ギリギリの状況で設立した新会社

鳴海禎造氏:ちょうど和歌山市内のスタートアップ支援で、小さいビルの中の一室を2万円くらいで借りられる仕組みが始まっていたので、そこを借りて会社を立ち上げるんですけど。

ここ(株式会社FINE TRADING JAPAN)を立ち上げる時お金がなかったので、最初ちょっと知り合いというか身内にお金を借りました。内100万円は現金で用意できないのでどうしたかというと、こういうやり方があるんですよ。

そこら辺の備品をかき集めてきて、備品目録を作って。机いくら、椅子いくら、ホワイトボードいくらみたいにリストを書いて、その金額の合計を資本金に読み替えるやり方なんですけど、こういうことをして会社をなんとか立ち上げました。

しかも、僕、英語がまったくできないので、電話で英語で話されてもわからないので、すぐ切っちゃうんですよね。これはもったいないので、英語を話せる人を2人雇いました。これから一気にV字回復すれば問題ないというところで、会社をなんとかギリギリ用意しました。ようやく設立できたのは、2008年の7月7日でした。

リーマン・ショックが海外進出の転機に

これから順調に行くかと思われた矢先なんですが、2ヶ月後、9月15日。この日付を見てすぐ気付く方は多いんじゃないかと思います。

実はリーマン・ショックが起きました。リーマン・ショック前は、だいたい1ドル125円ぐらいだったんですけど、リーマン・ショックによって1ドル80円ぐらいの水準までいっちゃうくらい、本当に大変な自体が起きました。

輸出は絶望的になりまして、もうダメだと思ったんですけど、せっかく貿易会社のFINE TRADING JAPANという会社も作ったし、円高によって輸出が無理だったら、逆に輸入にチャンスがあるんじゃないかと、最後の希望を託してチャレンジすることにしました。

僕はそれまで一度も海外に行ったことがないし、行く気もなかったんですが、この2008年9月にパスポートを取りまして、海外に旅立って行くことになりました。

この時も、とりあえず海外とは思ったんですけど、海外のどこに行っていいのかわからないんですよ。その時目を付けたのは、カーショップとかやってていろんな商品に触れるんですけど、その商品のパッケージの裏を見ると必ず「Made in China」と書いていて。どうも中国はいろんな商品がありそうという気がしました。

それで中国に行きたいと決めたんですが、中国のどこに行っていいかわからない。思い付いたのが、自分のところに1人だけ中国人のお客さんがいたんですね。和歌山大学の留学生でそのまま和歌山に就職した子がいて、うちの車屋さんのお客さんだったんです。

オウくんというんですけど、彼に連絡を取って、「これこれこういう事情で、ビジネスチャンスを見つけるために、中国の誰か知り合いはいないか」と相談したら、友人を紹介してくれて。オウくんの友だちとメールでコンタクトするんです。

事情を説明したら、彼は車にそんなに詳しくないということで、とにかく車関係に詳しそうな、できれば日本語ができそうなという要望で、オウくんの友だちの友だちの友だちの友だちの友だちぐらいを紹介してもらうんですよ。

ほぼまったくつながりがないようなものなんですけど、シンくんという僕とちょうど同い年で日本語ができて、中国の車部品系の商社に勤めている子とつながって、メールのやりとりをするようになって。「じゃあ、会ってみましょう」ということで、初めて会うという約束をしました。

ここから中国編がスタートするんですけど、このメール友だちに会いに行くので、お互い空港で顔がわかるように写真を交換し合いました。向こうから送られてきた写真はこれですね。謎のミッキーのようなテーマパーク。これ、本当に謎の場所なんですけど、ずっとこんな写真なんです。結果、会うことができました。今から13年前ですね。

中国の広東省の広州市の空港で会いました。そこから僕は、2008年9月を境に月の半分を中国、月の半分を和歌山という二重生活が始まります。

中国でぶつかった「言語」の問題

13年前の中国でけっこうヤバかったのは、めちゃくちゃ物価が安かったことなんですよ。

ペットボトルのコーラとかジュースでも、1本50円以下ぐらいの水準だったと思います。かつ円高じゃないですか。もうとにかく安くて、身の回りの目に触れたもの何を買っても、日本に持って帰ったら全部売れる状況でした。

そこに目を付けて、最初はいろんなものを売るということをしていきますが、問題がありました。それは、言語の問題です。中国ってまったく英語が通じないんですよ。

日本や他の国では英語はできないけど、例えば、ワンとかツーとか数字ぐらいは言えるじゃないですか。ところがそれすら通じなくて、一番困ったのがタクシーとか乗ったりお店に行っても、お金のやり取りができないんですよね。

僕、麻雀をしたことがなかったんで、いわゆる中国語の数字の読み方がわからなくて。ずっと僕の横でサポートしてくれる通訳というか、パートナーが必要だぞと。そのパートナー探しをどうするかということで次にとった行動は、僕が行っていた枚方の某大学が、すごく留学生が多かったんですよ。

中国人留学生も多くて、こんなに中国の人が日本に来ているんだったら、そもそも中国で日本語を勉強しているんじゃないかという仮説に至りまして、中国の大学を探したんです。中国って便利なことに、「大学城」というかたちで大学が密集しているんですよ。

その大学城に行って、さまざまな大学に入って、外国語学部の日本語学科を探したんですよ。ここは女子寮みたいなところなんですけど。日本語学科が見つかりまして、その中に侵入して、向こうのいろんな学生と仲良くなりました。その中の1人を最初の社員にして、中国で起業をする過程につながっていきます。

そんなこんなで、向こうで一緒に動いてくれる日本語ができる子が見つかって、すごく動きやすくなったんですね。そこから事務所を借りたりとか、追加で人をどんどん採用していったりして、会社設立などさまざまなことを経て、中国本土と香港にも現地法人を作っていく流れが加速していきました。

「自分たちがしたいこと」に目を向けるようになった

こういう動きと、いろんな商材をネット経由で日本で売ることがうまくリンクして、実は一気にV字回復して、借金もチャラになりました。輸出は厳しくなったけれども、輸入で一気にうまくいくフェーズだったんですね。

そこから、なんでも売ればいいというわけじゃなくて、やはり自分たちがしたいことって何だろうというところに目を向けるようになって。当時は、自分たちのオリジナルで考案した、車に取り付けられるパーツを作って売るという方向に進んでいきます。

これで、左側の第1章が終わり、右側に行きます。ちょうど30歳過ぎたぐらいからなんですけど、2011年に大きなきっかけがあります。

2011年っていろんなきっかけがありましたね。震災のあった年でもあります。やはり今のコロナにも似ているんですけど、危機が起きた時って予期せぬ反動がマイナス方向にもプラス方向にもあるんですよね。

この時も、国内のものづくりのサプライチェーンがやられて。うちは中国側の工場を使ったものづくりをしていてその影響を受けなかったので、一気にビジネスチャンスがやってきて(業績が)伸びていくんですけど。

経営者としての師・大久保秀夫氏との出会い

そんな時に取引先の社長さんから「この本、1回読んでみ」と渡された本が、この『The 決断』という本なんです。大久保秀夫さんが出している本なんですが、この本を読んで僕は衝撃を受けました。

The 決断 決断で人生を変えていくたったひとつの方法

衝撃を受けただけじゃなくて、この人と話がしてみたいと思って、そのチャンスを伺って、結果会うことができました。今の方は知らないと思うんですけど、この方は日本で最初のベンチャーを起こした人です。日本の中で「ものづくり」という意味ではパナソニックさんとかありましたけど、おそらくこういう新しいビジネスを起こした最初の方ですね。

社団法人ニュービジネス協議会の第1回目のアントレプレナー大賞を取ったり、当時の最短最年少記録で上場した方なんですけど、この方は「電話回線の自由化ビジネス」をやっています。今だったら「電力の自由化」とかあるじゃないですか。当時、「電話の自由化」がスタートした直後で、NTT以外が参入できるタイミング。そこにいち早く目を付けてチャレンジして、20代でまったくなにもないところから一気に登りつめた方です。

そのワーッと成長していくところに目を付けたのが、実は孫正義さんなんですよね。2人は手を組んで、電話回線の自由化のあとネット回線の自由化とか、さまざまなことを手掛けて一気に大きくなっていきます。大久保さんは『The 決断』、孫さんは『志高く』というそれぞれの自叙伝でお互いのことを書いております。

志高く 孫正義正伝 新版 (実業之日本社文庫)

僕はこの方に弟子入りしまして、リアルで3年間、手取り足取り経営のノウハウを教えていただきました。弟子入りして、とにかくいろんな主義・手法を教えていただくことで、自分も一気に成長できるんじゃないかと最初は期待していたんですが、ちょっと思ってたんと違ったんですね。

というのは、3年間のうちの前半の1年半は、まったく主義・手法を教えてくれなかったんですよ。1回目から言われたのが、「会社の理念は何なんだ。何で会社作ったんだ。100年後どうなりたいんだ」と問いかけられて、これを答えるまでは次はないぞと、ひたすら考える時間を持たされました。

ビジネスを考える時の大事な順番「社会性、独自性、経済性」

あと、ビジネスを考える時の大事な順番が「社会性、独自性、経済性」ということも叩き込まれました。これはいろんなところでいろんな表現で言われてますけど、僕にとってはここが初めてだったんですよね。

「どうせ儲かりそうなビジネスをやってきたんだろう」。うん、心当たりがあるなと。「儲かるからやる。逆に言うと儲からなくなったら、すぐ止めるんだろう。あるいは、儲けることが目的だから、儲けを守るために、例えば製品品質を落としてでも原価を抑えるとか、社員を調整弁に使って利益を守るとか、そういった発想になるんじゃないか」と。

「社会性といっても、法律に触れてなかったらいい程度の考えしか持っていなかったんじゃないか。逆の考えだろう。そうじゃない。社会性があって、なぜそれをするのか。つまり、することの意義があって、他がまったく同じことをしていて、自分がやらなくても世の中が回っていたら、自分がやる必要がない。

他の人がやっていない、やっているんだけど足らない、ここをもうちょっとこうしたほうがいいんだという部分があって、初めて自分がやる独自性、意味があって、それを続けるためにどうやって収益を上げるかという経済性。この順番で考えないといけない」と教わりました。

3つ目は、「明・元・素」。明るく元気で素直という意味なんですけど、特にこの「明」。明るさは、いわゆるポジティブシンキングの意味です。物事のダメなところも見る必要があるんですけど、そこからチャンスに変えるための思考の訓練をすごく叩き込まれました。

長く続く会社にするには「思考の転換」が必要

この時に、ようやく自分の経営理念と100年ビジョンができまして、「自分たちは将来日本を代表するような乗り物メーカーになりたい」と決めました。これを当時の社内で発表しました。まだ10人ぐらいの会社だったんですけど。

そもそも理念とかいうのを考えたことがなかったんで、そういうことがあって一気に変わってきて、社内改革もどんどん行いました。

これ(理念)がある程度社内に浸透してきた段階で、次の「やり方編」という後期日程に進みます。後期日程で教わったのが、大企業や行政との連携のやり方。次の一手のやり方、思考。そして一定の法則・特許の種類といった原理、原則の考え方。徹底的に「やり方」を学びました。

けっこうワークショップを交えて勉強させてもらいました。大企業とどう組むか、何が大事かだったりとか。

最後の卒業試験が「次の一手」だったんですけど、次の一手というのは、トヨタが自動織機から自動車に乗り出したり、任天堂が花札からファミリーコンピュータにいったり、ブリヂストンが地下足袋メーカーからタイヤメーカーにいったりとか。

さまざまな長い時間軸の中で、それまでのやってきたことから次のステップへ進んでいくための思考転換をして、パラダイムシフトを乗り越えて会社が長く続いていると。こういった思考ができないと、今、たまたまうまくいっている事業があっても必ず続かなくなると。こういった訓練をされました。

私たちは100年ビジョンを実現するために進むべき方向性として「乗り物メーカー」になりたくて、そのブランドを立ち上げで、社内で名前を公募しました。

僕も出したんですけど通らなくて、社員さんが出してくれた、2つの英単語(gladとfit)を組み合わせた「glafit」という名前が採用されまして、自分たちのこの先進んでいくブランドを、まず1つ決めることができました。

仲間を増やしてビジョンを実現することを、和歌山から挑戦したいという思いが強くなりました。

(動画再生)

本当は、この時に社内キックオフを行いまして、100年後に向かってどういうふうな会社になるのかを100年後から遡って、今に至るイメージをムービー化しまして、社内で共有ました。2千何十年はこうなってて、2020年はこうなってみたいなのを書きました。

すべての自動車メーカーの原点は「自転車バイク」だった

自分たちの発想として、「さあ、車作るぞ」というところにすごくストレートにいっていました。ずっと車のビジネスをやっていて、トヨタとかホンダみたいな日本を代表する乗り物メーカーになるということで「さあ、車作るぞ」という話になったんですけど、これが2年経ってもまったく事業化の目処が立たなくて。ちょっと発想を変えないといけないような局面に来ていました。

歴史を勉強することはけっこう重要なんだなと、最近改めて思います。今のトヨタとか見ていたら、まったくもってどこから手を付けてあんなになればいいかわからないんですけど、実は彼ら自動車メーカーにも必ず1年目があって。つまりどんな大企業も最初はベンチャーなんですよね。

なんと最初は共通点がありまして、自転車にエンジン付けた自転車バイクが原点なんですよ。商品化したかは別として、トヨタも含めた全自動車メーカー、100パーセントと言ってもいいんですけど。戦後一番最初に取り組んだのが自転車に原動機を付けること。しかも、エンジンですね。

ガソリンのエンジンを付けた、エンジンで走ることのできる自転車。これが原点です。私たちもまず二輪から挑戦しようということが決まりました。ただし、エンジンではなくて電気です。

戦後当時のガソリンのバイクは、「バタバタ」というネーミングだったらしいんですけど、私たちは「ハイブリッドバイク」という名前にしようと。自転車と電気のハイブリッドということで、「ハイブリッドバイク」という名前で再定義すると。

自分たちの次の一手はこれだと定めて、卒業試験もこれをプレゼンしました。大久保さんに「素晴らしい。ぜひやってください」と言っていただいて、卒業したのが2015年でした。