研究所で学校の宿題とかをしていると、父の仲間の研究員が息抜きに勉強を教えてくれました。皆が勉強していて当たり前という環境にいたことで「将来は自分も研究者を目指すのだろうなぁ」と、おぼろげながらに思っていましたね。

ゲーム感覚で数学や物理の問題を解いていた中高時代

中村:小学3年生からは父の田舎である岩手県花巻市に移り、高校卒業まで過ごしました。

中学・高校では、とにかく数学と物理が大好きで。中学でも高校でも、1年生の1学期には3年分の教科書の内容をすべて学び終えてしまっていました。教科書をもらったその日から、うれしくなって全部学んで問題を解いちゃう。ゲーム感覚ですね。その後は先生から別の教科書や問題集をもらって、授業中はそれをやっていました。公立の学校でしたが特別扱いされて、席も教室の一番後ろにしてもらい、黙々と数学の問題を解いているような生徒でした。高校生の頃は図書館で数学者の矢野健太郎先生の『基礎解析学』という本を見つけたのがきっかけで、大学の数学や物理も勉強するようになりました。

父も科学者でしたから、家の本棚に数学の本がいっぱいありました。マンガやゲームは買ってもらえず、プレゼントというと図鑑とかでした。

小学5年生の頃、父に「天体望遠鏡が欲しい」とねだったことがあったのですが、高価なので「天体望遠鏡の作り方」という本を買ってきてくれて。仕方ないからホームセンターに行って、塩ビのパイプや手鏡を使って自作しようとしました。その本にはサイン・コサインの計算も出てくるので、一生懸命勉強しました。 また、小4の夏休みに木製の船を自分で作ろうとして失敗すると、父が物理の本を買ってきたこともありました。

数学や物理の勉強は「モノを作る」ことに直結していたのです。受験のためではなく、好きで楽しいから勉強していたような感じです。おかげで数学と物理の成績は突出していましたが、その一方で他の学科は苦手でした。

音大から進路変更し、東大へ進学

中村:また、音楽をずっとやっていて、中学、高校は吹奏楽部でした。実は大学でも音楽をやろうとしていました。東京芸術大学の音楽学部に、音楽の理論を勉強する「楽理科」というのがあり、そこに入りたかったのです。楽理科でもピアノの実技試験が必須のため、高校2年くらいまでピアノのレッスンも受けていました。

しかし、数学や物理がすごくできるのに、なんで下手なピアノで大学を受けようとするのかと先生方も心配して、「ちょっと進路を考えた方がいいんじゃない?」となりました。音楽じゃないとしたら物理学がやりたいと思っていたので、だったら東京大学を目指そうということになりました。

国語や英語が全然できなかったので、模擬試験などでは総合でD判定でした。夏休みも東大や旧帝大の入試問題を先生からもらって解答を添削してもらいながら勉強しました。入試本番では物理・数学で点数を取って、あとは英語でちょっと補ってなんとか合格した感じだったと思います。

大学に寝泊まりして課題にのめり込む

中村:大学に入ってからは、本当にいろいろと「こと」が動き始めました。最初は物理学者になりたかったのです。星の動きや宇宙の成り立ちの理論に惹かれ、それらをコンピューターでシミュレーションする分野があったので、自分はそれをやってみたいなと。そこで、東大に入学すると「物理学研究会」というサークルに入り、太陽系のような複数の天体のシミュレーションができるプログラムを作りました。

しかし、計算する量が多すぎて当時のノートパソコンでは処理しきれず、それを何とかしようと色々調べるうちに計算機科学という分野を知り、そこからコンピューターにのめり込んでいきました。志望も理学部の情報科学科に変更しました。

東大の情報科学科には「CPU(中央演算処理装置)実験」といって、プロセッサーの回路や、それを動かすためのソフトウェアを一から自分たちで作るという名物課題があります。それにハマりこみ、半年間大学内で暮らしました。研究室に寝泊まりして、体は近所の銭湯で洗って。部屋にまったく帰らなかったので、電気も水道も全部止められてしまいました(笑)。

私は結構バランスが悪い人間でして、好きな授業ばかり出て、他の授業はほとんど出席しなかった結果、3回留年しました。他のことに興味がないというより、自身の持てるリソースを全て興味のあることに使ってしまうのです。「これはもう卒業も進学もダメかな」と思っていたのですが、CPU実験の成果を見て頂いた大学院の研究室から誘って頂いて進学することができました。

※インタビューを行ったIdein社オフィスは、小上がりスペースや多くの専門書があり、オープンでクリエイティブな雰囲気が印象的

転機となったプリンストン高等研究所での2か月間

中村:無事にスパコンなどの研究を行っている研究室に入り、最適化コンパイラーという技術の研究を行いました。その当時、たまたま東京に米プリンストン高等研究所(ニュージャージー州プリンストン市)の教授が来ていて、その人に研究内容をプレゼンする機会がありました。そうしたら「おもしろい! 来月からアメリカに来なさい」といわれて、結局2カ月後にプリンストン高等研に行くことになりました。

そこで学際研究に関わったことが、自分にとっては大きな転機になりました。学際研究とは異なる分野の人たちが協力して研究課題に取り組む事で、誘ってくれた教授は当時、学際研究を行う為のフレームワークの研究をされていました。例えば「隕石が地球に衝突した場合に人類の絶滅をどう防ぐか」みたいなテーマを、天文学者だけでなく環境問題の専門家や哲学者、歴史学者、画家のようなアーティストも参加し「ごった煮」状態で研究していました。

これはすごかったです。ノーベル賞やフィールズ賞(世界的な数学者を顕彰する賞)の受賞者もたくさんいて、そういう人たちと毎日ランチの時などにランダムに集まってディスカッションをするのですが、その中で自分の考えを主張し、存在をアピールしないといけない。世界的な学者の方々に対して「自分のやっている研究にはこんな意義がある」と英語で説明しないと、議論に参加できないのです。大変でしたが、すごくタフになりました。

プリンストンにいたのは2カ月だけでしたが、日本に戻ってきてもその人間関係は続き、東大の研究室とは違う方向に興味が向いてしまいました。毎週、自費で京都に行って数学者と議論したり、神戸の惑星科学研究センターに行ったり、生命の起源を研究したりしました

視野が一気に広がったのは良かったのですが、東大での研究をしっかりやって論文を発表するという活動をおろそかにしていたので、卒業もできないし博士号も取れません。当時、民主党政権の「事業仕分け」によりプロジェクトが凍結しかかることを目の当たりにし、スパコンの研究者を目指す事に対してモチベーションが下がってしまっていたかもしれません。

「ソフトウェアで実世界のデータが取得できる」と、起業を決意

中村:大学から離れる一方で、プリンストン人脈での研究は面白くなっていくばかり。そちらでの共同研究はするものの、給料には繋がらない。しかし、修士の頃に結婚して子供もいたので、稼がなくてはいけません。

そこで、塾講師や、個人事業主として数学やコンピューターサイエンスを教える仕事を始めたりしました。そこで出会ったのがゴールドマンサックスのマネージャーの方や、医療法人の理事長をしていた方で、彼らに数学やコンピューターサイエンスを教える「家庭教師」をしていたのです。

医療法人理事長の方は非常に先進的な考えの持ち主で、医療機器を新しい技術で改善できないかと考えていました。その方が当時取り組んでいたのが睡眠時無呼吸症の診断です。患者の鼻にチューブを挿して、指にパルスオキシメーターをつけて血中酸素濃度を測るのですが、一定の期間、毎晩それをやる必要があるので、患者の負担がとても大きい。そこで「カメラで胸の上下動や口の動きを捉えられれば、解析できるのでは」と発想して、それを学びたいと私に連絡が来たのです。

依頼を受けて一緒に試作品を作ってみたところ「これは可能性を感じる」と評価頂きました。この際に画像解析などのパターン認識技術について深く学びましたが、機械学習などの新しいソフトウェア技術によって、これまで取れなかったデータを取得できるようになりそうだと見えてきました。医療機器だけではなく、これはいろんな場面で使えるし、非常にポテンシャルが大きいと考えるようになりました。

また、実際に試作品を作ったことで色々と必要な事が見えてきました。たとえばソフトウェアだと、柔軟に入れ替えてデバイスの機能を変えていく事ができるわけですが、その為にはソフトウェアの配信や流通ウェアを用いたセンシングの為のプラットフォームが必要です。

そして「ソフトウェアを用いたセンシングの為のプラットフォームを作ろう」と起業を考えるようになりました。自らの今後を考える中で「アカデミアに残るより、起業の方がいいのでは」と思うようになったのです。

アマテラス:起業にあたってご不安や周囲からの反対等はありませんでしたか?

中村:「自分に突出した個性――圧倒的に自分しか持っていないものがあれば、どうにかなる」という感じで考えていましたし、おそらく周囲の人々もそう思ってくれたのではないかと思います。

独自技術とネットワークで優秀なエンジニアが集まる

アマテラス:起業して経営者となりましたが、現在に至るまでどのような問題にぶつかって、どう葛藤し、どう意思決定をされてきたのでしょうか。まず、当初の仲間集めはどのようになさいましたか?

中村:創業当初、共同創業者の山田(現CTO)が個人事業主としてやっていた案件をそのまま会社で引き継いだ他、受託開発の仕事がいくつかありましたのでそこそこの売り上げはありましたが、受託開発に時間がとられて自社プロダクトの開発が進まないことが問題でした。これだとそこそこ成長はしても、やりたいことにたどり着きません。

危機感を覚え、創業から2ヶ月後にエンジェル投資家(家庭教師をしていたゴールドマンサックスの方)からの出資を受け、半年後に日本政策金融公庫から2000万円の融資を受けました。資金を受けて、人材を採用して、投資をしていこうと。その判断が創業初期では一番重要でしたね。

その後の、初期の社員集めは比較的うまくいったと思います。「圏論」という数学の分野があるのですが、そのプログラマー向けの勉強会を、おそらく日本で初めて開催しました。当時は需要が結構あり、初回は百数十人程集まりました。初期の社員はそこに参加していて私のことを知って下さっていた方が多いです。共同創業者・CTOの山田と最初に知り合ったのも圏論勉強会です。

また「プロダクトを作る」という当初からのビジョンへの賛同もあったと思います。スタートアップでは事業内容がピボットして変わることが多いと思いますが、当社は創業当初からやりたいこと、やっていることが変わっていません。「ソフトウェアで世界の情報を取っていく」ことを一貫してやっているので、そのビジョンに共感してくれたピカイチのエンジニアが初期に入ってくれました。

すると「その優秀な人と一緒にやれるなら」と別の優秀なエンジニアも集まるという好循環が起きました。創業初期に入社した社員が凄い人ばかりでしたのでTwitter界隈で「Ideinには凄い奴らがいる」と評判になったり、Raspberry Pi(ARMプロセッサーを搭載したシングルボードコンピューター)でディープラーニングを動かすデモ動画を出したりして話題になったのです。

優秀なエンジニアが集まるネットワークで、他社が真似できないユニークなことをやっている会社「Idein」の名前が知られるようになって、初期のエンジニア採用は非常にやりやすかった面がありました。

※Idein社の「Actcast」の概念図。AI・IoTアプリで収集したデータをリアルタイムで解析し、問題解決に繋げられる

高い技術力を評価したVCや大企業からサポートを得る

アマテラス:優れたエンジニアを採用すると、今後は資金の問題が出てきたかと思います。こちらはどのようにされたのですか?

中村:プロダクト開発をしながら受託開発も並行してやっていたのですが、2017年にベンチャーキャピタル(VC)のグローバル・ブレイン株式会社(東京都渋谷区)から資金調達ができたのは大きかったです。

当時はプロダクトのローンチ前なので、持っている技術力などで評価していただく必要があります。いろいろなVCから接触がありましたが、ソフトウェア技術の評価が難しい状況でした。しかし、グローバル・ブレインの担当者2名はいずれも技術出身で、その1人は元々ゲーム機のコンパイラーに関わっていた方で、当社の専門分野にとても詳しかったのです。その為、当社の技術的な優位性を理解していただくことができ、資金的なバックアップを得ることが出来ました。

もう一つ大きかったのが、2018年に自動車部品大手アイシン精機(現:アイシン)と資本・業務提携をしたことです。アイシン社から安定した売上を得られるようになったことで、他の受託開発を止めて自社プロダクト開発にリソースを投入することが可能になりました。

更なる成長に向けた課題は、プラットフォームを活性化させる仕組み作り

アマテラス:エンジニアも資金も集まったとなると、事業成長を期待されるようになったと思います。更なる事業成長への課題はどのような点でしょうか?

中村:まさに現在立ち向かっている壁が「自社のプロダクトをどう売り込んでいくか」です。我々はプラットフォームを作ろうとしていますが、プラットフォームは「場を提供する」だけですから、そこでビジネスが発生して大きく回せるようにしないといけない。そこでいろいろな事業を展開して稼げるプレイヤーが増えることが重要ですが、そのための最初の“燃料”となる大型案件は我々が投下しなければなりません。その為に、我々自身がActcastを使うベンダーの立場に回って、直接顧客を開拓して案件を進めているところです。

また、そもそもプロダクトがわかりにくい面がありますから、どうわかりやすく見せるのか。いいものを作れば勝手に売れるわけではないので、売れるものにしていく仕組みづくりが課題です。COO(最高執行責任者)の仁藤が中心に入って頑張っているところです。

現時点では、こちらから営業をかけることで大企業からの受注が取れるようにはなってきましたが、放っておいても売れる状態にはまだなっていません。エコシステムを循環させられるようにしたいと思っていますが、そのためにはプロダクトの分かりやすさを磨き、マーケティングの改善を積み重ねていくことで壁を越えていきたい。それを、いかに短期間で達成させるかが勝負だと思っています。

アマテラス:貴社のエッジAIプラットフォームActcastのパートナープログラムには、既に100社以上の企業が参加されています。それだけの企業を集める信用力が既にあるということでしょうか。

中村:当社のプロダクトに対する信頼・信用は、実際に使ってもらうことで得られると思っています。事業戦略上、まずはリテール(小売り)やマーケティングなどの短期で結果が出せる分野で使ってもらうことに取り組んでいます。そこでの実績でレバレッジを効かせて、今後は製造業などの領域にも売り込んでいきたいと考えています。

DX需要が高まる中、実世界の情報化で独占的ポジションを狙う

アマテラス:新型コロナウイルスの感染拡大に伴う事業環境の変化も2年目に入りましたが、どのような影響を受けましたか?

中村:IoTプロダクトのため、現場に設置・施工することが必要になってきます。コロナ禍で現場に入れないために遅延している案件というのもあり、これは確かに逆風です。

一方で幸いなことに、コロナを機にDX(デジタル・トランスフォーメーション)の需要や投資意欲は高まっています。たとえば、店舗で物理的に混雑度を計測することは、コロナ禍がなければ需要がなかったでしょう。

オンラインの顧客データやトラフィックを計測する事業には競合がひしめいていますが、たとえば、コンビニエンスストアの店舗内にいる顧客や商品の様子、製造現場で稼働している機械やメーター、あるいはそこで働いている人などの実世界の物理的なもののデータを、競合より安価かつ大規模に、そして柔軟に収集できる技術とプロダクトを当社は持っています。プロダクトへの信頼が高まり、メリットを理解してもらえば、独占的なポジションを狙えるのでは、と確信を深めています。

アマテラス:今後貴社をどのようにしたいと考えていますか?

中村:我々は一貫して「グローバルでのプラットフォーマーになりたい」という思いがあります。ここはブレずに追求していきたいと思います。

強いビジネスサイドを作る野心的な人材を求める

アマテラス:社員数50名程、数十億の資金調達も行っているステージですが、現在はどのような人材を求めていますか。

中村:創業初期からこれまではエンジニアが中心となってプロダクトづくりを進めてきました。今は「ビジネスとして立ち上げる」というフェーズに入ったので、事業を開発していく人材が必要になっています。現在は外部から「技術が強い会社」と見られていますが、それを「事業も強い会社」にどう転換していくかが課題です。

優秀で強いエンジニアが活躍できる会社を保ったまま、それと対等に強い事業開発チームを作ることが求められますので、それなりに野心があって「他者がやっていないことを成し遂げたい」というミッションに共感して一緒にやれる人がいいですね。今後、幅の広い業種にプロダクトを使ってもらうようになるので、いろんな業種の方々と関わることができる面白さもあると思います。

アマテラス:このタイミングで貴社に参画する魅力は何でしょうか。

中村:組織づくりのフェーズにあるので、そこに関わることができる点を魅力に感じる方も多いと思います。組織や制度づくりなどの社内の仕組みを整備する必要がありますし、ビジネスのパイプライン等の仕組みを作る仕事ができることも魅力だと思います。

まだ50人体制ということもあり、社員と経営者の距離が非常に近く、風通しがよい会社だと思っています。基本的に、すべての情報を記録に残して皆で共有できるようオープンにしています。これは、情報を共有しないことで要らぬ憶測や予想を元にして動くようになると、組織としての効率が非常に悪くなると考えているからでもあります。

オープンで皆の距離を近くするために、毎週金曜日にはオフィスでビールを飲みながら話し合える「ビアバッシュ」という時間もとっています。コロナ禍の緊急事態宣言時はなかなか難しいのですが、そうでなければ十数人が参加してワイワイ楽しく話せる時間を大切にしています。

アマテラス:本日は貴重なお話をありがとうございました。