オンラインで中途入社する場合の「最初の信頼の構築」

斉藤知明氏(以下、斉藤):ありがとうございます。(予定終了時刻の)11時を過ぎてしまいながらお送りしていますが、篠田さん、もう少しお付き合いください。

篠田真貴子氏(以下、篠田):はい! 

斉藤:まさにその「聴く力をつけていくために」ということもあるんですが、COVID-19によって、バーチャル・オンラインでの会議や1on1が増えちゃってますよね。

そんな中で、オンラインで中途入社されてらっしゃる方って、けっこう「最初の信頼の構築」が難しいなと思います。それは、どう構築していくといいでしょうか。まさに第一歩として。

篠田:いやぁ、本当そうですよね。こういった課題感については、エールでもずいぶんご相談が増えてきました。企業によるとは思うんですけれども、傾向として「仕事の場で、自分の個人的な感情の話をしちゃいけない」って思って、(そういう話をすることが)はばかられる感じがあるように見受けられるのですが。

この観点においては、いわゆる「自分が今、何を感じているか」とか、その感情みたいなところって、めちゃめちゃ大事なんですよね。同じオフィスにいる時は、話している内容自体は業務の話でも、相手の顔色とか所作とかから「今日も元気だな」とか「今日は疲れてるのかな」ってお互いに感じあうことで、チームの理解って進んでたと思うんですけれども。

この非言語のところがだいぶ落ちてしまっているので、そこを完璧ではないけれども、少しでも言葉にして交わしあうということを意識的に入れる必要があるんだと思います。

「生身の人間としての自分」を表現できる場の設計

篠田:例えばエールだけじゃなくて多くの企業でもやってらっしゃると思うんですが、ミーティングの始めに「チェックイン」という時間を設けて。1人30秒から1分ぐらいで本当に仕事と関係なくてよいので、今の自分も感情とか感覚というのを話しちゃう。「今日、今こうやって会議に出てますけど、10時からプレゼンがあって、もうそっちが気になって、気もそぞろです」とか、言っちゃっていいというお約束にして。

そういう一通りが終わったら、それはそれとして、それ以上まったく追求されず。「はい。じゃあ今日の議題」って、ミーティングの本題に入ればいいんですけれども。

というような、本当にその「生身の人間としての自分」を表現できる場をちょいちょい設計して、入れていくことをしないと、こういう課題感というのは強くなるなと思います。

斉藤:結局、話しやすいって「知ってもらえているという安心」なんですかね?

篠田:本当、そう思いますね。どこか大手の人材系の企業さんが公表されていたアンケートで、やっぱり新入社員の方々は「とにかく上司に、自分の個人的な話を聞いてほしい」という要望が、かなり上位に出てきていて。まさにそういうことなんだと思いますね。

斉藤:「雑談(の重要性)」とかも言われたりするじゃないですか。雑談がコミュニケーションにおいてなんで重要なの? ということが、断片的に語られることもあるかなと思うんですけれども。改めて、この心理的安全性が高い組織づくりが、ちゃんと結果を出すために大事なんだというところは、今日接合された気はしました。

聴く力を発揮するためにも、話してもらう場作りが必要で。その話しやすさというところの要素に「雑談ないし、人となりを共有すること」が前提で、必要なんじゃないかなと思いました。

聴くことによって、愚痴・不平不満は強化されてしまう?

斉藤:次の質問では「お二人は」といただいてるんですけれども。「部下の愚痴や不満についても聴きますか? 学習するパフォーマンスが高い組織であれば、スタッフって愚痴を言わなくなるもの? それとも言うもの? どんどん愚痴・不平・不満が連鎖してしまうことは、心理的安全性の阻害になってしまうのかなと思うのですが、そういう心理に出くわしたらどう対処していくのがいいでしょうか?」という質問です。

篠田:なるほどですね。私は「愚痴を言うという行動が強化される」とは限らないなと思っているんです。

斉藤:聴くことによって、強化されるとは限らない。

篠田:そう、そう。それは職場の関係性とかにもよるので、一概に「こうです!」とは……。言い過ぎるのは乱暴だなと思うんですけれども。

エールで行っているセッションの内容も、社外の第三者(が聴き手)だということもあって、関係性が一般に出てくると、わりとみなさんざっくばらんにお話をしてくださって。初めはやっぱり愚痴とかなんですよ。全部で12回のセッションのうち、始めの3分の1ぐらいは、わりかし愚痴とか不平不満がポンポン出て、それをずっと伺ってるんですけれども。いつのまにか勝手に言い終わって、スッキリしてくるんですよね。

そうすると徐々に「そもそもなんで、そういう愚痴を持ってたんだっけ?」みたいな内省モードに入っていかれるんです。すると自分の自己理解が深まって、場合によってはその12回の最後のほうでは「次、これをやろうかな」みたいな感じに変わるんですよ。

愚痴というものを「否定という“意見”である」と捉え直す

篠田:むしろその愚痴を、非生産……。「人間って絶対に不平不満を思うし、愚痴は言うものなんです」という前提に、私なんかは立っていますし。

斉藤:(笑)。

篠田:なんか「それがない人間って、逆に人間としてやや怪しくないですか?」という立場なので。今、申し上げたようなエールの流れというのは、すごく肯定的に受け止めて、結果、そこを自分で受け止めてもらったことで消化できるので、(愚痴・不満が)建設的になっていく。

それ(愚痴・不満)を抑えても抑えても、なんて言うんですかね。それで解消するワケじゃないので。むしろその「なぜ自分が不平を言いたくなるのか?」っていう自己理解、あるいは「職場との関係の理解」が浅いままに邁進するって、心理的安全性が目指す姿とは、むしろ離れるんじゃないか? と、今しゃべりながら感じました。

斉藤:愚痴というものが、たぶん「否定という“意見である”と捉え直す」ということなのかもしれませんね。「現状に対する違和感だったり、不平に対する意見」と捉え直すと、それを聴くとまた相似に考えることができて。その不平に思った経緯だったり、批判的に思っている経緯なんかを取り入れるというのも、これもまた1つの意見であり。それも聴き入れるではなくて、受け止める。

篠田:そう、そう。

斉藤:受け止めた上でディスカッションをしていこうという、そういう順番なんだろうなと思いました。

篠田:まさにそうですね。

斉藤:ありがとうございます。でも、そこはおもしろいですね。聴いてもらっているうちに自分の中でどんどん内省が進んでいって「なんでそう思っているんだろう?」とかが引き出されてくると、変わるチャンスになりますよね。